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■ 74)本当の清朝ラストエンペラーは誰でしよう…? 実は…!2016.3.8

(画は【 click!】で拡大表示)(+)の時更にクリックで拡大。
     
    〓 己亥(つちのとい、きがい)之春 〓
「福 寿」(幸せが多く長寿の意。)
 目出度いことに使われる賀詞。



〓 愛新覚羅(あいしんかくら)、“毓恒(いくかん)”毓継明の書 〓

さすがに能筆家だったと言われた“毓恒(いくかん)”の書ですね!(愛新覚羅家は書家や、學者・芸術の面で、著名な人を多く輩出したことで知られています。)
共箱の箱書きには、
福寿と書いて、直ぐその下に( )して、その中に同じく福寿と書き、その右に“毓恒”が自筆で、平仮名で(ふくじゅ)とルビを振っています。字に力強さはありませんが、王家に相応しい品ある字に思えます!?
外題、(掛け軸の内側を巻いて、上巻絹のところに張る紙片)には、“毓恒”が自筆で「幸福が多く長寿の意。」と、平仮名交じりで説明書きをしています。

《「福寿」は七福神の1人【*1.】福禄寿に由来するとも言います。》
*1.福禄寿(ふくろくじゅ)とは、
以下、サーチ【search】
【*1.七福神の一つ。道教で追い求める3種の願い、福(幸せ)、禄(財産)、寿(長寿)の3徳をそなえるともいわれる。所謂、「幸福」・「封禄(財産)」・「長寿」の三徳を具現化したもののようです。宋の道士、 福禄人(ふくろくじん)とも言われる。南極老人星の化身でもあります。南極老人星はカノープスと云われ、りゅうこつ座α星、りゅうこつ座で最も明るい恒星で全天21の1等星の1つ。太陽を除くとシリウスに次いで全天で2番目に明るい恒星でです。ほ座のδ星とκ星、竜骨座ι星とε星を結ぶと十字架の形になるので、これらの星たちは南十字座と見誤りやすい。このためこの4星を「ニセ十字」と呼ぶ。高度の低さから赤みがかって見えることから、中国の伝説では寿老人の星、南極老人星とされる。単に老人星、寿星とも言う。そのため、この星を見た者は長寿になるという伝説も生まれました。日本では、北極星や北斗七星を神格化した妙見菩薩に対する信仰はありましたが、南極星に関しては、日本の緯度の関係から見ることが出来ないので、南極星を神格化したものはありません。そのためか、福禄寿や寿老人が七福神以外にはほとんど信仰の対象にならなかったようです。七福神の寿老人と同体、異名の神とされることもある。】
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愛新覚羅“毓恒(いくかん)”ご夫婦ともどもお互いの家を訪問するほど、深く親交されていた、当山檀家某氏ご夫妻から、この愛新覚羅、“毓恒”の書の掛け軸を御寄進戴きました。(現在はご主人はお亡くなりになっています。ご主人の供養にと、奥様が当山に【*2.】御寄進されたものです。)
*2.寄進(きしん)とは、
物を寄せまいらせる」の意で、寺院や神社などに土地や金銭、財物を寄付することです。寄進の類義語に「勧進」があり、「勧進」が人に勧めて金銭や物品を奉納せしむる行為であるのに対し、「寄進」はみずから進んで奉納寄付するというニュアンス上のちがいがあります。寄進の趣旨や品目などを書いた文書を寄進状という。寄進される財物は寄進物とよばれ、日本では商人・有力者や大名から、太刀や甲冑、弓矢などの武具や馬、米、銭貨などが寄進物となった。一般人からも寄進されてお寺に残り寺宝として保存されて行きます。
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奥さんは大陸(中国)生まれですが,いろいろな事情があり姉妹二人だけで帰国されています。その後愛媛・道後温泉で或る旅館をしていた叔母さんに育てられます。
母方森家の祖父は地元に尽くされた知名士。その祖父は『※中村正直』の同人社でまなび,帰郷して愛媛県会議員となる。明治29年(33才)で失明するも、31年郷里余土(よど)村(現松山市)で日本で初めての盲人の村長村長となり,耕地の改良,青年教育をおこなうなど村の発展に尽くした人。「愛媛新聞創始者・余土村(よどむら)の森天外“森盲天外”」・「余土村(よどむら)は、愛媛県伊予郡のち温泉郡(道後温泉)にあった村。」
幼少の頃から正岡子規と交流があり「天外」という俳号を貰うが、.失明後は自ら「盲天外(もうてんがい)」と名乗った。地元では“盲天外”さんと親しまれ呼ばれた人。地元では知らない人が無いほど…。元治(げんじ)元年、当時余土村(愛媛県伊予郡のち温泉郡にあった村。昭和二九年松山市に編入)と呼ばれたこの村の庄屋の長男として生まれました。明治維新の四年前のことです。 子規の弟子で俳句も多く残した。

