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■ 62)<地蔵菩薩>「ジャランポン祭り」=「大人の葬式ごっこ祭り」と「みすずの詩(お葬ひごっこ)」2013.2.13

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    ┃☆┃*┃*┃・<地・蔵・菩・薩>・┃*┃*┃☆┃
お地蔵さまの名で有名な、すべての生命を育む大地を司る菩薩。
大きな慈悲の心で人々を包み込んで救うといわれています。弥勒菩薩が56億7000万年後に現世に出現するまではこの世には仏がいない状態とされているため、その間命あるものすべてを救済する菩薩です。
閻魔大王の化身であるともいわれ、この世で一度でも地蔵菩薩に手を合わせると身代わりとなって地獄の苦しみから救うとされ人々から信仰を集めました。また他の仏とは違い人道など六道を直に巡って救済を行うとされ、親しみを込めて「お地蔵さま」の名で呼ばれています。ちなみに六道とは、人道・天道・地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道からなる世界で成り立っています。

墓地にはよく6体の地蔵が祀られています。仏教では六道輪廻と呼ばれ、六道のいずれかに転生しているご先祖様や故人を導いてもらうために、それぞれ1体ずつが各世界を担当して見守っているのです。

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一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれます。
地蔵と閻魔は裏表です。地蔵と閻魔は一(いつ)と言います。
それは、地蔵は慈悲を、閻魔は忿怒(ふんぬ)をあらわし、全く反対の存在のようにみえるが、共に阿弥陀仏の分身であるということを言います。
生死も裏表、
生死一如(しょうじいちにょ)
仏教では、「生」と「死」を別のものとして分けてとらえることはしません。二つをひっくるめて「生死(しょうじ)」といい、生死の差別(しゃべつ)を超えることを説いています。つまり、生があるから死がある。生の中に死があり、死の中に生がある。したがって、人間は、死にたくなくても、いつかは死ななければなりません。
だからこそ、命ある限り精一杯生き、そして死んでいくのだと説きます。
「死にたくない」そのことにこだわらず、現世を懸命に生き抜いて、死んでいく。そして、いざ死を迎えるその時には、死に方にもこだわらない。立派な死に方をしようと、格好をつける必要はないのです。死に方よりも、むしろ死を迎えるまでの、生き方が問題と言えるのでは…
人間は、自分の意思で、生まれてきたのではないのと同じように、自分で死に方を選ぶことはできません。いつどんな死に方をするかは、誰にもわかりません。それ故、生き方が大切なのです。どう生きたらいいのか。誰かに聞いても教えてくれません。自分でみつけようとする心を念頭に、水のように、雲のように自由で、自然で柔らかい心で、生きて行くことでいいのだと思います。
一休禅師の「死ぬ時節には死ぬがよく候」…諦めよといいます。諦めとは仏教用語です。
自分の出会う死という『無常の現実』を明らかに観る。そのことを人は、黙って受け入れる他はありません。
『(無常)を明らかに観て(諦めて)受け止める」それが肝心なのです。仏教の根幹はこだわりを捨てること。財産や名誉はもちろん、最後は命に対するこだわりも捨てなければなりません。
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昔は部落の入り口や、道端・墓地の入り口には、六地蔵が祀られていていることが多くありました。六地蔵という地名、駅名や【*.六道】の辻という場所があります。
【*.仏教では死後の世界を六道とするところから,墓地に六地蔵を祀った場所、六地蔵を祀って六道原というところや、全国的に有名な処に、京都東山の鳥辺野葬場の入口に六道の辻があります。多くは六地蔵がまつられていますが、これは六地蔵を六道能化(のうけ)といって,六道全部を救済するとされるからです。】
六道とは、<地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の世界>のことです。この地こそ、あの世とこの世をへだてる境界だ、ということになります。六地蔵の他に、六観音・六道銭・六道絵もこれに由来します。
六地蔵=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上に夫々当てはめられてた地蔵さんがあります。その六道の世界で活躍する仏です。
六道最高位の天界にいる天人すら、長寿の末に迎える死はおとずれます。死を迎えることは免れないのです。
人間は、六道輪廻を巡ります。 人間である私たちの寿命が尽きて赴くところ。 この世に生きるすべてのものは、六道の世界に生と死を何度も繰り返して、さまよい続けるということ。「六道」は生前の行為の善悪によって、死後に行き先が決まる六つの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)。「輪廻」は、車輪が回転してきわまりないように、霊魂は不滅で死後また生まれ変わるという考え方。

