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■ 73)「如来(仏)の手には、水掻きがあるのを知っていましたか?」=玉の輿の京都、八百屋の「お玉」(桂昌院)&哀れな江戸の八百屋の「お七」。2016.1.18

(画像は【 click!】で拡大表示)


「普段の安置場所から、撮影しやすいように移動しています。」

当山に坐身丈:僅か21センチの小像があります。蓮台と接する、坐像本体の真下の墨書銘には縦書きで、
              糸ふや? 
         天和三年(1683)大仏師□□□
         釋  迦  如  来  像
         亥壬 五 月 吉 祥 日
とあります。 
大仏師名の□□□は墨が薄れて判読できません。(坐身丈:僅か21センチの小像ですが、仏師の彫が確かなので、存在感ある如来です。小さいながら光背も見事で、如来像を引き立てています。この光背は、全体に雲渦彫り?となっています。
「大仏師とは、多数の仏師(小仏師)を従えて、大規模な仏像製作にあたった責任者。」

「右手は*1.施無畏印の印相。」「左手は*2.与願印の印相。」それはお釈迦様の印。
【釈迦牟尼=釈迦如来=お釈迦様】
【牟尼】=【(梵語)muniの音写。賢者・聖者の意。寂黙と訳す。】
インドで、山林にあって沈黙の行をする人の称。 釈迦(しゃか)の尊称。釈迦牟尼。
【如来】=【仏教において、修行を完成し、悟りを開いた人の意。仏陀。釈迦牟尼。】
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〓・徳川綱吉時代(1646年 - 1709年)と、よく知られている事件・〓
以下、サーチ【search】しながら、
・天皇は霊元天皇。
・江戸幕府将軍は徳川綱吉。綱吉の治世中に「忠臣蔵1702年、元禄15年」が起こった。
・綱吉の母は京堀川の八百屋お玉(桂昌院)。長じて上州館林藩主となり、兄の四代将軍家綱に世嗣がなかったことから、その養子に迎えられ将軍となった。
・この釈迦如来造仏の2年後に、「生類憐れみの令・1685年」と呼ばれる動物愛護のための諸法令を定めた。
・綱吉の治世時は、以下のように事件・災難が多くありました。
・富士山が1707年(宝永4年)に噴火。
・明暦(1657)3年1月18日≒3人娘がかかわる【振袖火事】江戸期最大の大火。
・この釈迦如来造仏、半年後の天和2年(1683)【天和期に起きた大火=お七火事。】それは歴史に残る江戸十大火事の一つ“天和大火”≒“お七大火”。
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この釈迦如来が、造仏されたその年2か月前の3月29日、江戸品川鈴が森の刑場にて、八百屋「お七」が火刑に処されています。
そのこととこの仏像は、直接関係ありませんが、「お七」の霊を慰めるかのように、この釈迦如来は、同じ年の天和三年(1683)に造仏されたものです。
そのことに言寄せせて、
これから始める八百屋「お七」の話は、この時代の将軍綱吉の生母と、火刑に処されたお七火事の「お七」の親許が、奇しくも、ともに八百屋の出身。他に共通しているところは、「お寺に深い関わりや、ゆかりがあること」です。違うのは出身地(京都と江戸)です。
初めは同じ八百屋の娘で、同じ身分だったが、のち火刑の罪人と、「玉の輿」となる雲泥の差という運命の比較から始めます。【*1.】玉の輿の語源。
【*1.】お玉説。ウィキペディアより。
玉の輿の玉とは、江戸時代のお玉という女性のことだとする説がある。八百屋の娘として産まれたお玉は、三代将軍徳川家光の側室となり、五代将軍となる綱吉を産んだ。綱吉が将軍となった後に、官位は従一位となったが、これは春日局の従二位すら超えており、女性としては最高位である。八百屋の娘が将軍の側室となることによってそのように登りつめたことより、玉の輿の語源はこのお玉だというものである。しかし、これは俗説に過ぎないとの意見もあります。
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綱吉の生母は、京堀川の八百屋の「お玉」。のちの「桂昌院」だし、お七火事で火刑になった主人公は、江戸・八百屋の「お七」で、ともに八百屋の出身。同じく商家の身分で、当時としては裕福だったようです。
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八百屋「お七」の事はのちほどにして、徳川綱吉生母、八百屋の「お玉」=後の『(桂昌院)』のこと。
以下nhk歴史秘話ヒストリア参考にして、
京都で八百屋だった父が亡くなり、支えを失った「お玉」と母はのちに、京都西山の西国三十三観音霊場、大寺・善峯寺(よしみねでら)に奉公に出ます。そのきっかけは、亡くなった父が本庄家に野菜を収めていた縁からで、「お玉」に最初の転機が訪れるのは、下級武士・本庄家の養女になったからのようです。亡くなった父が本庄家に野菜を収めていた縁からでした。「お玉」の母は八百屋をたたんで、本庄太郎兵衛宗正のもとへ「お玉」を連れて奉公に出ます。母はやがて宗正の後妻となり、本庄宗正がお玉の義理の父となりました。それからがシンデレラストーリーの幕開けのようです。
それから「お玉」は、本庄家の紹介で公家出身の尼僧の【*2.待女】となります。13歳のとき「お玉」は最大の転機を迎えます。尼僧のお供で江戸城に登ります。公家出の尼僧が高貴な寺院の責任者になった挨拶を将軍・家光にする為でした。
【*2.貴族または上流階級の婦人に、個人的に仕えて雑用や身の回りの世話をする女性。】
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以下nhk歴史秘話ヒストリアを参考にして、
お供のお玉にとっては、将軍は雲の上の存在、当然お目見えは許されず別室で待たされます。その頃、尼僧は家光に謁見、型通りの挨拶を済ませて早々に帰る予定でした。しかし事態は思わぬ方向へ、なんと家光は尼僧に一目ぼれ、尼僧はお万の方と名を改め、家光の側室になります。そしてお玉も京都に一度も帰ることなく、お万の方の侍女として江戸城で暮らすことになったようです。東京護国寺には、桂昌院お想わす如意輪観音像が祀られています。またこの寺には芝増上寺の徳川家の墓所から、発掘された頭蓋骨から肉付け復元された美しい像が安置されています。更に美しい肖像画も残されています。
とにかく“お玉=桂昌院”は絶世の美女だったのです。
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お玉の入ったのは大奥、それは江戸城の一番奥にある将軍のプライベートルーム。将軍以外、男子禁制、生母を始め、正室、側室、そしてそれぞれに仕える女中など数百人が働く、女の園。
この大奥で働く女中でも、将軍のお眼鏡にかなえば、将軍の側室になる大出世も可能でした。多くは、女性たちにとってシンデレラになるチャンスのある憧れの場所だったことは誰も知るところです。
そしてお玉も成人した19歳の時、家光に見初められ側室となり、やがて家光の子を懐妊します。お玉20歳、後に将軍となる男子を出産します。それが5代将軍、徳川綱吉です。
お玉は、見事男子を出産したのですが、当時すでに家光には2人の男子がいました。将軍の跡目順位は、1番が摘男・家綱、次に二男・綱重となり、お玉の子・綱吉は三番目と将軍になる望みは薄かったのです。お玉は、当時の習慣に習い、出家して桂昌院と名乗りました。桂昌院54歳の時事態は大きく動きます。4代将軍・家綱が突然病死、家綱には子がありませんでした。更に世継ぎ候補の二男・綱重はすでに死去、見渡せば将軍候補は、桂昌院(お玉)の子、綱吉だけだったのです。それで将軍綱吉の生母(桂昌院=お玉)が誕生。
桂昌院=八百屋「お玉」と、八百屋「お七」はかなり年齢差があります。