『※中村正直について、
明治時代の教育者、啓蒙学者。正直は昌平坂学問所に入り、佐藤一斎にについて儒学を学びました。大蔵省翻訳御用・女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)校長・東京帝国大学教授・貴族院議員などに歴任しました。また、訓盲院の開設など女子教育や障害者教育にも力を注ぐ。』

“森盲天外”のことは平成2年5月に、nhk教育テレビの「こころの時代」で放映されています。「一粒米(いちりゅうまい)の教え」のことについては、ネットで「一粒米の教え」 と入力すれば説明されています。また、余土村で検索しても“森盲天外”のことが多く取り上げられています。。
両目を失明した後、失意の中、正式には出家すことなく(正規の得度式をせず)比叡山で修行します。比叡山から帰郷し、一粒の米を手にして心眼を開きます。
森盲天外は、本名森恒太郎(もりつねたろう)。
【※】正岡子規・夏目漱石・新渡戸稲造等と交友があり、子規からは“天外”と俳号をもらいます。失明後は自ら「盲天外」と名乗る。(【新渡戸稲造(にとべいなぞう)と親交をもっていました。新渡戸稲造は、盲天外の『一粒米』に序文を寄せて、その思想に大きな感動を覚えたと書き記しています。)
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【※】子規のことを檀家さんのこの奥様はお母さんや祖父・祖母から、子規は食い意地がすごく大食漢だったという話をよく聞いていたと話しておられました。
奥様ご本人は山頭火が道後温泉旅館の前に托鉢に来ていたことをよく見たと懐かしく話されてもいました。
この奥様は私とは同世代です。奥様のご両親の話を聞きましたが(ここには載せませんが…)多く感動するファミリーヒストリーがあります。
奥様の父方は元薩摩藩士(内藤家)で、祖父は琵琶湖疎水工事に携わり功績を残された家柄です。しかし、事故で殉職されています。
お父さんは大陸(中国)で終戦直後まで裁判官を務められていました。裁判官の鑑となった話があります。しかし両親の帰国はなりませんでした。この内藤家(祖父・お父さん)にも教科書に載せるようなファミリーヒストリーがあります。(ここには載せません)

一口豆知識@
「子規」とは、啼いて血を吐くというホトトギスのことです。
ホトトギスは口の中が赤いので、それが血に見え、ホトトギスは血を吐くまで鳴き続けると思われていていることから…。
一口豆知識A
以下サーチ【search】
慶応3年(1867)、松山市新玉 町に藩士の子として生まれた正岡常規。 幼い頃から優秀だった彼は16歳で上京、帝大国文科に進学する。 だが明治22年、吐血して結核性脊椎カリエスを発病。 これ以後、「泣いて血を吐く」ホトトギスを意味する『子規』を号し、 俗化した俳句の革新につとめ、35歳で亡くなるまで多くの俳句や俳論を残した。

一口豆知識B
以下『平凡社世界大百科事典』より
ホトトギスは、キョッキョ,キョキョキョ”と鋭い大きな声で鳴き,この声は“テッペンカケタカ”とか“特許許可局”とも聞こえる。初夏を告げる鳥としてよく知られ,昔から短歌や俳句によく詠まれている。
ホトトギスは季節の節目を告げる〈四手の田長〉としてその初音が待たれる一方,俗に〈一日に八千八声〉という昼夜をおかぬその鳴声が陰気で悲痛に聞こえるというので,〈死出の田長〉であるとも考えられた。ホトトギスを〈魂迎え鳥〉とか〈冥土の鳥〉とか呼んで,霊界との関係が深い鳥とみなす例は多い。また,ホトトギスの鳴声をまねるのは禁じられ,これを犯すと吐血して死ぬとかいわれた。
〈四手の田長〉とは、「賤(しづ)の田長」の変化したもので、田植えの時期を知らせる鳥の意であったが、音が変化して「しで」となったので「死出」と当てられ、死出の山を越えて来る鳥の意となった。
というわけで、口の中が赤いという説(鳴いている小鳥の口の中が見えるのかも疑問)はあと知恵というか俗説で、泣き声の特徴からということのようです。