・地蔵菩薩は悪世において救済活動を行う菩薩です。菩薩とは大乗仏教では仏陀となるための修行中のもののことをいい、地蔵菩薩は仏陀となることを延期して菩薩状態にとどまり、衆生の苦悩の救済を本願としました。

・ 六地蔵とは六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のそれぞれにあって、衆生の苦悩を救済する地蔵菩薩のことです。その名称・形像は典籍によって異なりますが、一般には、地獄道を化す金剛願、餓鬼道を化す金剛宝、畜生道を化す金剛悲、修羅道を化す金剛幢、人間道を化す放光、天上を化す預天賀地蔵の総称とされます。日本では平安中期以来、六地蔵の信仰が盛んになり、六地蔵には、寺院・路傍・墓地などに祀(まつ)られた六体の地蔵や、あるいは地蔵堂に祀られたもの、六か所の寺院や堂に安置されるもの、また各所の地蔵尊のうちから六か所を選んだものなどがあります。

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    「ジャランポン祭り」(大人の葬式ごっこ)
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「(ジャランポン祭り)」
埼玉県秩父市の下久那という地域では、毎年3月に「ジャランポン祭り」という陽気な葬式祭りが開催されているのを、テレビで放映されているのをみたことがあります。
『じゃらんぼんとは、(児童語・隠語)です。葬式の行列で仏僧が葬列の先頭で打ちならす鐃鉢(にょうばち)の擬音から出た語。じゃらんぽん。(「広辞苑」より)』
サーチ【search】してみたら、
「ジャランポン祭り」とは、諏訪神社春祭りの前夜祭。生きている元気な人を生き仏(死者)に見立て、部落内の素人の数人で、一般的なお葬式を真似て同じことをしながら、飲めや歌えの大騒ぎをする大人のハチャメチャな葬式遊びのようなものなのだそうです。
ネットで見たら動画も載せてありました。
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動画から、ジャランポン祭りと入力すれば見られます。
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大きな茶箱の棺桶には注連縄が張られ、「悪疫退散居士」と墨書きされた位牌が置かれ、生き仏役の方は、白装束をまとい、額には三角の紙をつけ、一升瓶を抱えながら棺に入る。導師役の坊さんは、唐草模様の大風呂敷の袈裟をまとう。お付きの坊さん達も同じように、唐草模様の大風呂敷き(布団2組が包める程の緑の唐草の大きさ)を袈裟に見立てて巻きつけ、生き仏の役は、毎年、何人かの候補から選ばれ、地元に住む厄年の男性が、厄払いの意味もこめて担当し、最も重要とされる、お坊さんの役は、決まった方が担当しており、でたらめでいい加減な言葉、主に今までの死人役の人の失敗談など、ユーモア溢れることを解りやすく読経風に唱えて、周囲は大爆笑。酔いも回って、毎年大盛り上がりするなのだとか…。
開催時間は1時間程度で、葬儀が終わると神社へ棺を運び、真っ暗な境内で万歳三唱し、生き仏が蘇るところでクライマックスを迎えるという、ハチャメチャでチャランポランな「葬式祭り」のようです。葬儀遊びをする大人の遊びです。葬儀遊をすると言っても或る一人を攻撃して虐めるのではなく、地域の酒の会合で役割を決めて行われるお祭り化しているのだと想います。
謂れを調べてみると、
疫病が発生したとき、諏訪明神に人身御供を献じたことが発祥と説明にありました。
またその昔、
城落ちした殿様が諏訪神社の隣にある宗源寺に、命からがら逃げつき、村人にかくまわれながら生きながらえ、その殿様の厄除けの縁起祭りとして始まったのだとか?。
はたまた、
神社のお祭りで酔っ払った村人が、ふざけて騒ぎ始めたのがきっかけだとか…?。
祭りの起源にはいくつかの諸説があるようです。
この祭りの始まりは、
単純に即興から始まったのだと想っています。娯楽の少ない酒が入った田舎の人々が悪ふざけで、即興で「葬式ごっこ」をした。それが始まりなのでは…!。
もっともらしい謂れは、個人的には後から理由づけられた後付けのように想います…!?。。
本当は、
田舎の酒での即興で起こった「葬式ごっこ」であっても、一度死んで再生し、蘇えらせリセットして、新たな人生を歩ませることを、自覚させる真面目な儀式のような、祭りなのかも知れませんね!?それに明るく死の儀式をすることによって、逆説的な生への賛美なのかも知れません。
この祭りでは、
印金や太鼓、鐃・をチン、ドン、ジャラン、ポンと賑やかに打ち鳴らします。葬式で奏でる仏具の「ジャラ〜ン」はシンバルのような鉢の音、「ポ〜ン」は平太鼓から来ているよです。ストレートに「葬式祭り」と言わずに、チン、ドン、ジャラン、ポンの擬音を略してジャラン、ポン「ジャランポン祭り」となったのでは…。
地方によっても違いがあるかもしれませんが、昔は葬式の時に使う三ッの道具、チン(印金)ドン(銅鑼)ジャンを、チン・ドン・ジャン・・♪・チン・ドン・ジャン・・♪・・・チン・ドン・ジャン・♪・・と、三回(三通三下)繰り返し、せめ鉢をしています。
現在の葬式ではこの音を聞くことはあまりありませんが、地方の田舎では、現在でも行われているところがあるかもしれません。

