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■ 52)安藤広重の【六十余州各所図会】の内、『長門 (安政3年)下の関』の木版画(錦絵)を見けました。あまり見る機会がないと思うので、ここに載せます。千石船と対照的な、あの小舟は…!。あの山はたぶん名池山…?。その向こうは…!。古い地名の事も…!。2011.2.22

〓:*1.安藤広重の【六十余州各所図会】:〓(東海道53次は横書きですが、このシリーズは縦書きになっています。)
その【 長門[上木]下の関 】の部分が当山から見つかりました。
(安政3年;1856年)
シワ・シミ・補修もなく良好です。
   (画はクリックで拡大)。(+)の時更にクリックで拡大。
“六十余州各所図会”という題には、
[長門]と[下の関]の間に書かれた【安政三丙辰上木】という字は、原版には無く、後に筆で加筆されものです。長門という国名と、下関という地名の間は、「初摺」では余白です。
調べてみたら長門は、古くは「穴門(あなと)」と呼ばれ、「穴戸」と書くこともあり、『日本書紀』には、大化6年(650年)穴戸の国司が白雉を献上したとされ、天智4年(665年)には長門国が初見されることから、この間に穴門から→長門に改められた。

穴門とは海峡(関門海峡)を指しており、日本神話にも「穴戸神」の名が見えるようです。
古代の呼び名・穴門(あなと)から→長門(ながと)に…。山口県は(西の長門・東の周防)の二国です。

安政三丙辰は、(1856年)。得意の広重ブルーがよく表されています。
〔上木(じょう‐ぼく)〕とは、書物を印刷するため版木に彫ること。また、書物を出版すること。上梓(じょうし)と同じ意味のようです。
上梓とは梓(あずさ)の木を、版木に用いて、文字を刻んだ事から云う。用例;「論文・自伝を上梓〔上木〕する」「処女作を上木(上梓)する」と言う風に使います。現在では上梓;上木と言う言葉は、殆んど使われなくなりました。
実際の錦絵の版木は、木目が細かく、粘り強く耐久性に優れているので、硬い桜(山桜)材が多いようです。
【六十余州各所図会】の中では、
実際、他のどの錦絵も、国の名と地名の間は、余白です。「初摺]と言う意味で、後から加筆されたようです?
初版?だから、
小舟に乗っている三人の小さい顔の口・目鼻立ちが、このupした画からでも、ハッキリしているのが判ります。保存している手元の、この画の原画を見ると、更によく判別出来ます。これは素人が思うに、初版?の故だからと思います。この画と同じ現在の復刻版(長門 下の関)を、ネットで見ましたが、小さな顔の口、目鼻が、潰れたように摺られている様に見えます。復刻版のと、この画の原画の舟上の三人の顔と、比較してみると、当時の浮世絵師・彫り師・摺り師の技量のほどがよく判ります。
*1.広重の浮世絵師としての名は、安藤広重より、歌川広重のほうが正しいそうです。
  (1797〜1858)詩情豊な風景版画の連作で名を成す。
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  (【六十余州各所図会】は、風景画の名手、広重が
   晩年57歳から60歳にかけて制作した錦絵。)
   
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東海道、畿内(大阪など)、東山道(宮城など)、北陸道、山陰道、山陽道、南海道(四国など)、西海道(九州)の八つの街道の六十九の名所を通して、季節や気候、土地の風物といった日本の自然を、西洋画の遠近法を駆使しながら壮麗に描いたもの。
全69図に目録1枚の計70枚。全図とも画面は縦長で、前景を大きく描き、遠近を強調したり、大胆なトリミングを施すなど、斬新な構図が見られるものです。
*2.山口県の中では、この長門と、周防が画かれていて、周防の方は岩国の錦帯橋です。
藩政時の山口県は(長門・周防の二国)
千石船のうしろ半分の船尻を大きくみせた画面は、構図として奇抜だし、千石船と小舟の対比も印象的です。
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画かれた処は、今の亀山八幡宮の小高い境内辺りから観た情景でしよう?今でも、関門海峡がよく見えて、見晴らしがいい所です。海峡の向こうの山並みは、対岸門司(大里)・小倉のイメージ…。幕末の頃まではこの辺りは、“諸州の廻船よらざるはなし”と云われ西の難波・小江戸と云われて賑わっていました。古地図によると下関の海の関所は、亀山神社直ぐ下の海峡に面した処にありました。

山陽道の西の起点・石の道標が、八幡宮鳥居下に移されて来ています。この道標は、本来はここから1`西の観音崎(現在の永福寺の階段下辺り)にあったようです。この寺の下から、山陰・山陽道が分岐し、西の起点となる一里塚となっていたのです。

