(クリックすれば拡大します:大日如来です 青山社:さし絵素材集のソフトから)
Q:お葬式をする意味を教えてください。 A:まず 一口で言えば、 二度とこの世に帰ってくる事のない、死者との永遠の別れをつかさどる最後の儀式と定義づけられます。 死者に対する尊敬と畏(おそ)れ、この二つを調和させて死者をあの世に送る。それが葬儀でしよう。 真言宗の立場で言えば、 お葬式は菩提寺の住職(引導阿奢莉)が引導作法によって宗教的作法し、亡きお方を成仏させ、仏の世界に導く事です。 だからお葬式とは、 この引導作法に告別式が加わって、同時に行なわれる事を謂います(主体はあくまでも引導作法です)。 葬儀式は宗教儀礼、告別式は社会儀礼です。それを同時(あわせて1時間以内)に執行するのが、今日では一般的です。 真言宗の葬式は、広辞苑にあるような「葬式≒死者を葬る儀式」と言うような、単なる意味ではありません。 【参考:「漢字源」に葬とは、 古代中国の経書の一つ『易』の中に 「昔の埋葬は草木で死者を厚く包み覆った」と書かれているように、「葬」は「艸(廾≒草)が上下二つ+死」で 生い茂ったくさむらに 草の敷物を置き、また死(死者)をその上に置き 更に(廾≒草)で隠し去ることを表しています。 以上のように(草で隠す)事から「草の葉の下の意」≒「草葉の陰」となり、墓の下、あの世「草葉の陰から見守る。(墓の下から見守る)」と言う言葉になっていったのでしようか??? 【「礼記」には「葬とは蔵(ゾウ)なり」とある】とあります。だから有史以来【葬式とは簡単に言えば「蔵(ゾウ)」となり「隠す」ことなのです。】 これらが辞書での意味です。 真言宗で言えば、導師によって引導を渡たし成仏させます。 葬式後から初めて「南無過去精霊」とお唱えし、拝む対象にされるのです。 それは引導作法によって、始めて即身に成仏するとされるからです。 48日忌までの後祀りの祭壇には、 葬儀社はよくお遺骨を中心にして祀ってくれますが、お位牌が中心になるべきです。 葬式が済んだら、お位牌が主体になります。
(参考:「南無」とは帰命・敬礼の意「身命をささげて帰依し、敬礼する事」)
(参考:多くの地域では葬式を済ませて荼毘に付しますが、荼毘に付してから、その後葬式をするという地方もあります。密葬を済まし荼毘にし、その後本葬にうつる場合もあります。) (余話:「ウグイス」は、葬式の隠語として使われる。泣(鳴)きながら埋め(梅)に行くからのようです!。
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「千の風になって」と言う歌が流行っております。 「亡くなった人は お墓にはいません・♪・♪・」と 自由自在にいろんな物になって、何時もあなたの周りにいて、慰めてくれますと歌います。 真言宗では成仏させる事を主眼として、死者の霊を迷わせることなく、即身に成仏させて安定させる儀礼をします。 それで、 亡くなった人に引導作法を行なえば、以後「仏」と言われるのです。 それが真言宗のお葬式の「引導作法」です。 故に、 成仏された故人(霊魂)は、いろんな物になって変化(へんげ)するほど、色々迷ってはいないのです。 だから遺された遺族も、同じ境地で有るべきです。 「鳥になり・光になり・風になり・雪になり・♪・♪・いろんな物になり」とは「迷いの心」が、そうさせると解釈されるからです!! (秋川雅史の歌唱力に惹かれる 心情は分かりますが!) この歌を調べてみると、 戦死した彼を想って、一時的に追想するもので、初めイギリスで歌われだしたものだと云います。 また既にあった詩を或る葬儀で、俳優のジョン・ウェインが朗読したという話や、女優マリリン・モンローの25回忌にも、朗読されたという話もあります。 さらに19世紀末に、米国に渡った英国人が残した詩という説や、米国先住民から伝承された詩など、様々な諸説があるようです。 所謂、原詩は作者不詳で、日本では秋川雅史が歌い、一気に有名になりました。新井満と言う人が日本語での訳詩を付け、自ら作曲を務めたことにより生まれた曲のようです。 新井満と言う人のサーチ【search】して見ました。趣味として世界中の著名人の墓参りをして来たそうです。著書の一つに「自由訳般若心経」があります。
【この歌は過ぎ去ったことに思いをはせ、過去をしのぶ追想にすぎないのです】