以前は限定した地域の大切な行事で、非公開だったが、近年ではブログなどで情報が公開されてしまうことから、興味を持つ人が増え、50人前後の地域の参加者のほかに、遠方から見物に来る人もいるようです。動画でも公開されています。

生前葬というのが、ごく一部の人におこなわれていますが、この生前葬と似たところがあります。
擬似的な“死”を通してこれまでの人生の重荷を下ろしてさっぱりし、新たな人生のスタートを切るという真面目な考え方かも知れませんね!?。

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  以上は大人の葬式ごっこですが、以下、「幼い子の(葬式ごっこ)」
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金子みすずの詩「お葬ひごっこ」 

「お葬ひごつこ」
(これは最近問題になった、“いじめを伴った葬式ごっこ”とは違います?!
 みすずのは、可愛い“おままごと”の中の“お葬ひごつこ”の範疇です!)
  
  お葬ひごっこ お葬ひごっこ
  堅ちやん あんたはお旗持ち
  まあちやん あんたはお坊さま
  あたしはきれいな花もつて
  ほらチンチンの なあも なも

【チンチンとは印金(インキン)。野辺の送りに使う携帯用のおリンのこと)
なあも なもとは、“南無”のこと。ナモ・ナムの両方の読みがある=南無阿弥陀仏のこと。
それは、南無阿弥陀仏とおリンを打ちながら、先頭に堅ちやんが旗持って、まあちやんはお坊様。あたし(みすず)は綺麗な花もって、葬式後の埋葬場所への野辺送りの行列の様子を子供目線で表現しています。】

  そしてみんなで叱られた
  ずゐぶん ずゐぶん 叱られた

  お葬ひごっこ お葬ひごっこ
  それでしまひになつちやった

「おとむらいの日」金子みすず
(この詩は3歳で亡くした 父親の葬儀の時が脳裏にあるでは?!)

  お花や旗でかざられた よそのとむらい見るたびに
  うちにもあればいいのにと こないだまでは思ってた

(…しかし、みすずは自分家にも弔いがあればいいと実際に3歳の子供心に想っていたが、ほんとに自分の父親の悲しい葬式があると、みすずは以下のような感情を抱くことになる…)

  だけども きょうはつまらない 人は多ぜいいるけれど
  たれも相手にならないし 都から来た叔母さまは
  だまって涙をためてるし たれも叱りはしないけど
  なんだか私は怖かった お店で小さくなってたら(自分ちの店は文英堂と言う本屋)
  家から雲が湧くように 長い行列出て行った
  あとは なおさらさびしいな ほんとにきょうは つまらない

昔から、「祖父母の法事・葬式は孫の正月」と言う諺があるように、
孫たちがやたらとハシャグ姿でした。今でもそうだけど!
(でも昔ほど 数が居りませんが!) 
正月が来たような、じぶんちの葬式を、少し姉さん目線で見たのが、
この「おとむらいの日」でしよう。

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「おとむらいの日」金子みすず
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(この詩は幼くして父親を亡くした時の葬儀の時が脳裏にあるのかも知れません?!)
  
