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■ 53)≪境内の花≫その37:「ケープタウンー・ブルー」&「トランペット・フラワー」&「ビョウヤナギ」:諦めとは?2010.6.27

(画はクリックで拡大表示) 
:もう一度画をクリックすれば、更に拡大:)
境内の山門前の、〓南西に向いた石崖〓当山駐車場からの画。

崖上にはキダチチョウセンアサガオ(トランペット・フラワー)と、(ビョウヤナギ)
他にまだ小さいので分かりませんが、数種の色違いのブーゲンビリアを植えています。
石崖から垂らす懸崖にしたいのです。 
この画の面は極一部ですが、いずれ南西に向いた石崖全体を、ブーゲンビリアの花で埋め更に山門までの両脇の石垣を、ブーゲンビリアの花で、埋める予定です。
日当たりさえよければ、ブーゲンビリアは越冬します。下関はそれ程温暖だと言えます。
見事?崖に垂れる事を楽しみにしています。
下の段の灯篭の右側にも、色違いを数種植えています。上から垂らし、下からも上に立ち上げて行きます。こうなることが当面の楽しみです。

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崖に垂れているのは、朝顔のような(本当の朝顔ではない)。商品名ケープタウンー・ブルーと言う花です。
この花は丈夫で秋まで咲く、長持ちのいい花です。しかし、
ただ植えて見て困るのは、彼方此方にはびこり、上にある他の木々「温州ミカン・八朔・大きな実の晩白柚(バンペイユ≒実は、柑橘系で世界一の大きさバレーボール大)」に巻きつき、難儀する花です。
根が石崖の隙間に入り込み、もはや絶やす事がきません。もう諦めるしかありません。ホームセンター等に、数種類の花色が出回っていますが、一般の庭に植えるのはお奨め出来ません。 
根から絶やそうと思って試みました。(今まで数回根から抜いています。)が絶やす事は出来ません。節々から根を出し活着します。  
もう諦めています。植えたことに後悔もしています。
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Q;「諦める」とは、 
A;「明らかにする・つまびらかにする」・「明らかに見る≒諦観」と言う仏教用語です
漢語の「諦」は、梵語の(サトヤ)の訳語で、「真理・道理」を意味するようです。そのことからものごとの道理をわきまえることによって、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念するという思慮の過程を、そこに見出せるのです。単に「あきらめる」だけであれば、「悔い・怨み・愚痴」なのです。ものごとの道理が明らかになった上でのことならば、納得しての「諦らめ」となるという事です。
諦観とは、「明らかに真理をみる」ということなのです。
「明らかに見る」という仏教の言葉が、次第に変化して「あきらめる」。
「明らかに見る・あきらかにみる・アキラカニミル」⇒(諦める)」です。
言葉がそのように変わっていくなかで、その意味まで変わって来てしまいました。 
今日では、普通アキラメルと言えばマイナスのイメージだけになっています。
現在では、本来の意味とは程遠い意味に使われ方をしている言葉で、「あきらめ主義」という風に使われ、進歩も発展も努力も失わせる考え方になってしまっています。

「あきらめ」の「諦」の字は、「あきらめる・断念する・諦めがいい・諦めがつく」という意味と、本来の「真理・さとる」という意味とを持っているのです。
しかし一見まるで異なるようなこれらの意味は、本来は繋がっている。それは「そこにある現実を、ありのままに受けとめる。」事なのです。
諦めとは投げやりに放棄することではなく、そこにある現実をあきらかに飲み込んみ、そこから前進するための光明と、智恵を見出すように努力をしなければならないのです。 そうすれば納得が得られ、向上にもつながります。
本来はもっと積極的なプラス思考の意味なのです。物の道理をしっかりととらえ、原因結果をあきらかにすること、これが仏教的な「あきらめる」です。 
仏教的に「生をあきらめ 死をあきらめる」「生死を諦める」。このことは難問だけど、そのことが大事なのです。 
残念ながら、現在では仏教用語の「諦」は、「あきらめる・断念する・諦めがいい・諦めがつく」と、一般的に使われています。

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