nhk歴史秘話ヒストリアの桂昌院のことは、別の話もあります。
桂昌院の出生はさだかでないとも言います。武家の娘、落ちぶれた旗本の娘、商家の娘と諸説があります。
一つの具体的な話として、京都は堀川西藪屋町のあたりに、仁佐衛門と云う八百屋がおって、嫁とりをして何年にもなるのに、いっこう子宝に恵まれない。老い先を考えるとさびしい思い、父仁佐衛門は妻を伴つては観音様まいり。「どうぞ子供をさづけて下さい」と参篭、水ごもりもした。一心こめた願いが叶い、やがて生まれたのがの女の子。”たま”と名づけ、大事に育てます。お玉は近所でも評判の器量よしになりました。目元はすずやか、鼻筋も通り、仁佐衛門は目の中に入れても痛くないほどのかわいがりようだったと言います。
「お玉」が奉公に出たと言われる善峰寺の歴史を調べてみると、nhk歴史秘話ヒストリアの桂昌院の話の方が正しいように想えます。

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そんな徳川綱吉の時代、【天和期に起きた大火。】がありました。それは歴史に残る天和2年12月28日の“天和大火”です。後にそれを<お七火事>と云われます。
そのあと、「お七」自らの付け火とされるのが、天和3年3月2日です。
天和2年12月28日の大火=江戸駒込で火事が起こり、江戸でも有数の大店(八百屋)の「お七一家」もこの大火で焼け出され、菩提寺へと避難。
この大火は、後に「お七火事」と云われる歴史に残る江戸大火の一つ。
その後の天和3年3月2日は、「お七」自ら付け火したとされるもの。
この付け火は、誰もが知る「お七」が、避難先の寺小姓逢いたさに、避難後新しく仮住まいを建てた自分の家に夜放火。この放火はすぐ消されるが、江戸時代の付け火は、重大犯罪のため、「お七」はその月の29日、品川鈴ヶ森の刑場で火刑に処せられます。
火焙りで処刑された後、その年直ぐに、この釈迦如来像は、造仏されたことになります。この造仏についての由縁と、「お七」とは直接全く関係ありませんが、天和2年〜3年はそんな時代に当たります。
銘文により作者?・製作年代は明らかです。墨書銘の「糸ふや?」は、仏師集団・親方の屋号なのでしようか?何処の仏師なのでしようか?
京仏師?・江戸仏師?
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「八百屋お七」について、サーチ【search】しながら…以下、
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“お七”に関しても、定説がなく“異聞”が多くあります。
「お七」の相手が、のちの西運(吉三)という和尚です。その木像と、お七地蔵が東京目黒の大園寺に祀られていて、境内の隅には、西運和尚の石碑と並んで、「お七地蔵」が立っているそうです。相手の吉三(西運)は事件後、自殺を図りますが死に切れず、その後、出家してお七の菩提を弔ったと言います。高野山や比叡山を巡り修行につとめ、やがて西運と改めて、目黒に戻って西運堂を建立し、一代の名僧とまでになったと謂われます。
「お七」火刑から3年後の1686年(貞享3年)、浮世草子作者の井原西鶴が、この事件を「好色五人女」の巻四に取り上げて有名となり、以後の文楽・人形浄瑠璃・歌舞伎の題材としても採用され、広く世に知られるようになりました。
御用となったその月、3月29日お七は、品川鈴が森の刑場にて、火あぶりの刑に処されました。当時は放火犯であっても、15歳未満の場合は、当時死罪にならず、遠島や預り置となった。現在でも放火は重罪です。
それで、奉行が若い娘の切ない恋をおもんぱかって、【※】罪一等を減じようと「お前は15であろう?」と質問しますが、 お七は自分の生まれた時の宮参りの記録を持ち出し、自分は16であると主張したというエピソードが伝わっています。
※罪一等を減ずとは、
【※一段下の刑にすると言うことで、死罪→遠島、 遠島→所払い、入牢→お預けなど。火刑は当時の最高刑です。】
役人が何度も、放火ではあったが、大火に至らず終わったので、お七に盛んに「16歳ではなく、未成年の15歳(満14歳)であろうが」と、いろいろ助け船を出しても、「16歳です。間違いありません。放火も私で間違いありません」と、最初から正直に答えます。本当の「お七」はそんな正直で、純粋無垢な乙女だったようです。
そもそも江戸時代には戸籍がなく、歳は申告でいいので、役人の方で数え歳15と、言わせようと仕向けたのでしよう…か?見た目にもあどけさが残る「お七」です。
「お七」自身、当時のことですから、本当の自分の歳を知らなかったのかも知れません。
