Q:お彼岸には必ず「おはぎ」をお供えするものでしようか?
A:昔は必ず春・秋の彼岸には、お仏壇にお供えされていました。 むかし「おはぎ」はご馳走で、自家製の「おはぎ」をお供えしていました。「おはぎ」は大ご馳走だったのです。 お供えされたものは、その後ご先祖様に感謝して、家族で頂いたものです。 しかし、今日では家庭で作ることが無くなったし、お菓子の好みも変わってきて、お供え物自体がかなり違ってきました。 おはぎ・牡丹餅に替わって他の物が多くなりました。 (かわったのは、お供えするご家庭、特に子供たちの嗜好によると思います。お供えを下ろした後、子供達が楽しみにしておりますので!)その子供たちの好みに合わせて供物をし、後子供たちのおやつにしておられるようです。 お供え物がどう替わっても、下ろしたら家族全員で分けて、ご先祖に感謝して頂きましょう。
=余談=「おはぎ」の「お」と「は」の間に(い)を入れたら「追剥」になります。 今頃のお若い人は「追剥」を知らないかも? 「追剥ヶ原へ蛍狩」という諺があります。 自分から求めて危険な所に行くことの喩えだそうです!
以下=萩・おはぎ・牡丹餅に関して、調べてみました。(百科事典:数種の辞書)
「おはぎ」と「牡丹餅」についての違いが、クイズに出たらどう答えますか?
【雑学雑学解説】 おはぎには、4つの日本の四季に関係した呼び名があります。 四季によって呼び名を変えるとは、昔の日本人はなんとも風流で趣があります。 春秋は、 春=牡丹の花。秋=萩の花。
夏と冬の呼び名は、こちらはどちらは、花の名前ではない。この2つの名前は、他の「もち」とは違う、おはぎの「もち」の部分の作り方から来ています…! おはぎの「もち」の部分を思い浮かべてみて下さい。おはぎは他のもちとは違って、もち米の粒が残っているはずだ。 他のもちは「ぺったんぺったん」と杵と臼でついて作るのに対して、おはぎはあえてつくことはせずに、もち米の粒を残している。そうだ、作るときに「ぺったんぺったん」という音が出ないのである。 いつ作ったのかが分からない=「つき知らず」ということになる。夏は「つき知らず」=「着き知らず」となって、夜の船がいつ岸に着いたのかが分からないことからおはぎのことを「夜船」と呼ぶようになった。 冬は「つき知らず」=「月知らず」となって、月が見えることのない北側の窓から、おはぎのことを「北窓」と呼ぶようになったのである。 調べてみるまでは、 「おはぎ」「ぼたもち」の2つは知っていても、「夜船」「北窓」は聞いたことがなかった! 夏・冬は特に、「夜船」「北窓」で果たして何人の人に伝わるのか?
(画はクリックで拡大)
『画は草萩:山門は「薬医門」 「薬医門」とは建築様式です。本柱の後方に控え柱を立て、重心を後にし、その上に女梁(めうつばり)・男梁(おうつばり)をかけ、切妻屋根をのせた門。』 辞典より
昔のお彼岸の供え物には、 「おはぎ」と、「ぼたもち」がつきものでしたが、いったいどう違うのでしょうか! 一説には小豆のつぶし餡か、こし餡かの違いだとか、もち米とご飯の混ぜる割合の違いだとか、単なる呼び方の違いだとか…いろいろな説があるようです。 ところが実際には同じ物で、牡丹餅はもともと「牡丹もち」・ おはぎを「萩もち」であったといわれます。 今では一年中売られていることもあって、混同されてしまいましたが、本来は牡丹の季節である春のお彼岸に供えるのが「ぼたもち」で、萩の季節である秋のお彼岸に供えるのが「オハギ」というのが答えのようです。 お店で売っている場合の多くは、 「ぼたモチ」ではなくて「オハギ」としているそうです。「オハギ」のほうが言葉が綺麗だからでしよう! おはぎのことを、 佐賀県西部の方言では、「はんごろし」と言うそうです。それは炊いたもち米をすりこ木で潰して粘り気をだし、おはぎを作ることが多かったから「殺す」=「潰す」の意味となり、半分潰すことから「はんごろし」になったと謂われます。もち米を全て潰すことを「本殺し」と呼ぶそうです。 「宿屋の主人が『客をもてなしてあげたい、半殺しにするか、本殺しにするか』と言っているのを聞き、泊まっていた旅人が慌てて逃げ出した」との民話があるのだそうです。
小豆に似た豆に、ササゲというのもあります。 ササゲ. 名称(マメ科ササゲ属) ササゲはお赤飯に欠かせない豆です。 形・色は小豆の少納言に大変酷似しています。性質はつる性種:草丈が2mから4mになるのにたいし、つるなし種の草丈は:30cmから40cm)。
ササゲは煮ても豆が崩れないから、赤飯に向いているようです。
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-++-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-++-+-+-+-+-+- 萩の余話・・・ 萩には、 「草ハギ」と「木ハギ」が有ります。 「草ハギ」は冬には地上部が枯れても、春には根元から新芽が出てきます。 「木ハギ」は落葉はしますが、木部が残ります。 画は「草萩」。むかし萩を土手の土止めに植えていたと聞いた事があります?
