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宗教法人真言宗
福仙寺
〒750-0018
下関市豊前田町
1-5-11
 
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歴史

当山には毛利長府藩の祈祷寺だった神宮寺の寺宝・什物が今に保存されている 。
この神宮寺は市内城下町長府忌宮(いみのみや)神社の別当寺であった。
明治の廃仏毀釈により当山が神宮寺の本尊・寺宝・什物を預かる事になる(合併)。
(厨子入りの仏たち以外の古文書・寺宝等は全て境内外に保存) 有名な伝説である満珠・干珠の金銀の珠(たま)は一時当山にあったと言われているが 、今は失われている。その伝説は満つる珠・干る珠の金銀の玉が潮の干満に合わせて、濡れたり乾いたりしていたと云われていた。
 
満珠・干珠は神功皇后にまつわる長府沖近くに寄り添うように浮かぶ小さな二つの小島で、忌宮神社の飛び地境内。島の名の由来は神話時代外敵がこの地に襲ってきた時、初めに干る玉を投げ込んで船を足止めし、船を捨てて干上がった地に徒歩で渡って来た敵人に対して、今度は満ちる玉を投げて海の水を元に戻し水攻めで敗退させたという神話にまつわるものとされている。
  
長府の町は大化2年長門の国の国府と言うことで長府と呼ばれるようになり、それ以前は豊浦(とよら)と呼ばれていた。西暦193年仲哀天皇・神功皇后により宮が築かれ一時都が在ったところ。熊襲征服に向かう時に拠点にしたところ。しかし、仲哀天皇がその最中亡くなり、その後宮の跡に神社が造立された。それゆえ忌を使った神社となる。忌の字を使った神社は数多ある神社の中でここだけにしかない。
仲哀天皇崩御のあと神功皇后が新羅を攻略して凱旋したことで知られる。
古来忌宮神社は戦勝祈願の宮(寺)となっていた。別当寺の神宮寺では時の為政者の戦勝祈願として太元帥法の温座行(一時も座を冷まさないでする修法)が盛んに修せられていた。当山にはその修法の仕方や行法次第が残されている。
当山のある豊前田の町名は昔、豊前の国の飛び領地の田圃(細川家の領地)だったことからついたと云われ、寺がその中心で一丁目である。細川家の祈祷寺。幕末にその細川家が豊浦郡豊田町八道から現地に移して現在に至る。細川家は豊前小倉出であって長府毛利藩の客家老。その細川家の奥方の打掛けで作った本堂内陣の柱掛けが今に一対保存されている。その裏書きに本法院殿蓮乗妙華大姉・天明2年4月(約230年前)神宮寺什物施主細川姓当山27世純照代とある。

下関市は明治22年全国最初の31市の一つ赤間ヶ関市として誕生し、豊前田は旧山陽下関駅と北前船の寄港地下関港に近く、関門トンネルが出来るまでは山陽本線下関駅が本州最西端であったところから、大陸に渡るには必ず一泊しなければならないので古くから色町で栄えた町。ここの旦那衆達の寄進により今の諸堂は昭和8年建立となった。
色町の盛んな頃、綺麗どころが豊前田谷の入り口にある紅葉湯(銭湯)に入り、身を清めお寺と紅葉神社に参拝後一日が始まったと言われている。

  

境内続きの紅葉(もみじ)神社は、明治までは当山の鎮守で境内を同じくしていたが、廃仏毀釈で分離され別の宗教法人となっている(今では町内の管理)寺の前の谷筋を昔は紅葉(モミジ)谷と言っていた。紅葉の名所だったと思はれる。
谷の入り口山門下辺りまでは良質で豊富な水脈があるところ。 境内近くに三つの井戸があり、谷の入り口の紅葉湯(銭湯)は地下水を使用していたと言う。元来は霊水が湧く寺という事で福泉(仙)寺と号していた。後に泉が仙に替わる。
戦時中には陸軍がまず水質を調べ、大陸に近い(本州最西端)と言う地の利と合わせて大陸に物資を運ぶ関東軍暁部隊が当山に駐屯した。
  
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