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時あたかも桜の時期、処刑台に向かうお七に、役人が死出の旅立ちにと、桜の枝を手渡します。
「ありがとうございます。」と微笑みました。
辞世の歌
 <世の哀れ 春ふく風に 名を残し おくれ桜のけふ(今日)散りし身は>
桜の枝を手渡すのは、きっと実際の話でなく、西鶴か誰かの脚色だし、辞世の歌と言われるのも、西鶴か他の誰かの代作でしよう?。

この像のような*1.施無畏・*2.与願印を示す(☆1.印相の)お釈迦様は、そんな正直で、ピュアなお人よしの「お七」の魂を、より高く救われた…!?。ように想います?
*丙午(ひのえうま)生まれの「お七」。一般的に言われる干支の「丙午」としての性格ではなく、「お七」本来の素(す)の性格は、「正直で、純真無垢なお人好し…」だったように想えます。それなのに、たまたま丙午生まれであったがために、「気性が激しい」などと、決めつけられ喧伝されて行ったのだと思います。事件後に世間が、寄って集(たか)って、悪女に仕立てたことになります。
江戸時代は戸籍がなかったので、元々「お七」が本当に、丙午生まれであったかどうか、疑問なのです…。そのことからも、「丙午の女」の性格は全く根拠のないものの一つです。
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☆1.印相(いんそう、いんぞう)は、ヒンドゥー教及び仏教の用語で、両手で示すジェスチャーによって、ある意味を象徴的に表現するもの。印契(いんげい)、あるいは単に印(いん)とも言う。
*1:施無畏印・*2.与願印の印相とは、
右手の施無畏印(せむいいん)。この形は,畏(おそ)れることのない状態・力を人々に与えることを示す印です。右手の5指をそろえて伸ばし、手のひらを前に向けて、肩の辺に上げる。
この施無畏印と、セットになることが多いのが、左手の*2.与願印(よがんいん、施与印=施願印)です。この印は、手の形は施無畏印とほぼ同じですが、普通は左手の印で、立像の場合は、下に垂らしています(坐像の場合は、この釈迦如来像のように、掌を上に向け、膝の上に置いています)。人々のさまざまな願いを、叶えることを誓う印です。
この釈迦像は、施無畏印・与願印、両方の印相です。
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「釈迦印」には五印あります。
@施無畏印、(右手の、「手の平」を正面に向けた印。人々の恐怖心を取り除いて、救済をすることを示す印。)右手を胸の前・肩まで上げ、「手の平」を正面に向けた印で、人々の恐れを取り除く事を表わす。右手を施無畏印とすることが多い。
A与願印、(坐像の場合は、左手の「手の平」を上に向け、膝の上に置いています)人々の願を叶えることを示す印。左手を与願印とすることが多い。(立像の場合は、下に垂らしています。)
@とAの印は、右手左手の二つでセットにするのが常。
ここの画の像も、@Aのセットです。
(左手を施無畏印にし、右手を与願印にした印。坐像の場合は左「手の平」を上に向け、膝上に乗せる。これは信者の願いを叶えようというサイン。施無畏印・与願印は、如来像の示す印相として、一般的なものの一つで、釈迦如来にはこの印相を示すものが多い。)
B定印、膝の前で「手の平」を上に向け、左手の上に右手を重ね、親指の先を合わせた印で、釈迦が悟りの境地と、深い瞑想に入っていることを示す印。
C降魔印、(左手をひざの上に置き、右手を垂らして人差指を下に伸ばし、地を指すもの=右手の甲を見せて人差し指を下に向け地を挿す。邪を退け、仏の威力を示す印。)
D説法印、(転法輪とも呼ばれ、両手を胸の前に置き手首を捻る印、鹿野園に於いて初説法をされた時の印。)があります。
なかでも一番よく見られるのが、施無畏印と与願印で二っセットのものです。
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<「お七」と*丙午(ひのえうま):丙午生まれの女性>との関係。
丙午生まれの女性は「気性が激しい」などと、あらぬ疑いを持たれた話。
そのことは、元々江戸の庶民にそんな☆1.俗信があった上に、「うら若い十六才の火付け、市中引き回しの上、火刑という極刑」当時の世に、センセーショナルで、強烈な印象を植え付けた「お七」の事件が、付加されたことによるものだと思います。それは最初に浮世草子に取り上げた西鶴のせいでもあります。
「好色五人女」(3)≪世の人の嫌い給ふ☆1.丙午≫