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『ご遺族の御意思通り寺に遺す供養品として寺宝としても、大切に保存して行きます。』
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“毓恒”の自宅は、中国【*3.恭王府(きょうおうふ)】なのだそうです。
【*3.】きょうおうふ=【恭王府】とは、以下サーチ【search】
【*3.中国の首都北京にある。清朝の第8代皇帝・道光帝の第6子で、咸豊(かんぽう)帝の弟にあたる恭親王奕キン(えききん)の邸宅跡。この邸宅はもともと、1777年に乾隆帝(第6代皇帝)の臣下の和坤(わこん)の私邸として建てられたものだったが、和坤は罪を問われて邸宅も没収され、王府(皇族、親王の邸宅)となった。そして、1851年に咸豊帝から恭親王に下賜され、恭王府となった。この建物は、非常に良好な状態で清朝時代の王府の姿をとどめている。ただし、一般公開されているのは、面積2.8haの「翠錦園」(すいきんえん)と呼ばれる庭園(花園)のみで、邸宅内部は非公開です。翠錦園は、北方の建築に江南の庭園様式を融合させた名園として高く評価され、国の重点文物保護指定を受けている。山水にあずまやを配し、北方建築と江南の造園技術をミックスした名園。一番高い邀月台からは重要文化財の庭園「翠錦園」の全景が眺められる。1766年から20年の歳月を費やして完成。南北150m、東西170mに31の建物が立ち並ぶ大邸宅。】
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当山檀家某氏の市内にあるお宅には、毓恒ご夫妻と深い親交を示すように、床の間には毓恒の立派な水墨画と、玄関には毓恒の額入りの【*4.】赤鍾馗(あかしょうき)の立派な画があります。大きな画で額。オレンジ色に近い薄い赤で描かれた鍾馗です。
袋に横たわって昼寝をしているように、袋に左腕を掛けて、両足を横に投げ出し一眠りしているような姿に描かれていて、そこに篆書体で賛が書きこなれています。その姿は怖い鍾馗ではなく、日本的な感じのするユーモラスな大人しい画です。
【*4.鍾馗(しょうき)は、主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神。鍾馗の図像は必ず長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな眼で何かを睨みつけている姿です。日本では室町時代から信仰され、端午の節句にまつられるようになり、江戸時代には武者人形にとりいれられ、五月人形に登場するようになります。赤は、中国では縁起が良い色、金運をもたらす色、魔除けの色とされるので、赤鍾馗は迫力を感じます。石見神楽には演目に、鍾馗を扱っているのがあります。】
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以下≪    ≫内は、この軸が収まっていた箱内の説明文(ワープロ文)より…
≪私と愛新覚羅氏との出会いは、北京市に於いて褐囃イ神戸前社長故水谷氏の紹介でした。以後昭和61年秋初来日、下関の中山神社内にある愛新覚羅宮に本人・夫人・大使館員とで参拝されました。以降東京芸術大との宮廷音楽の合同演奏会を東京武道館で何回か開催されました。一度彼の北京の実家(少年時代を過ごした)恭王府に妻と招待された時その素晴らしさに驚かされました。彼の実子は中国政府の命により、愛新覚羅の姓を引き継ぐ事が出来ず別の姓でした。彼が言うには「※私が本当のラストエンペラー(愛新覚羅)ですよ」と…以前日本橋三越デパートにおいて中国展示会を開催されたときに、三越の方が愛新覚羅氏は絵・書・漢詩・宮廷音楽の中国での第一人者ですが特に書がいいですよ。それに色紙ではなく、中国半紙に書いているのが最高ですよとの事でしたので、この度彼にお願いしたところ、快く引き受けてくださったので、それを京都で表装したものです。
彼の経歴“この軸が納めてあった共箱内の漢文”の日本訳は、下関市大助教授(中国人)にお願いいたしました。
《 愛新覚羅、“毓恒;(いくかん)”継明は愛新覚羅の末裔ですが、【*3.】溥儀の弟(溥傑)ではなく、溥儀の祖父である王奕キン(えききん)。( えきけん)の兄弟、王奕キン(えききん)の3世に当たります。愛新覚羅(毓継明)―1930年北京恭王府生まれ。清朝道光皇帝の5代の孫。曽於祖父は【*5.】恭親王奕(えききん)。祖父は載N(さいえい)。叔父は溥儒(ふじゅ)。父は溥傑(ふけい)である。
