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■ 66)幕末期の安政5年から3年連続で見えた『宝喜星=ホウキボシ』と、最近話題の『アイソン彗星』2013.12.9

第一回の寺宝展(諸堂修複落成記念の出展)から全国的に有名になりました。
当山と合併した元長府二宮別当「神宮寺」所蔵『幕末期の彗星スケッチ図三枚』に克明に説明されている。幕府や藩の残したものではなく、当時の一般個人による詳細な記録は非常に珍しいとされる。
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一枚のスケッチは縦二十五p・横三十五pの和紙
文化的な遺産としてだけではなく 彗星のサイエンスとしても役立つものと思います。
  
3枚を包んだ包みには、表に『長星異形(ちょうせいいぎょう)図』:「純照記(当時の住職)」とあり、昔は彗星という言葉は一般的にはなく、「長く変わった形の大きな星」と言ったものと想われます。
民衆は幕末の不安な現象の一つとして捉え、特に不安に感じていたといいます。それで「ほうき星」を、『宝喜星』と言う目出度い漢字を充てていたこともあると言います。当時、『ほうき星』と呼ぶのが一般的です。英 語では「(コメット; comet)」で「ギリシャ語・魔女の髪(コメテス)」に由来するようです。

    <寒き夜の町のうわさやほうき星>正岡子規。
 
昔は不気味に光芒と予測のつかない出歿で“凶の星”として恐れられました。
彗星は46億年前に出来た太陽系の材料(8割が水(氷の状態))が凍結保存されていて、太陽系の成り立ちを探る手掛かりとなることは、現在では多くの人が知り、観測を待ち望む時代です。
古くは『ほうき星』は災いの兆しとされていました。
  
・・・正岡子規・山頭火のエピソード・・・。
子規はかなりの大食漢で美食家だったと聞きました。それは愛媛県道後温泉旅館で育ち、下関に嫁がれた私と同世代のお方に聞いた話です。(子規の話はそのお方のお祖母さんの話だそうです。)それを聞いて最初は子規の病、脊椎カリエスの為に、栄養を取る為にそうだったのかと想いましたが、病のためばかりではなくて、病気をする前の若いころからだそうです。また、自分が育った旅館に、山頭火が托鉢によく来られていたという話も聞きました。これからも他に正岡子規・山頭火にまつわるいろんな話を、お聞きしたいと思っています。山頭火は自分の晩年の棲み処、松山の一草庵から、道後温泉へ托鉢によくでかけてきたようです。その頃の山頭火の話を聞きました。山頭火は、大正15年、一笠一杖一鉢の行乞行脚の旅を始め、終焉の地が松山の一草庵です。一笠一杖一鉢の行乞行脚の姿をよく目にしたんだそうです。
 
以下サーチ【search】
1910年には世界中でハレーすい星の尾に含まれる有毒のシアン化合物により、地球上の生物はすべて窒息死し、5分のあいだ地球上の空気がなくなるという噂が広まる。そのため自転車のチューブに空気をため5分間をやり過ごそうとしたり、息を止める練習をする者が続出というニースがありました。
彗星(すいせい、英 : comet)は、太陽系小天体のうち主に氷や塵などでできており、 太陽に近づいて一時的な大気であるコマや、コマの物質が流出した尾(テイル)を生じるものを指していることを、多くの人が理解しています。だからあまり騒ぐことは無くなりました。
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【上記】ドナッチ彗星。安政五戌午年七月下旬ヨリ星戌之方ニ出ル 人是ヲ察見スルニ 星光?長コト二三丈ノ餘見ユルナリ
【中央記】
夜明ケニハ此星艮之方ニ巡出ツ 七ッ時ヨリ六ツ前?夫レヨリ日輪ノ光リ逢テ光絶シ
【左記】
朱圏常ノ星図ノ如ク光炎有夜々歩ノ而終ニ未申ニ至光絶 中天ヨリニ西ニ出現スル也巡行早キコト人走スルガ如シ巡入スルコト諸星随

中:デパット彗星
【右記】
文久元年酉五月下旬星在り壬玄ノ方ニ出凡ソ北極星ヲ去ルコト貮拾丈余西ニ當テ出現ス是人目ノ地ヨリ察見スル所也夜々歩而漸々南ニ至ル然レドモ一夜巡行スルコト餘星之如ク異ナルコトナシ凡ソ中天ニ出現スル也六月上旬ニハ光炎絶ス星アリテ朧々タリ世人此星出現スル時者兵乱ヲ主ト云々
  
【左記】
常星の如くにしてずのにょく光縁あり地より推計するところ一リア㋥原油る省より*北に入れるに瑞光園進々西にかいるなりケンユルコト通夜ナリ光炎朧々タリ
  
  
下:スイフトタットル彗星
此の彗星は暗かった事から、記録が他にはなく、日本では是が唯一のものと想われる。
【右記】
文久貮戌七月下旬ニ見エル前年ヨリ星少ニシテ光薄ク
  
【左記】
暮六時北極星より十丈斗西天ニ出夜々南ニ歩メ中天出八月下旬中天ヨリ南ニ終
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「三年宝喜星」という事件…
これは「宝喜星=彗星」が安政5年から3年連続で見えたことで、当時重大事件になっています。今なら天体ショーとして明るいニュースですが、当時彗星は不吉で災いの兆しとされていました。民衆は幕末の不安な現象の一つとして捉え、不安に感じて「宝喜星」という漢字を当てていたといいます。


最近話題になった天体ショーとして明るいニュース。
『アイソン彗星』は、以下サーチ【search】
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NASAと欧州宇宙機関(ESA)が公開した観測動画によると、太陽に接近する直前に明るくなったが、その後は先端の明るい「核」と呼ばれる部分が確認できなくなってしまった。NASAの発表文には、「(軌道の中で太陽に最も近い)近日点に到達する前に、分解・蒸発してしまったようだ」 という観測員のコメントも引用されている。彗星は氷やちりが集まってできていると考えられており、太陽の熱と引力に耐えられなかったとみられる。NASAの研究者は発表文の中で「一度は完全に消滅したと思ったが、小さくなって生き延びたかもしれない」と指摘。ESAの研究者はブログで「物語はまだ終わっていない。残った彗星の大きさがどれぐらいで、いつごろまで生き残るのか、地球から観測できるのか、判断するのに数日間かかりそうだ。しばらく待ってほしい」と述べた。「今年最大の天文ショー」として関心を集めたアイソン彗星が太陽に最接近した際に崩壊してしまったとされる中、注目が集まっている。国立天文台(東京)