☆1.「午(うま)は火にて果つる」〜干支(えと)でいう「午の日」には火事が多いということわざがありました。

「好色五人女」以来、強調されて急速に、当時の江戸の人々に広まり、文楽・人形浄瑠璃・歌舞伎の題材として取り上げられ、「気性が激しく、男を食う悪女」のように言われだしたようです。
「丙午の女」というのは、全く根拠のない迷信です。干支による生まれの差別を無くすべきです。江戸時代は戸籍がなかったので、元々「お七」が本当に、丙午生まれであったかどうか、不明なはずです。「丙午の女」その性格は全く根拠のないものです。もう干支による差別はやめましょう。もう過去の話になり、かなり薄れてきたように思いますが…!
でも、何十年か前(1966)・丙午の年が来たときは、女の子が生まれるのを避けて、出生率がかなり減りました。もう次の丙午には、こんなことはないと思いますが…?
 干支について、
 ・干支は60年ごとに巡ります。
 ・年の十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)は12年周期で循環します。
 ・同様に年の十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)も10年周期で循環しています。
 ・そのため同じ干支(えと)の年は、10と12の最小公倍数で60年に一度巡ってきます。
 ・そのため61歳のことを同じ干支に戻るということで「還暦」と言う訳です。
 ・夏目漱石は、小説『虞美人草』の中で、主人公の男を惑わす悪女、藤尾を『藤尾は丙午である』と表現しているようです。

江戸から古くあった「丙午」の俗信とは、
☆1.「午(うま)は火にて果つる」〜干支(えと)でいう「午の日」には火事が多いということわざがありました。
「丙午の女は男を食う」丙午の年に生まれた女性は、結婚すると相手の男性を死に至らしめる、などということわざ古くからあります。陰陽思想によると、「丙〜ひのえ」も「陽の火」、「午〜うま」も「陽の火」で、火の勢いが烈しく強いというところから、「丙午の年には火事が多い」という迷信が生まれ、また、この年に生まれた女性は気性が強いと言われるようになった、とのことです。
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心の安らぎを、仏像に感じるのは、観る人に仏心があるからで、像に宿る仏師の心、さらには像そのものの持っている仏心が、仏の大慈悲という心とで、感応し合っているからだと想います。
仏像の手に、水掻きがあるのをご存じでしたか…?
水掻きを、縵網相(まんもうそう)といいます。如来三十二相の一つに挙げられ、手足指相ともいいます。この像のように右手を上げ,手を開いて指を伸ばし、掌を見せる形を、*1:施無畏印(せむいいん)といいます。この小像でもクリックして拡大し、指を伸ばした右手をよく見れば、水掻き膜で、指と指との間が、一部つながって写っている所が分かります。
この写真の仏像は、小像ですが、かなりの大仏のように見えます。それは小像でも、腕のいい仏師の制作で、彫が良いからだと思います?
この像の光背は、全身を覆う「拳身光」蓮華の花弁の形で、全面にの雲渦彫。舟に似ているので、舟形光背です。

この光背は、頭部にある頭光(ずこう)は蓮華台、身体にあるものを身光(しんこう)の2つとなっています。この合わせたものを二重光背といいます。此の釈迦如来の像は、頭光・身光の周りには、全面に雲渦彫で回らしています。

