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■ 65)シーボルト事件の時の台風による災害記念碑・犠牲者供養塔が境内にあります。2012.6.8

(画像は【 click!】で拡大表示:二度【 click!】でさらに拡大)
<梅雨入りの境内、
        公孫樹の木の下「下関の高潮被害者の供養塔」>

市教育委員会のお方より、
「下関の高潮被害者の供養塔が、福仙寺にあると、ある本に載せてありますが、今でもその供養塔が、残っておりますか?」ということで、お電話がありました。が、そのことを全く知りませんでした。
それで、その時は見当たりませんが…とお答えしていたら、後日ご来寺されて調べられ、これがその時の供養塔と教えて頂きました。
所謂 「台風高潮災害記念碑、并に、犠牲者の供養塔」だったのです。粟島堂と地蔵堂の間、公孫樹の木の下にあります。
以前からこの石造塔婆のことは、気になっておりましたが、よく解らず謎でした。
本堂正面前にあるので、本堂落慶供養・本尊御開帳の時に使う(*1.善の綱)をつなぐ五輪角塔婆とばかり、前から思っていました。
「この五輪角塔婆は桧材でなく、どうして石造にしているのかな!?」と思っていました。多くは桧材を角柱状にして、五輪角塔婆とするからです。不思議な石造五輪角塔婆だなー!と、以前から思ってはいました。
先代さんからお聞きしたこともなく、いつの間にやら、寺伝が絶えていたことになります。このことは、明治初期の廃仏毀釈が、影響したとも考えられます。
廃仏毀釈で、当山と隣の紅葉神社が、切り離された騒動・混乱の中で、寺伝が途切れたのでは…?と推測しています。
災害記念碑は、地震、津波、火山噴火、大火、事故といった大規模な災害の実情を、後世に伝え残すために、教訓として建立されるものです。それに加えて犠牲者の供養碑でもあります。それで後世に永く遺すために、桧材でなく、この様な石造の五輪角塔婆にしたのだと思います。
この様な形の災害記念碑は、あまり見かけません。珍しい形です。
災害記念石碑:五輪の供養塔の裏面の字は、一部風化して、あまりよく判読できませんが、拓本をとれば読めると思います。
:*1.『善の綱(ぜんのつな)』
【寺の開帳や落慶供養のとき、本尊を安置してある内陣から、本堂前の供養塔まで張る五色の綱のことです。多くは桧材を柱状にして五輪角塔婆とします。】
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供養塔の裏面は、
「文政十一年秋八月九日夜颶風□□□□□□・・・福仙寺・・□□□源 □□建立」と一部読めます。
年号からも、台風による災害記念碑・犠牲者供養塔です。
それはシーボルト事件の日時に符号していて、後の云われるシーボルト台風と云われています。今は知る人もない、歴史に残る台風・高潮による大災害のようです。
台風の漢字は、ぐ−ふう 【颶風】と書いて、彫ってあります。
(風+具【颶風】)≪ぐ−ふう≫=台風です。ここで初めてこの言葉を知りました。
それで台風の漢字の使い方・呼び方を調べました。
「ぐふう【颶風】」とは、台風の昔の気象用語。元は中国の言葉です。

以下サーチ【search】
中国では,台風のように風向の旋回する強い風系(つむじ風)を昔から〈颶風(ぐふう)〉と呼んでいたが,このような風系をアラブの航海者たちはtūfānと呼び,フランスやイギリスではそれぞれtyphon,typhoonと呼んだ。日本では,江戸時代には熱帯低気圧を中国にならって〈颶風〉と訳した文献があるが,明治の初めには〈タイフーン〉または〈大風〉とかいっていたようです…。

日本での古い呼び名は、平安時代ごろから「野分(のわき・のわけ)」と呼ばれました。日本での台風の一番古い呼称。(二百十日・二百二十日の頃、野の草を吹き分ける強い風。)
『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第28帖。⇒野分 (源氏物語)
颱風(たいふう)と云われだしたのは、比較的新しいようです。颱の漢字が、後に旁(つくり)の台だけで表記され、台風と書かれる。
野分(日本での一番古い呼称)→颶風(中国の呼称)→颱風(比較的新しい言葉)→台風です。

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文政期におきた出来事を、以下サーチ【search】してみました。
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グレゴリオ暦の1828年9月17日、(旧暦文政11年8月9日)に日本に襲来し、九州地方や中国地方にかけて大被害をもたらした台風。襲来した文政11年が戊子に当たることから、子年の大風(ねのとしのおおかぜ)・シーボルト台風とも呼ばれる。有明海で高潮が発生し、佐賀藩だけで死者が約1万人、九州北部全体で死者約1万9千人に達する被害が出たと云う記録がありました。それは蒙古襲来の時に、発生した台風に匹敵すると云われています。
この台風によって、当時日本に滞在中だったドイツ人学者・シーボルトの乗船がこの台風によって座礁し、船の修理の際に積荷の内容物が調べられたことで、日本地図の国外持ち出しが発覚、世に言うシーボルト事件に至った事実。それでこの台風に「シーボルト台風」の名が与えられた。

当にその時の供養塔となります。
広範囲、犠牲者数から言えば、平成23年3月11日(金)14時46分発生の、東日本大震災以上の規模の自然災害なのです。
当時の瓦版には、
長州藩の被害は、下関だけで家屋半壊412軒・死者65人・負傷者200余人。海側の石垣・塀・土蔵残らず崩壊、流出したとの記録があるようです。後の「下関市史」に暴雨風による津波は、死傷者千余人を出したと記述されてもいます。

【他に日本全体では、文政期にいろんな事件が発生したり、災害が起こっております。】
12月18日(文政11年11月12日) - 越後三条大地震、M6.9で死者1559人。
当時72 歳の良寛はこの地震に遇あい、ひどく心を動かされて、長詩をいくつも詠ん
でいるようです。
その一節、『三条市史』通史編では、
「…驚濤(きょうとう)天を蹴けつて 魚竜ただよい 墻壁(しょうへき)あい打つて 蒼生(そうせい)かなしむ…」
(大地震がおこり、海の波は天を蹴るように高まり、大魚も自由を失い、家の柱も壁も、折り重なって倒れ、人々は泣き叫んだ。)と載せています。

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大きな犠牲があった大震災後のことでもあり、過去のことを忘れることなく、これからは高潮被害者のご供養を、当山の行事の時お勤めし、また「下関にも高潮被害」があったことを、ひろく啓蒙してゆければと想います。
自然災害は何時、何処で起こるやらわかりません。下関は災害のない好い処だと、よく云われますが、下関も例外では無いということがよくわかります。
何時も災害のことを、念頭に置かなければなりません。忘れないことが大事です。それには語り継ぐことが、肝心だということがよくわかります。
こうして先人たちが残してくれた石に刻まれた「災害の記憶」を、風化させることなく、子孫に伝えていくことが、今あらためて必要になってきていると思います。
そのことを想えば、この災害記念石碑のことが、当山での伝承が、途切れていたということは申し訳い想いです。