「萩」の字は 、 “秋の草”(草かんむり)なので まさに秋の花。マメ科です。 早いものは夏前から咲き出している ( 萩の花をあずきの粒々で表現したとのこと) あずきの粒は夏にできて、秋の「おはぎ」の頃に収穫し、おはぎ”を作り、ご先祖にお供えするのが江戸時代からの慣わしでした。
さらに、夏には『夜舟」、冬には「北窓」の異名もあるようです。もち米をつかず、つぶして作るから「着き知らずの夜舟」。寒い時期には、視点を変え「月知らずの北窓」の呼び名もしていた。
正岡子規も『梨腹も牡丹餅も彼岸かな」と詠む。
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萩の余話・・・ ・春の「ぼたもち」、秋は「おはぎ」と言っていた。それに、夏に作ることは昔からあまりなかったようで、、夏は「夜船」と、冬は「北窓」というそうです。 春と秋の彼岸には昔はどこの家でも、お餅をついたもので、夏と冬はあまりお餅はつかない。で、隣り近所にめいわくにならないように、トントンつくのではなく、静かにこねてお餅を作ったらしいのです。 いつお餅をついたんだかわからない。いつ着いたんだかわからない。夜の船はいつ着いたんだかわからない、ということであるらしい。 北の窓も同じだ。北の窓からは月が見えない。つきが見えない。餅つきが見えない、ってわけ。こんなことを考え出すなんて、ほんと、昔は閑人が多かったんだなぁー 「ー小林一茶が、昔は閑人のが多かったのだ」 閑人や 蚊が出た出たと 触れ歩く 四つの名前の由来よりも重要なのは、なんのためにひとつの物に四つも名前をつけたかということ、それはたぶん、ぼくらはものを食べるときに、物だけをたべているのではなく、物と一緒に気分をたべている、ということだろうと思う。 ・江戸時代、陰暦正月・7月の26日の夜(有明の月)、月の出るのを待って拝むこと。月光の中に弥陀・観音・勢至の三尊が現れると言い伝えられ、特に江戸高輪(たかなわ)から品川あたりにかけて盛んに行われた。 ・六夜待ち。愛染明王を表しています。 ・満月は大日如来を表します。 ・旧暦9月13日の十三夜に行う月待の記念として造立した塔である。十三夜月待は虚空蔵菩薩を本尊とする。「十三夜塔」「十三夜供養塔」などと刻む文字塔と虚空蔵菩薩の刻像塔がある。まれに地蔵菩薩もある。 ・十五夜 旧暦8月15日の十五夜に行う月待の記念として、十五夜念仏講中によって造立された塔。刻像塔と文字塔には、刻像には大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、観音菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩がある。 ・十六夜 旧暦16日の月待の記念として、十六夜念仏講中があり、十六夜月待は、関東北部の栃木、茨城、群馬で行われた。大日如来、阿弥陀如来、聖観音、如意輪観音、地蔵菩薩などがある ・二十日夜 旧暦20日の月待には阿弥陀如来、聖観音、如意輪観音、勢至菩薩、地蔵菩薩などを表す。
・旧暦21日の月待は如意輪観音を本尊とする。 ・旧暦22日の月待は如意輪観音を本尊とする。准胝観音を本尊とする地方もある。 ・二十三夜 旧暦23日の月待は二十三夜待は勢至菩薩を本尊とする。 ・二十六夜 旧暦26日の月待は愛染明王を本尊とする。江戸では旧暦7月26日の月を阿弥陀三尊の出現として拝んだ。
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