光背の形状の分類として、光を輪であらわした円光、光を二重の輪で表した二重円光、またそれら円光から線が放たれている放射光、蓮華の花びらを表した舟形光や唐草光、宝珠の形をした宝珠光、飛天が配せられているものを飛天光、不動明王などのように炎を表した火焔光などがある。
光背の種類には、一般的に頭部から放たれる「頭光」、体から放たれる「身光」、全身を覆う「拳身光」があります。
一般的に頭光(ずこう)・身光(しんこう)と二つの部分に分けられます。身光と頭光と合わせて挙身光(こしんこう)といい、身体から出る光を現わし仏像の背後にあります。
この象の「拳身光」は、開いた蓮の華を上から見た(仰蓮)を頭光とし、身光をあわせて、全体を覆うように、瑞雲を全面に刻んで一体にした「後光=光背」なのです。
「仏身から発する光明をかたどった、仏像の背後にある飾り。頭部のものを頭光(ずこう)、身体部のものを身光(しんこう)といい、中国・日本ではこの二重円光式を主体とさせます。さらにその周縁に全体を蓮弁形にすることが多く、これらを併せて挙身(こしん)光といい、御光(ごこう)。後光(ごこう)と言います。」
・光背=後光は、
 「後光が差す」と言う時の後光、聖像の光背や光輪のことで、後光効果、光背効果を 得るためです。
 【後光が差す = ハロー効果】
 ハロー効果とは、心理的効果の一つ。ある対象を評価をする時に、顕著な特徴に引き ずられて、他の特徴についての評価が、歪められる現象のこと。一般にポジティブな 方向への歪みを指すことが多いい。
 ハローとは、「後光が差す」という時の後光、聖像の光背や光輪のことで、後光効 果、光背効果とも呼ばれる。後光は、仏教に限らず キリスト教の聖人図画などにも 見受けられ、宗教全体で普遍的なものであると考えられております。
・蓮台(仏像をのせる蓮の花の形をした台座)の上に、結跏趺坐しています。
・結跏趺坐とは、
 仏教の座法の一つ。左右の足の甲を反対の、足のももの上に交差し、足の裏が上を向 くように組む座法。▽「跏」は足の裏。「趺」は足の甲。
・眼は玉眼(象嵌)です。
 仏像の場合は玉眼といって、仏像の眼をくりぬき、水晶の義眼をはめます。鎌倉以降 の仏像でよく見られ、つややかな透明感が生きているかのような、印象を与えるので 流行したようです。
・白毫(びゃくごう)は、水晶だと思います。
 仏教美術では、如来と菩薩に付けます。明王、天部、童子などには付けない。
 仏画では、白い丸や渦巻きで表される。
 仏像では、
 丸い膨らみで表されたりするほか、水晶・真珠などの宝石がはめ込まれます。
 白毫(びゃくごう)は、
 仏(如来)の眉間のやや上に生えているとされる白く長い毛。
 右巻きに丸まっており、伸ばすと1丈5尺(約4.5メートル)あるとされる。
 眉間白毫とも…。
・肉髻(にっけい)、肉髻相、頂髻相(ちょうけいそう)
 仏像の頭部には、たいてい二重の盛り上がりがあります。
 釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来等の場合は、肉髻(にっけい)と言う。
 頭がこぶのように盛り上がった形になっています。そこにも白毫があります。
 二重に重なった頭は、悟りに達した証とされ、如来のみが有するものとされます。
 仏の智恵を象徴するものとなっています。
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釈迦如来の印相(インゾウ)は、
まず,右手を上げ,手を開いて指を伸ばし、掌を見せる形を、施無畏印(せむいいん)といいます。この形は,畏(おそ)れることのない状態・力を人々に与えることを示す印です。この施無畏印と、セットになることが多いのが、与願印(よがんいん、施与印=施願印)です。この印は,手の形は施無畏印とほぼ同じですが,普通は左手の印で,下に垂らしています(坐像の場合は、この釈迦如来像のように、掌を上に向け,膝の上に置いています)。人々のさまざまな願いをかなえる(ことを誓う)*3.印です。
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:*3:印=印相(いんそう、いんぞう):
仏像の手の組み方や指の曲げ方を印相といいます。インドでは、手・足指で心や意思を表現し、それが仏像にも取り入れられたもの。
印相とはヒンドゥー教及び仏教の用語で、両手で示すジェスチャーによって、ある意味を象徴的に表現するもの。印契(いんげい)、あるいは単に印(いん)とも言います。
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〓仏像の起源〓
以下サーチ【search】してみました。
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ブッダ入滅後、しばらく仏像(釈迦像)はありませんでした。人間の姿で表現するのは、あまりにも恐れ多い事とされていたから、釈迦の仏像造はおこなわれませんでした。
仏像が存在していなかった、暫く入滅後数百年の間、人々は何を礼拝の対象としていたのかっていうと、それはシンボルです。
釈迦の存在を想像させるシンボルを描き、それらを礼拝する事によって、人々は仏教の思想に、至らせる毎日を、送っていたっていう時期があったようです。
そのシンボルっていうのは、『仏足石(ぶっそくせき)』といわれる釈迦の足跡を意味するものとか、悟りを開いた場所とされている『菩提樹(ぼだいじゅ)』など。それらを描いて、釈迦を空白にしたままでも、人々は釈迦の存在と、礼拝の対象として求めていたようです。
仏教が誕生してから約500年間は、インドでは仏像が造られませんでした。釈迦の涅槃後、徐々に釈迦の遺骨(舎利)を崇拝する思想が起こり、その舎利を祀るストゥーパ(仏塔、卒塔婆)が造られ、その周辺に、仏教を学ぶための僧院(ヴィハーラ)も建てられるようになる。
更に時代が進むと、ストゥーパのまわりに、塔門や欄楯(玉垣)が設けられ、その柱や梁には装飾のため、仏伝図(釈迦の一代記)や本生譚(釈迦の前世の修行物語)などの浮き彫りが施された。しかし、人間の姿をした釈迦の仏像は皆無でした。有名な仏塔として、パールフット、ボドガヤー、サーンチーの仏塔(前2〜1世紀造営)がある。