★===================================☆ 「鳥になり・光になり・風になり・雪になり・♪・♪・」とは、単に、 「死というものを受け入れがたい、納得しがたい」という、発露現象(心の中にあるものや、隠れていたものがおもてに現れ出る。)の一つと言えます。 故に、 心の中にあるものや、隠れていたことがおもてに現れ出ること、そのことは故人(霊魂)も、遺された者も同じく、「千の風」≒「ちじ(千々)に迷った心(風)」≒「残された人が複雑な悲嘆にくれる」ことだと言えます。 段々と「単純な悲嘆」に戻して行かなければなりません。 謂わんとするところで大事なのは、遺族は成仏を祈り、 死を納得することから癒しを得て、悲しみを抱えながら乗り越え、(故人を忘れる事とは違います。) 次第に離別を終え、供養を重ねて行くことによって、遺族自らが、次に新しく生きていく道を進むことなのです。それが真言宗で行なわれる葬式の本来の意義です。
仏教的に言わなければ、 葬儀をして「あきらめて行く」ことだと言う事かもしれません。 「あきら(諦)める」という言葉には本来は、仏教の言葉で「明らかにする」という意味があります。 「あきらめる」というよりも、「とらわれない」と考えたほうがいいのかもしれません。 出世にとらわれない。お金にとらわれない。特定の人にとらわれない・・・です。 何かにとらわれない自由な心で、自分なりの生き方を選択できるように、なれたらいいのではないでしようか? 葬儀後の段階になると、愛する人はもうこの世にはいないという、つらい現実を「あきらか」に見つめて、死を受け入れようとする努力を始めます。 死の受容は、ただ運命に押し流されるのではなく、事実を積極的に受け入れて行かなければならない事なのです。 ☆=================================★ 最近「生前葬」をする人がいるそうです。「生前葬とは生きている間に自分のお葬式を済ますこと。」 「生前葬」をするのは自由だけど、 それは「葬」と言わない方がいいのでは!? 何か別の言葉にしたら!?と思います。 初に書いたように、 少なくとも、「漢字源」にそぐわないと思います。 :「漢字源」に葬とは【古代中国の経書の一つ『易』の中に、「昔の埋葬は草木で死者を厚く包み覆った」と書かれているように、「葬」は「艸(廾:草)が上下二つ+死」で生い茂ったくさむらに敷物を置き、また死(死者)をその上に置き(廾:草)隠し去ること:を表しています。 「礼記」に「葬とは蔵(ゾウ)なり」とある】ことなのですから! 「蔵(ゾウ)」とは「隠す」ことです。 少なくとも「葬」の字をつけない方がいい !! そう思います。 生前葬をして直ぐ、自らお隠れになるのなら別ですが!!!? そんなことは人騒がせでしかありません。 ☆====================================☆ また、 お遺骨をダイヤモンドにして、遺すという記事を見ました。 特許を持つアメリカに遺骨を送り、ダイヤモンドにして貰うのだそうです。そして首飾りに!!!。 骨の中から炭素を取り出し、超高圧・超高温で出来るようです。 それは単なる炭素原子です。 そうなると、 はや、故人と特定する物ではないのでは…!。 自然界に沢山存在する、単なる炭素原子となんら変わる物ではありません。 「だから特定の遺骨≒そのダイヤモンド≒特定の故人とは考えられません !。」 その事は、千の風と同じ感情でしかないのでは!!。 「手元供養」と称して、遺骨やその加工品を身近に置くことで、心のよりどころとしたり、故人との絆を再確認する供養の方法が登場してきています。自宅保管用ミニ骨壺や納骨ペンダント、遺骨から作られたメモリアル・ダイヤモンドなどです。 この方式ですと、お墓はあってもなくてもかまいませんし、流行している樹木葬や散骨では何も残らないので、心寂しいという人にも、向いています。そこには、こういう具体的なモノというかたちに、死者の霊魂が宿っていると感じとる心情が窺われます。 ただし、気になることもあります。 死者と生者の距離感に、従来とは異なる傾向が生じてきている気配も感じられるのです。かつて死者の霊魂は、愛しいと同時に恐ろしい存在でもあったので、いつまでも一緒にいてほしいという思いと、どこか遠くで安定した状態になってほしいという思いが、複雑に交錯していましたのだと思います。
(・・・書き込み中・・・)
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