  お花や旗でかざられた よそのとむらい見るたびに
  うちにもあればいいのにと こないだまでは思ってた
  だけども きょうはつまらない 人は多ぜいいるけれど
  たれも相手にならないし 都から来た叔母さまは
  だまって涙をためてるし たれも叱りはしないけど
  なんだか私は怖かった お店で小さくなってたら
  家から雲が湧くように 長い行列出て行った
  あとは なおさらさびしいな ほんとにきょうは つまらない

昔から、「祖父母の法事・葬式は孫の正月」と言う諺があるように、孫たちがやたらとハシャグ姿でした。今でもそうだけど!(でも昔ほど 数が居りませんが!) 
正月が来たような、じぶんちの葬式を、少し姉さん目線で見たのが、この「おとむらいの日」でしよう。

次に四十九日忌の仕上げの法事を済ませて、お墓に納骨し、づーっと後から、お姉さんに成長して想ったのは「繭と墓」

〓「繭と墓」〓

蚕は繭にはいります。
きゅうくつそうなあの繭に。

けれど 蚕はうれしかろ
蝶々になって飛べるのよ。

人はお墓へはいります。
暗いさみしいあの墓へ。

そしていい子は羽が生え
天使になって飛べるのよ。

ー・−・−・−・−・−・ー・−・−・−・−・−ー・−・−・−・−・−・−

最近の葬儀スタイル(@ABCは葬儀会社が敢えて営業用に設定したもの)

@家族葬(10名程度で家族だけで見送るスタイル)
A親族葬(20名程度で家族、親戚、知人等を中心でするスタイル)
B近親葬(60名程度・故人との個人的なお別れを重視するスタイル)
C一般葬(80名程度・故人や家族と生前ゆかりのあった人が幅広く参列する葬儀)
本当はこんなにいろいろなスタイルを作らずに、単にお葬式でいいのです。
最初は家族葬もいいなと思っていましたが、長所も短所もあることに気づきました。
それは、
家族葬だから自分の家だけですればいいとして、亡くなった人の兄弟・親戚にも知らせず葬儀を済ませ、後から兄弟・親戚に叱られてもめる例が今まであったし、子供たちは葬儀を済ませば直ぐ自分の生活している土地に帰り、年老いた片親だけが地元に残りその後、亡くなったことを知らなかったと後日、知人・親戚がお悔やみにバラバラ来られて、それに一人残された年老いた片親がその人たちに、いちいち対応されることは、かなり負担になるようです。
特に個人が交際範囲が多かっあり、事業・商売をされていたりと言う様な場合は、そのようになることが多くなります。
そんなことをするより、できるだけ知人・親戚に知らせて葬儀スタイルを設定せず、ただ葬儀の祭壇は、見栄を張らず質素にすべきだと思うようになりました。
そうすれば何もかも一度にお別れがすみます。それが本来の葬儀のあり方です。

「人は神隠しのように消える(現世を去る)ことはできません。お葬式は亡き人がこの世でお世話になった人々へのお別れすることであり、先に逝かれた人に生き残った人がお別れをする式でもあります。」

あえて「〇〇葬」というように決めつけず、
@「こんなふうに送って差し上げたい」とか、
A「故人らしい葬儀をしたい」というような気持ちがあれば、どのようなご葬儀でもよいのではないかと思います。
*葬儀は家族を取り巻く人たちとの関係性も非常に大切になってきますので、ある程度、理解が得られる方法を考えていきたいものです。
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           =家 族 葬=
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家族葬という小さなお葬式のトラブルとしては「故人とお別れできなかった方々からのお叱りを受ける」というのが代表的なものです。例えば、親戚には知らせず、家族だけでお見送りをした後に「どうして知らせなかったんだ!」と怒られてしまいます。また葬儀後の弔問客が遺族宅に訪れるのが途切れず、対応に疲れてしまうというのも、小さなお式ではよくあることです。
小さなお葬式は葬儀費用がかからない利点はあるとは想います。
昔からの相互互助としての香典が入らないので、実際かかった差し引きの出費は変わらないか、多くなる場合があります。両親は昔からの長い付き合いで、香典を等を出してお付き合いをしてこられました。
実は、小さなお葬式にまつわるトラブルのほとんどが「お別れしたかった」という方々の気持ちから生まれてきます。
小さなお葬式でもいいのですが、一番のポイントは、「お別れしたいと思っている方々を、ないがしろにしない」ということなのです。