釈迦と表現する代わりに、象徴的な事物で存在を暗示していた。例えば、釈迦がシッダールタ太子の時にかぶっていたターバン、坐っていた玉座、足跡、悟りを開いた時の菩提樹、遺骨を埋葬した墓(ストゥーパ、卒塔婆)などです。
しかし時代を経ると、礼拝の対象としての釈迦の像を望む、気運が出てきました。
それは釈迦の滅後4、500年もたった紀元1世紀末ごろのことです。
西北インドのガンダーラで、続いて紀元2世紀に、中部のマトゥーラで仏像がつくられました。
6世紀半ば、朝鮮半島の百済からはじめて日本に伝来した仏像が、釈迦如来像だったと伝えられています。
仏像は、北部インドのガンダーラや中部のマトゥーラ、南部のアマラーバティで、時を同じくして釈迦像をつくられはじめました。
ガンダーラでは、ギリシアの神像の影響を受けて、
その姿勢も西洋的な仏像がつくられました。マトゥーラやアマラーバティでは、純インド的な仏像をつくって、「菩薩」と呼び、あがめるようになりました。  
一方では南下してセイロン(スリランカ)やビルマ(ミャンマー)に、他方では北上して、アフガニスタンを経て中国西域地方へ伝わっていきました。
南下した仏教は、上座部仏教といわれ、釈迦の教えを改変することなく、忠実に守ろうとする人々によって伝えられ、比丘(黄衣をまとった僧)を中心としたその教団は今日に至るまで、釈迦を唯一の先師とあがめ、仏像といえば釈迦像のみをまつっています。
中国、朝鮮、日本の大乗仏教においては、いろんな仏像が創られて行きます。
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ー参考ー
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど火事の多いい江戸でした。
江戸の大火で有名なものに、他には日本史上最大の明暦の大火があります。
明暦の大火(めいれきのたいか)とは、明暦3年1月18日(1657年3月2日)から、1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられています。俗に「振袖火事」と呼ばれて行きます。それは世界三大大火(江戸・ロンドン・ローマ)といわれる。
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若くして亡くなった娘の供養のために、その振袖を燃やした火が、お寺の屋根に飛び火したのが原因という事で、この明暦の大火は、別名・振袖火事と呼ばれます。
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【振袖火事】と云うようになったのは、
以下、サーチ【search】して、
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「振袖火事」のあらすじ
『麻布の質屋の娘・「梅乃」は寺小姓に一目惚れし、その小姓が着ていた着物と同じ模様の振袖を作らせて愛用していましたが、若くして死んでしまいます。両親は憐れんで娘の棺の中に、振袖を入れてやりました。
当時、棺に納められた着物とか、身につけているカンザシなどは、たいていの場合、棺が持ち込まれた寺の*4.湯灌(ゆかん)場で働く者たちが、貰ってもいいことになっていました。この振袖もそういう男たちの手に渡ります。高価なので売りに出され、回り回って別の娘の物になります。
ところがこの娘も、この振袖を愛用しているうち、亡くなったため、また棺に入れられて寺に持ち込まれることになります。寺の湯灌場の男たちは、以前見かけた忘れもしない品物のいい振袖に気づきますが、またそれを売り飛ばします。それがまた別の娘の手に渡ることになりました。
ところが、その娘もほどなく死んでしまい、またまた棺に入れられて、同じ寺に運び込まれてきたのです。
今度はさすがに湯灌場の男たちも、忘れもしない振袖で気味悪がって、寺の住職に相談します。それに死んだ娘たちの親にも相談すると、振袖には悪い因縁が付いているのではないかと言うことになり、振袖を供養してお焚き上げすることになりました。それで寺で供養した後焼却することになりました。
それは明暦3年(1657)1月18日午前十時頃のことでした。この寺は本郷丸山本妙寺です。
住職が読経しながら火中に振袖を投じます。
そこに、折しも空っ風が吹き、その振袖は火がついたまま空に舞い上がりました。
そしてその火のついた振袖は、本堂の屋根に落ち、屋根に火が燃え移ります。
その年江戸の町は、何日も雨が降っていないカラカラでした。
寺の屋根に燃え移った火は、消し止めるまもなく次々と延焼、湯島から神田明神、駿河台の武家屋敷、八丁堀から霊岸寺、鉄砲州から石川島と燃え広がり、日本橋・伝馬町まで焼き尽くしました。火は翌日には北の丸の大名屋敷を焼いて、本丸天守閣まで焼失することになりました。それ以来江戸城には、本丸天守閣は未だ再建されませんでした。それまでの江戸城の建物は、天守閣が明暦3年の大火で焼失した後は復旧されなかったので、富士見櫓が天守閣に代用されたと伝えられています。他に残っていて、現存するものは伏見櫓、 富士見櫓(江戸城築城の第二期(三代将軍家光の時)の寛永五年(1628年)に京都伏見城から移築したものがあるようです。それが別名で「月見櫓」とも呼ばれており、皇居で最も美しい櫓と言われるものです。)桜田巽櫓の三基の櫓。「旧江戸城外桜田門」として外桜田門、櫓門の2棟、「旧江戸城清水門」として清水門、櫓門の2棟、「旧江戸城田安門」として田安門、櫓門の2棟の合計6棟が昭和36年に新しく重要文化財に指定されています。
他に城外の川越に移転されたものが残っております。三代将軍徳川家光の乳母となった家光に仕えた春日の局化粧の間が、 有名な天海和尚が住職をしていた川越喜多院という寺の境内に移築されていて、江戸城より移築された部屋が、そのままそこに残っています。
この火事で亡くなった人は、3万〜10万人とも言われます。』
以上が「振袖火事」のあらましです。日本で火炙りにされた女人は、唯一“お七”です。