毓恒は幼い頃から、書畫家で學者、教授、の叔父の溥心(ふしんよ)の影響で、絵が大好きで中学校の頃から、漫画を描き初め、時々北京の<新民報>に発表する。1953年北京師範大学美術工芸学部卒業後、出版社・新聞社の美術編集者の美術編集者、美術工場の技術長などを歴任した。1981年<中国美術家人名事典>に掲載され、1988年中国美術協会と日本の天明堂株式会社共編の<中国美術名鑑>の中にも彼の名書きされている。毓恒は芸術分野では足跡をたくさん残しており、50年代から60年代の間、彼は絵本や挿絵の創作をし、絵本は<溌水節><駱駝祥子(しょうし)>など百作以上あった。六十年代の末、彼は民間工芸品のデザインも試みた。83年彼と仲間3人で共著した本<中国の凧>中国人民体育出版社の編集によって日本でも、中国でも出版されている。彼はまた映画にも興味をもち、下って名監督凌子風の監督した映画<駱駝祥子><春桃>。林汝が監督した映画<四世同堂>の時代考証の顧問を任じられたこともある。毓恒は中国民族音楽の造詣も深く、三弦は得意で、中国音楽院と中央音楽院で教鞭をとったこともある。民族音楽を愛する毓恒は彼だけに出来る“宮廷古曲”を惜しみなく教え子の中央音楽院の三弦講師談龍建女士に授け、一九八八年七月一三日に北京音楽ホールで愛新覚羅・毓恒三弦伝譜音楽会も開き、大きな成功を納め、音楽界に大きな反響を起こした。故溥傑先生が前書きされた<清故恭王府音楽愛新覚羅・三弦伝譜>という本も、現在中国音楽出版社により出版され、中国録音画出版本社でカセットテープにされている毓恒はいま北京市豊台区政協委員・文化部恭王府管理処の顧問であり、中国画の創作を専門として励んでいる。彼の画く人物画や花・なかでも山水画は多くの先人の影響を受けながらも自分の画風を確立し、国内外の人士に高く評価されている。日本の友人の中にはその作品に特別の興味をもち収集をしている者も多い。 》
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以下、サーチ【search】して纏めたことは、正確ではないかもしれません。
咸豊帝の没後,同治帝が5歳で即位すると,恭親王とはかり,クーデターで反対派を一掃,東太后とともに摂政となった。
皇帝との間に男子を産んだ西太后(せいたいこう)に対し、東太后は皇帝の正室となったが男子(世継ぎ)を産むことがかなわなかった。それでも儒教の論理や明の洪武帝の祖法のしきたりにより東太后は次期皇帝の嫡母となることが決められており、西太后自身は生涯において皇后になることは出来なかった。咸豊帝崩御に伴い同治帝が即位すると、皇后は皇太后として「東太后」となり、同治帝を産んだ生母も皇太后となり「西太后」と呼ばれるようになったようです。
同治帝は子供を残さずに死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。この場合名前に「載」の字がある世代は、皇帝候補者とはなり得ない。しかし、自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り、他の皇帝候補者よりも血縁の近い妹の子(父は醇親王奕キン)載サイ(さいてん)を光緒帝として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。
1881年、45歳の東太后が突然死去した。公式発表は病死であった。民間はもとより清朝高官にも公然と懐疑を表した者は多いが、脳卒中と考えられている。当時正妃の子でなければ皇帝になれなかった。また1884年、清仏戦争敗北の事後処理に際し、開戦に危惧を表明していた宗室の実力者恭親王奕キンへ責任を被せ、失脚させた。奕キン(えききん)の3世に当たります。愛新覚羅毓恒咸豊帝(かんぽうてい)の妃,同治帝の母の側室であった西太后は72歳で崩御。咸豊帝が32歳で結核で亡くなると、西太后は甥の光緒帝の後継者に、帝の弟である醇親王載サイと、寵臣である栄禄の娘との間に出来た幼い子(溥儀)を指名した。この溥儀が一般的にはラストエンペラーと一般に云われています。