近年、お葬式の主流は「家族葬」(かぞくそう)となって来ています。かつては「密葬」と言われていた葬儀形式で、一般参列者を呼ばず、親族だけでコンパクトに葬儀・葬式を行うスタイルです。「密葬」は本来その次に行われる「本葬」の前のことを云いいました。
纏めると、
かつて葬儀は、地域社会の中で、互助会を中心に、自宅を式場にして行ったものです。そのため近隣の参列者が多く、多いい場合は数百人と訪れました。そうした社会状況で親族だけで行う密葬は、死亡理由が事故・事件だったり、自殺であったり、幼年者の死亡であったり、故人が強い遺志を残したりと、特別な理由があった場合だけでした。
しかし近年、葬儀の場は、地域社会から葬儀社・斎場に移行しています。特に都市部ではそれが顕著です。地方から都市部に上京してきた人々は、地縁が薄く、都市部では地域による結びつきが弱いこともその理由なのだと想います。また、葬儀費用をできるだけ抑えたいという要望が多いことが、家族葬の増加に拍車をかけています。都市部で行われる葬儀の過半数は家族葬になりました。
家族葬に対して、従来型の葬儀は区別するために「一般葬」と呼ばれます。しかし一般葬に比べ、家族葬の費用(料金)は低価格で出来るようですが、香典収入も無い、または少なくなり、遺族の負担額は変わらないか、かえって一般葬より多くなることもあるようです。
香典は本来、相互扶助であって会葬者が持ち寄り、助け合う昔からのよい制度です。

「家族葬」という言葉を聞いたことがありますか? 雑誌や新聞で葬儀特集が組まれると必ず出てくる流行語です。

では、家族葬ってどういうお葬式のことなんでしょうか?実は私にも“分からない”のです。

一番多い誤解が音楽葬や仏教葬のように家族葬という形式のお葬式があるという考え方。でも、家族葬の流れは普通のお葬式とまったく同じです。
社葬といえば「会社が費用を負担する葬儀」というように定義がありますが、家族葬の場合、定義というものがありません。強いて言えば、「家族を中心とした小規模なお葬式」という意味になるでしょうか。
この家族葬という言葉、1990年代に関西の葬儀屋さんが使い出したという説が有力です。しかし、その当時から家族葬がどういった葬儀を指すのかということがはっきりしないまま、言葉だけが一人歩きをはじめて、全国に広まってしまったのです。
なぜ実体がないにもかかわらず、家族葬という言葉が広まってしまったのでしょうか?
それは「家族葬」という言葉から、「費用が少なくて済む安い葬儀」という印象を消費者が持ってくれれば、「自分たちに仕事の依頼が舞い込む」というように葬儀屋さんが考えて、積極的に宣伝したからです。
しかし、葬儀屋さんにとって、その葬儀が家族葬かそうでないかというのは、実はどうでもよい問題なのです。お葬式の司会や案内状の文言に家族葬という表現が使われることはありません。
つまり、お葬式の席で公式に家族葬という言葉が使われる機会はないのです。強いて言えば、参列してほしくない人に対して体よく断るときの理由として「家族葬なので」という言い方をするくらいでしょうか。
実際に葬儀屋さんが実務上、気にするのは、参列者のために用意するお返し物と料理はどれくらい必要かということだけなのです。多すぎても少なすぎても都合が悪いですからね。そのため参列者の人数は気にしますが、葬儀をどのような名前で呼ぶか、ということは大した問題ではないのです。
葬儀には誰を呼ぶべき!?
なかには、家族葬にすれば葬儀費用が少なくて済むと考えている方もいるようですが、家族葬にするしないは遺族の出費にはほとんど無関係です。
仮に家族葬ということにしてお返し物と料理の数を減らしても、その分参列者が持参する香典も減ってしまうので、大して葬儀費用の節約にはつながりません。
ちなみに同じ誤解を与えている言葉で最近は「一日葬」なるものがあります。
これは本来、お通夜・お葬式と2日間行うべき手順をお通夜を省いて、1日にしてしまった葬儀のことです。これもお通夜の料理代が浮くだけで大して葬儀費用の節約にはつながりません。

遺族の方が家族葬で最も気を付けなければいけないことは、「家族葬」という名前に引っぱられて遠い親族や近所の人の参列を断ってしまうことです。

「家族葬」だから家族のみでやらなきゃ、と誤解してしまうのです。家族葬というのは葬儀屋さんが商売のために考えた言葉に過ぎません。
お葬式には呼びたい人を我慢せずに呼ぶようにした方がいいように思います。。

お葬式を済ませると年忌・追善法要が続きます。

追善供養は広い意味では「毎日の供養」をさし、狭い意味では「年回忌の法要」をいいます。
追善供養の実際

一周忌、三回忌などには、菩提寺に頼んで、読経などの供養をします。

親戚など故人と関係の深い人を招いて法事を行います。

法事に限らず仏壇を整え、手を合わせることも大切な供養です。お供えをあげ、読経するようにします。

追善供養とは、残された者が法要を勤めることにより、この世からあの世へと 「善を送る」ことです。法要を重ねることで故人の善が増し、罪が軽減されます。 またそれは同時に法要を勤める人の徳にもなり、自身の善行としても積み重ねられます。