【江戸城余話。】
=この“振袖火事”で焼ける前の江戸城には、
戦国時代までよく見られた小窓を持った△型の破風部屋・破風の間(はふべや・はふのま、破風の小屋裏部屋)が無かったと云われています。
それは、徳川家が全国が統一し、戦争のない平和な時代が到来したので、戦時に攻め込まれた時、江戸城内の破風の間から、鉄砲等で応戦することもなくなったため、△型の破風を持った小窓がある出窓がある破風部屋は、造られてい無かったのだそうです。だから江戸城の外観は、江戸時代以前の名古屋城・大阪城・姫路城等の城とはかなり違って見えるのだそうです。=
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*4:湯灌場をまわって死者の衣服や葬式に使った物を買って歩く、一種の屑屋(くずや)・リサイクル屋。江戸の町はリサイクルに徹した、無駄を出さないエコな町だったと云われています。

・湯灌(ゆかん)場とは?
難読語辞典。 江戸時代、寺の一画に設けられた湯灌をするための場所。 地主・家持ちではない者は、自宅で湯灌をすることが、許されなかったことによるようです。
・湯灌とは、
葬儀に際し遺体を入浴させ、洗浄すること。簡易には遺体を清拭( せいしき)することで済ませる場合もある。故人が男性の場合はその際に髭を剃られ、 女性の場合は死に化粧が施される。地域差があり、一般的ではない地域もあるとされます。
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世に明暦の大火と呼ばれていますが、この火事の発端から「振袖火事」の異名をのこします。この火事は話の筋としては、「お七火事」とよく似ています。

