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「ネリネの花」は花の表面が輝くように綺麗です。(以下、園芸誌より) 南アフリカ原産のヒガンバナ科の球根植物で、その名前は、ギリシャ神話の海の女神、ネレイデスにちなんでいます。陽の光を受けると、花弁がきらきらとラメが入ったように輝くことから、ダイヤモンドリリーとも呼ばれていて花色は豊富です。 ヒガンバナと似ており、よく間違われますが、属が異なり、ヒガンバナはリコリス属に属しアジア東部が原産ですが、ネリネはネリネ属でアフリカ南部が原産です。彼岸花より開花は遅く、晩秋に開花し、同時に葉を出して冬中葉が繁り、初夏の頃に葉が枯れ、夏は休眠します。 ネリネと彼岸花の一番の違いは、葉が出ているときに花が咲きます。 ネリネの豊富な花色を、群植すればより綺麗です。彼岸花は単色でも群植すると美しさが際立ちます。田圃の畝を縁取るように赤くなるのは絵になります。主に彼岸花の花色は赤・白・黄色です。 彼岸花とネリネの花の付き方は違います。彼岸花は花茎の頂上に、6〜14cmの花筒をもった花5〜8個、車輪(放射)状につけますが、ネリネは彼岸花より、色鮮やかで華やかさがあり、金魚が花筒に向かって、群れているように花を咲かせます。 =・=・= 金魚で想い出すことは、 幼稚園(卒園)演芸会の時、オタマジャクシの王子様になり、家来を引き連れて金魚のお姫様に求婚をする役をしたことがあります。すると即座に「あなたは色が黒いので嫌…!」と袖にされます。その姿は、そう言われて家来の前でバツが悪るく「うろうろ」する身の程知らぬ頓馬な王子なのです。 「金魚」⇔「オタマジャクシ」もともと金魚とオタマジャクシとは、「雲⇔泥≒雲泥の差。月⇔すっぽん≒月とすっぽん。 提灯⇔釣り鐘≒提灯に釣鐘。」。 =・= 「うろうろ」とは、 はっきりした目的もなく、あちこち行ったり来たり、また「うろつく」こと、「うろうろする」こと。 この「うろ」は漢字では「有漏」で、仏教用語なのです。 漏れるものが有ること。これは心を乱すあらゆる迷い、欲望のことで、それを煩悩と云います。即ち「有漏」とは「煩悩がある」という意味。煩悩の代表は「貪り」「いかり」「愚かさ」これを、三毒と云います。 人間誰しもこの迷いに囚われ、あれかこれかと思い迷い、決断しかねて苦しみながら右往左往、結局どこへ行くのか道が解らなくなってしまう。これが有漏で「うろつく」形となります。「うろ覚え」も同じ語源です。 この反対は、漏れる煩悩が無いので無漏と云う。即ち無漏とは悟りを開いた仏様の状態を云うのです。 有漏(「漏」は煩悩の意)煩悩のある状態。⇔無漏(煩悩のない状態。) うろうろ方向が定まらずどうしたらいいかわからず。落ち着きなく動き、うろつきまごつくさま。
「無漏」と似たような使い方に、*1.「無学」・*2.「無心」と言う語があります。 無心・無学も仏教用語です。*1.「無学」はもともとは煩悩を断ち尽くし、もはや学ぶべきもののない境地、仏教の事を全て学び尽くし、もう学ぶ事が何も無い状態に使われます。この語は今では反対の意(学問・知識がないこと)に使われています。
*2.「無心」は心がない・心が空っぽとはちがい、「無心の境地・自由自在な天地いっぱいの心」という意味で、英語では「ノーマインド・フリーマインド・オープン・マインド」と言った方が適当のようです。
「漏」とは「もれる」ものを指していて、その流れ出るものが煩悩や迷いを意味します。つまり、「有漏」 とはさまざまな煩悩に惑わされたり、あれこれと迷っているさまを表します。
有漏路=煩悩が多い者のいる世界、この世。 「迷うも悟も有漏路より無漏路へ送る」 「漏」は「もれる」状態。 有漏(「漏」は煩悩の意)煩悩のある状態。⇔無漏(煩悩のない状態。) うろうろ方向が定まらずどうしたらいいかわからず。落ち着きなく動き、うろつきまごつくさま。
有漏路=煩悩が多い者のいる世界、この世。 「迷うも悟も有漏路より無漏路へ送る」
<有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る 一休み雨降らば降れ 風吹かば吹け>
この歌は とんちで有名な一休さんの歌だそうです。人生は迷いの世界から、悟りの世界へのひとやすみ(一休み)のようなものだから、予期せぬピンチに陥るけど、ジタバタしてはいけない。 そんな内容です。心を「ひと休み」させて無心になる。そしたら決策が見えてくるかも?
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