愛新覚羅“溥儀”は、当時強い権力を持っていた西太后が、甥の光緒帝を暗殺して、1908年に光緒帝の後継者として、西太后自らが権勢をふるうことに利用しようと、わずか2歳10か月で、西太后に皇帝に即位させられ、清朝の第12代・宣統帝(せんとうてい)とさせられます。西太后は、すさまじいばかりの権力欲と独占欲の持ち主だったことで知られる。彼女の履歴は18才で後宮に入り、権力の座に着いてから実に半世紀もの長きに渡って中国最後の清王朝に君臨した。この権力掌握の長さは前代未聞のようで、「西太后」という映画の中で、夫であった咸豊帝(かんぽうてい)が愛したといわれる麗妃の手足を切断し、瓶に入れて生かしておいたという、身の毛もよだつシーンがあるようです。(このことは真実ではないとも云われますが?)彼女は、悶え苦しむ麗妃の姿を見て満足し、また気性の激しい彼女は、正室を毒殺し、光諸帝(こうしょてい)の側室を、多くの人間の見守る中、生きたまま井戸に投げ落として殺したとも言われています。西太后は呂后や則天武后とともに、中国史上稀代の三大悪女とも言われます。加えて溥儀は、満州国皇帝として、日本の傀儡政権として利用される運命になりました。第12代清朝皇帝の溥儀生誕(1906年)に、清朝の第11代皇帝光緒帝の皇弟である醇親王載サイと、光緒帝の従兄弟で、西太后の腹心栄禄の娘である瓜爾佳氏・幼蘭の子として、清国(大清帝国)の首都である北京に生まれる。なお、祖父は愛新覚羅奕キン・曽祖父は道光帝となる。
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“毓恒”が「最後の正当な清朝ラストエンペラーは、私ですよ」と言われた理由を、考えてみました?正確ではないかも知れません?・・・以下、サーチ【search】しながら、
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【西太后】(1835〜1908)
清の咸豊帝妃で、同治帝の母。清末期の権力者です。
清朝の咸豊帝の妃で、その死後、わが子同治帝と甥の光緒帝の二代にわたり皇太后として実権を振るった女性。その支配は1861年から亡くなる1908年までの約50年におよび、清朝末期の宮廷、紫禁城の主として隠然たる権勢を誇った。
1861年咸豊帝死後、西太后・東太后・恭親王は結んでクーデターを起こし、東太后と西太后が同治帝の後見として【*5.】垂簾聴政を行い、恭親王が議政王大臣として政治を補佐するという三頭政治を行ないます。が、東太后はあまり政治に関心がなく、実質的には西太后と恭親王の二頭政治でした。 次ぎ、1881年悪女西太后によって東太后、恭親王共に失脚させられ、実権を握ったようです?。
【*5.垂簾聴政(すいれんちょうせい)は、皇帝が幼い場合、皇后・皇太后のような女性が 代わって摂政政治を行うこと。中国で、女性である皇太后は、朝臣と直接対面するのを避けるため、皇帝の玉座の後ろに御簾を垂らし、その中に座っていたことから、このように呼ばれた。】
そのように、溥儀は西太后が権勢をふるわない限りは、わずか2歳10か月で、清朝の皇帝にはなれませんでした。
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西太后が当時の実力者、恭親王奕へ責任を被せ失脚させなかったら、恭王府奕(えききん)の3世に当たるこの書を書いた“毓”が「最後の正当な清朝ラストエンペラー」といえる?のでは?
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愛新覚羅とは、以下サーチ【search】
[中国清朝王室の姓。漢字は満州語アイシンギョロの音表記。アイシンaisinは金,ギョロgioroは骨族,名門を意味する姓。清の建国者ヌルハチが金朝になぞらえて王室の姓とし,以後清の滅亡まで使用される。]「金の覚羅一族」を表す。漢字は満洲語読みに対する当て字であり意味は持っていない。1908年12月に、西太后が光緒帝の後継者として愛新覚羅溥儀を指名したことにより、溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代宣統帝かつ紫禁城に居を構える最後の皇帝となる。清朝滅亡後、愛“新”覚羅氏の多くが漢語に翻訳した「金」姓に取り替えた。(なお、愛“親”覚羅は誤字。)愛新覚羅氏の家系は代々書畫家・芸術家を多く輩出しています。
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百科事典マイペディアの解説では、
中国,清朝王室の姓。漢字は満州語アイシンギョロの音表記。アイシンaisinは金,ギョロgioroは骨族,名門を意味する姓。清の建国者ヌルハチが金朝になぞらえて王室の姓とし,以後清の滅亡まで使用された。
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【*1.下関(綾羅木)中山神社愛新覚羅社は、祭神は愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ、清朝愛新覚羅溥儀の弟)と、妻の嵯峨浩(さがひろ、中山忠光の曾孫)および2人の長女愛新覚羅慧生( - えいせい)。浩の遺言にしたがって当地に祀られています。】