=似かよったところは、(1、寺小姓に思いを寄せることから、「お七」と同じように、この話は始まります。2、歴史に残る江戸大火となってゆきます。)=
しかし、
「お七火事」の話には真実味があり、事実史実ですが、この「振袖火事」はどことなく、創られた話のように想われてなりません。古くなった江戸の町を幕府が区画整理するために、火を出したという説もあるようですから…・・・。それは火元が1箇所ではなく、本郷・小石川・麹町の3箇所から時間をおいて、連続的に発生したもので、ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ、次の火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来から続く古い密集した市街地においては、そのすべてが焼き尽くされたと云われます。焼けた振袖が飛んで、飛び火して火が出たとすれば、特定の火付人(罪人)を出さなくともいいことになります。それで「お七火事」にヒントを得て、「お七」の何年か後に、「振袖火事」の発想が出来てきたのではないでしようか?
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娘の名は、「梅乃」の他に、浅草諏訪町の麹商、大増屋十右衛門の娘「お菊」・本郷元町の鞠屋、吉兵衛の娘「お花」です。
調べる中で、振袖が娘に渡って行った名前・順番が、違っているのもあり、諸説あるようです。
「梅乃」→「記乃」→「幾乃」と、
「菊」→「キノ」→「イク」そして、
「お菊」→「お花」→「梅乃」です。これでは「お菊」が最初になります???
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【振袖火事】と謂われることで、素直に受け入れられないところは、
三人の娘が係る「振袖火事」が、実話ではなく、創作されたと思えるふしは、以下箇条書き、
・@:同じ振袖を着るような年頃の3人娘が、リレーするように同じ地域に広がり、亡くなっていくという条件が、二人目・三人目の娘へと、はたしてうまく自然に繋がっていくでしようか?これは出来すぎた話です?
・A:同じ「振袖」が3件とも同じ寺へ、持ち込まれたというのも偶然すぎます?
・B:第一、火のついた振袖が、寺の本堂の厚い瓦の屋根に落ちただけで、屋根に火が燃え移るかは疑問です。檜皮葺なら可能性がありますが!?出火の原因が火のついた振袖かが疑問です?
・C:寺小姓に思いを寄せることから、「お七」と同じように、この話は始まります。振袖火事は天和大火「お七火事」の後に、その26年前の大火、即ち「明暦の大火」の出来事を、「お七火事」のように、世間が関心を示すような、話にして行ったのではと考えられます?「お七火事」の事件後の何年か後に「振袖火事」の発想が出来てきたのだと思います?
・D:三人の娘は皆死人でいるので、裁判にふされることはありません。「八百屋お七」からヒントを得て、当たり障りもなく、罪も問われることもない、死んだ三人娘を登場させた…裁判をしたり罪に伏すと、実在の人物が必要になります。それでは記録に残ることになります。生きた実在の人物がいないということは、この話には都合がよくなります?
・E:最初の娘に寺小姓が着ていた着物と、同じ模様の振袖を作らせて、愛用させないと、この話は成り立っていかなくなります。この話も出来すぎてす?一人目の娘だけでは話が短すぎるので、興味を引く二人目・三人目の娘と登場させ、「振袖大火」と名付けて、興味をもたせて語り継がれ易くした?
・F:湯灌場は? 江戸時代、寺の一画に設けられた湯灌をするための場所。 地主・家持ちではない者は、自宅で湯灌をすることが、許されなかったことにより寺の湯灌場に運ばれ、湯灌をする決まりです。。
それなのに、麻布の質屋の娘・浅草諏訪町の麹商・本郷元町の鞠屋等の3人の屋号を持つ店(たな)が、自分の家で湯灌をしないということは無い筈です。それなのに湯灌場に運ばれた話になっています。多くの庶民は湯灌場に運ばれますが、店(たな)を持つような商家は、実家で充分湯灌が出来、お葬式も出してやれたはずです。そんなことからも恰好よくつくられた話に思います?

ラフカディオ・ハーンは『怪談・奇談』の中で「振袖」という作品にしております。
慣用句に、
袖から火事(そでからかじ) 小さな事から大事が引き起こされることの喩えがあります。この明暦の大火 「振袖火事」から来ているとされます。

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=余話=
お七の話には、異説が多くあります。
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・火事の日についてはすでに書いております。
・お七が焼け出された火事については、天和元年12月28日だとするもの、
・および翌2年の同月同日だとするもの(どちらも記録に残る火災)があります。
・焼け出された太郎兵衛(これも市左衛門とするものあり)一家が身を寄せた寺についても、正仙院だとするものがあり、
・また寺小姓の名にあっては、左平、吉三、生田庄之介といろいろあります。

次にお七を素材とした文学作品には、お七を題材とした最初の文学作品は、お七が火焙りの刑で処刑された天和3(1683)年から数えて3年後の貞享3(1686)年で、井原西鶴によって「好色五人女」の中に書かれたのが最初ですが、
人形浄瑠璃としては、元禄16(1704)年2月、大阪豊竹座で上演された紀海音作の「八百屋お七歌祭文」があります。
歌舞伎狂言に初めてお七が登場したのは、宝永3(1706)年正月、大阪嵐右衛門座で公演された吾妻三八作の「お七歌祭文」。
・その後数多くの作品が演じられましたが、中でも黙阿弥作の「松竹梅雪曙」は、安政3(1856)年、市川小団次(四代目)が、市村座において人形振りで見せて、大評判となった作品です。
・落語としては、お七が放火の罪で火焙りになったことを知った恋人の「吉三」が、可哀相にと自分も大川に身を投げてしまいます。あの世で出会った二人が、「お七か」、「吉三さん」と抱き合うと、「ジュウ」という音がしました。お七が火で死に、吉三が水で死んだことから「火」と「水」が合わさって「ジュウ」。お七の「七」と吉三の「三」を足して「十」という仕込み落ちの話です。

火付をするようになったのは、二つの説が云われています。
・お七の実家は、江戸で三本の指に入るほどの大店の一人娘で、@婿養子を迎えなければならない親の意向が強くて、ストレスを抱え、それで放火魔になっていったという説。A近所のこそ泥が、お七をそそのかして放火させ、その間に火事場泥棒に入りこもうとしたと言う説があります。“お七”に関しては、定説がなく“異聞”が多いいようです。

*.おしち‐かぜ 【お七風】
享和年間(1801〜1804)ごろ、江戸本郷の八百屋お七の放火事件のあとではやった流行性感冒(インフルエンザ)。