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<さまざまの事思い出す桜かな> 芭蕉
春の訪れとともに、万物が一斉に自らの「いのち」を開花させ輝きます。 境内は花咲き、メジロ・小鳥が飛び交い、美しくさえずり、いろんな「いのち」が輝いていきます。 陽春に草木も!生きとし生けるもの全てが!動いていきます。
これからの境内は、いろんな小鳥たちの混声ビージーエムで「心」が豊になります。 (小鳥達のそれぞれの声の主が聞き分けられません。名前を憶えて聴き分けれられると楽しいのですが!) それをぶこつなカラスがビージーエムを乱します。(凡夫にはそう思えます)。でもこれを含めて仏の声!!!
「いのち」を精一杯輝かせましょうと、いろいろの花が咲き≒「姿」。「命」ある私たち全てに語り≒「声」かけてくれます。それらがそのままにして如来(仏)の説法なのです その事に先ず気付くのが【悟り】なのです。 【悟り】とはけっして難しい事ではありません!? このように自然の中に、『仏の姿』『仏の声』『仏の命』『仏の心』の【実相を気付く】ことです。
一般的な「悟り」の意味は、知らなかったことを知ること、気付く事、感づくことを言い「覚り」とも書きます。
宗教上の「悟り」・「覚り」は迷妄を去って、真理を知ること。またその「真理」。 「開悟」・「菩提」・「覚」ともいいます。 「悟りを開く」・「覚りの境地」という言い方があります。
その反対が「迷い」。 「悟り」⇔「迷い」です。 「覚り」と「悟り」とで覚悟です。 覚悟の使い方は、 〇仏教用語では迷いを脱し、真理を悟ることですし、〓仏教で言う「悟り」≒「覚り」を一言で言うと、 【修行や苦行によって「宇宙の真理を体得」することになると思いますが、そうなればなかなか難しくなります】 難しく考えず普段の自然の中にそのまま『仏の姿』・『仏の声』・『仏の命』・『仏の心』を、【自然の実相として気付く】ことからです。
『禽獣草木は皆是れ法音なり』(お大師様の言葉)。 鳥獣草木の声や音響は、全て仏の「言葉」である。その事を宇宙の本性(曼荼羅の実相)として悟ることです。世界の現象が大日如来(宇宙の本体)の顕れ(表象)であると言うことです。
大悟(たいご)でなくとも、身近な悟りでいいのです。 そのような日常の一つ一つの悟りが、積み重ねられたらいいのです。
悟りは段階的な手順を得て起きるとする場合と、悟りは瞬時に起きるとする場合がる場合も有るようです。瞬時に起こる場合は、西行の歌の中に有るのでは? 『 ゆくへなく 月に 心のすみすみて 果てはいかにか ならんとすらん 』 <どこまでも、月を見ているうちに心が澄んでいき、 ついには私の心は、どうなってしまうというのだろう!> 西行にとって「澄んだ月の光」は、恍惚を伴う「覚り」のようです・・・!?!?!? 自らの悟りの心境を、月に喩えたのでは!?「月」を多く読んでいいる西行には、月は悟った自らの宗教心の、象徴的な発露なのだと思います!?
実際厳密な聖道門の宗教的な悟りは、難しい定義があるのかも知れません。
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