【※】子規の病気、以下サーチ、
子規の献立のスタンダードは、病床の子規が『仰臥漫録』を書き始めた食事メニューだがあるほどです。 子規は痩身なれど無類の大食漢だったようで、痩せの大食いを絵に描いたような食べっぷりには、まるで寝たきりの病人らしからぬ、そのあまりの豪食ぶりは食欲旺盛というより、異様なほど病的なものだったことが窺えるんだそうです。食べ過ぎで苦しく、食後は吐いてまでも食べていたようで、腹痛も起こし、鎮痛剤まで飲んでも尚も食べ続けていた。それも、小食や断食すればゆうゆうと快復することをまったく知らずに、ただ迫りくる病魔に打ち勝つために、猛烈に過剰栄養を摂る為に食べ、まさに這いつくばっても餓鬼のように鬼気迫る食生活を続けていた。

子規の病んだ脊椎カリエス、

子規は若くして吐血し、結核に罹患。さらに追い打ちを掛けるように脊椎カリエスの病魔に襲われる。「カリエス」とは「骨の慢性炎症」という意味で、脊椎骨が侵され、破壊され、変形する病気だ。さらに膿が身体の各部に溜まり、漏れ出る。そして、「打痛・圧痛・神経痛・運動麻痺などを伴う」、激痛を伴う疾患である。
子規は一度に菓子パンを十数個、柿や梨なども十個前後も貪る大の甘党であった。菓子パンには砂糖が、果物には果糖が含まれる。糖分の異常なまでの摂取によって、骨からカルシウムが取られ、骨はスカスカに脆くなる。

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一粒の米 盲天外(もうてんがい)


「一粒の米」は、森盲天外(恒太郎)の言葉です。以下サーチ【search】
盲天外は、31才の時、眼の病気にかかり、33才には両方の目が見えなくなってしまいました。盲目となった盲天外は、大変嘆き悲しみ、自殺を三度もしようとしました。


ところが、ある日、ごはんを食べていると、盲天外のひざの上に「一粒の米」が落ちました。それを指でつまみ上げた時、盲天外は「はっ」と気がつきました。盲天外、34才の時のことです。


盲天外は、一粒の米を指で練りながら考えました。この米は、練れば練るほど粘くなり、強くなる。人間が食べれば、栄養となって血をつくり、骨を育て、筋肉を増やす。一粒の米は、ただの米でありながら、その姿を様々に変えて、限りなく自分の値打ちを高めているのだ。
 

また、たった一粒の米といえども、これを種として育てると、何年か後には大量の米となる。そして、人間に大きな幸せをもたらすのだ。

盲天外は、「一粒の米」を通して、希望を持って、明るくたくましく生きることの大切さを知ったのです。
 

余土に暮らす私たちが、盲天外の「一粒の米」から学びたいのは、次の三つです。

 一 姿を変えていく「一粒の米」のように、私たちも今の自分に満足 せず、向上の努力をしよう。
 一 「一粒の米」にはかくれた力があるように、私たちも自分の力を信じてたくましく生きよう。
 一 「一粒の米」が大切なように、自分や友だちの命、自然を大切しよう。

盲天外のこのような考え方は、盲天外45才の時に書かれた「一粒米」という本に述べられています。
碑文の文字は、盲天外が盲目になった後に書かれたものです。 (一粒の米の碑文から)