Q;寺宝に載せてある和幡をよく見せて下さいと 或るお方からメールが入りましたので、改めてここに載せます。
A; 長府毛利藩客家老細川家・奥方の*1.打掛けで造った和幡一対。 (約227年前) *1.打掛とは、以以下サーチ【search】 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 武人の妻などは、衣服省略の風潮に伴って、小袖の上に細い帯を結び垂れ、小袖に帯を締めた上に打ち掛けて着た同形の表着(うわぎ)で、歩くときに褄(つま)をとるため搔取(かいどり)ともいった。夏は上半身を脱いで用いた形から腰巻と呼んだ。その前身は広袖の女房装束の表着の袿(うちき)、これに次ぐ礼装の小袿(こうちき)とする説と、小袖を着用するようになって生まれた礼装とする説とがある。 身分の高い婦人が用いた。
(写真はクリックで拡大) 裏の 為書きに 天明壬寅年四月 神宮寺什物 本法院殿蓮乗妙華大姉 施主 細川姓 當山二七世純照代
何回忌かの奥方の法事の折に 長府毛利家(客家老)細川家奥方の愛用の打掛を、和幡に仕立てて、合併前の神宮寺に寄付して、供養したものと想われます。 今ではかなり朽ちかけ、本堂に掛けておける状態ではないので、保存のみに心がけております。 絹布が薄すく朽ちが早いので夏物かも知れません。 今は別の物を掛けています。50年前までは掛けておりました。 「神宮寺」は毛利家祈祷寺;「福仙寺」は毛利家客家老細川家祈祷寺です。 それ故「神宮寺」と、「福仙寺」は関係深く、強い廃仏毀釈の嵐の中でも、すんなり合併出来ました。 それには当時の細川家当主が、強く働きかけをし、力を貸したからだと思います。 当山位牌堂に、 『面:萬壽院殿松岳全濤大居士 裏:天保七年申年八月八日 細川内膳御叓 当山初発開基大願』 というお位牌をお祀りしています。
細川家と毛利家の関係は、 以下 歴史書。 細川氏は、多くの大名の中でも鎌倉・室町から江戸 現代まで名門として続いた希有の家である 通政の甥・通薫(通重)が備中支配の回復を試みるが 中国地方に勢力を伸ばした毛利氏の客将となり、子孫は長州:長府藩に仕えた。
(以下数種の資料を総合して) 「幡」仏具です。幡(ばん)は仏の功徳を表すために飾る荘厳具の一つで、仏殿の柱や堂外などに高くつるす。縦長で布製のほか、金銅や板紙製もある。 元はインドで聖者の標識とされていたという。 仏様の徳をあらわす旗(標識)の一種です。 たんに幡(ばん)と呼ぶこともあります。原形は布製ですが、装飾性の点から、木製で六角や八角の立体的に作られたものが多く使われています。布製の幡を和幡と呼んでいます。
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