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現在の亀山八幡宮の境内は、辺りを【*3.】毛利家が開作するまでは小島でした。
【*3.江戸時代の始め頃、湊を造る為、毛利家が干拓工事を起こします。しかし海峡の潮の流れは、ひと岩沈めれば、直ぐ流される激流で、工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみで、なかなか成し遂げられませんでした。そんな折、*4.稲荷町の痘痕のある“お亀さん”という遊女が、人柱に立つことを自ら申し出たと言われます。白衣に身を包み、海に身を投じて、埋立が捗ることを願ったのだと云われています。亀山神社の辺りを、毛利家が干拓(開作)し拡げて、八丁浜(ハッチャハマ)を造ったのが史実です。】

画面右上の、倉庫郡・家並みが続く後の山は、目で見たような実景で画いたものではないと思いますが、多分、【※1.名池山と名池山の麓、現在の市役所に(中世の“*1.鍋城”)】が在った辺りです。
*1.中世の豪族・厚東(ことう氏)の(古城=鍋城)それが現在の(南部町・なべちょう)。市役所の西、名池山側の小さな大国神社の辺りは、かなり高地になっています。
だから昔はあの辺り一帯は、ひと山在り、その上に中世の古城(鍋城=たぶん鍋を伏せたような小山)が在ったのでしよう?
小さな大国神社(出雲大社の分社)は、その城内の一部だった?
いま市役所を改造する為に、西側の一部を削岩しています。この一帯は、山城が築ける程の、小山が在ったのだと思います?いま岩盤を削りとっていますから、市役所のある一帯は、耐震性のある堅固な地盤のようです?
一時市役所を移転する話が出ました。しかし、狭いかもしれませんが、他所に市役所を移転せず、現在工事をしているように、建物に耐震構造を施し、改造するのが、ベストで正解だったと思います。

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更に以下、
この錦絵の山の向こうも覘きます。

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錦絵に描かれた山は、
【「今は廃寺になった大隆寺。現在の東蓮寺;法幢寺;国分寺(元長門国分寺は、幕末までは長府に在った);酉谷寺;専念寺;永福寺;中山寺;興禅寺」等の諸寺が連なる山】だと思われます。この名池山の辺りは、幕末には廻船問屋に係る商家が多く、この辺りの奥様は【御御様(おごうさま)】 と呼ばれ裕福だったようです。
御御様とは、《「おごぜ(御御前)」の音変化かという》他人の妻や娘を敬っていう語。また単に、妻、娘。おご。と呼ばれたようです?。
その名池山を回り込んで、海峡側に低くのびるように、薄く画かれているのは、現在の「永福寺の下、観音崎(観音崎町)」&「王子ヶ鼻=岬の尾根」と呼ばれていた現在の岬之町(はなのちょう)」の浪打際でしようか?

≪昔の呼称:「王子ヶ(鼻;ハナ)」から→現在の(岬;ハナ)之町と呼ばれるようになる。≫
幕末以後は、あの山の西の方が開発されて発展してゆきます。
「岬・崎(さき、みさき)」は、丘・山などの先端部が平地・海・湖などへ突き出した地形を示す名称ですから、=現在の「岬之町(はなのちょう)=岬の尾根の端(ハナ)」は、昔の「王子の鼻」一帯を差します。
現在の永福寺がある観音崎を過ぎて、中山寺(ちゅうざんじ)・興禅寺の方へ行く、通称三百目通りの細い谷は、*2.昔、橋が架かっていた狭い谷川でした。今では全く面影がありません。
*2.この中山寺・興禅寺の方へ行く谷は、三百目通りと云われる。その謂われは、この谷川に江戸の頃、藩内に油屋仁左衛門と言う人がいて、藩に銀三百匁を寄進したのが基で、橋が架けられます。それで「三百目橋」と、言われていたとようです。それで通称が「三百目通り」です。三百目通りから、大正通り、名池山へと続き、上田中町の方に行けます。現在の道は谷の底なのだと想います。
中山寺を挟んで、左右に分かれる道は、左が大正通り(大正時代に出来た通り)、右側が名池山へ行く道です。三百目という町名は存在しません。R9号線に三百目という山電のバス停はありますが…。

「王子の鼻」は、現在でもR9号線より海側に、小高い丘が残っている所があります。其処まで続いていたのです。
其処にあるプラザホテルが、昔の“岬の鼻=岬の尾根”=「王子ヶ鼻」の先端です。このホテル海側、車道(よんけん通り)を挟んだ向こうの埋立地に、新消防署が地盤を耐震強化をして、出来ています。プラザホテルのすぐ西に、「王子の鼻」の先端を思わす、低い丘状の場所が今も残っており、その上に建物もあります。
昔の本州西端の下関は、複雑な海岸線(岬;鼻:入江)で、彼方此方複雑に入り込んでいました。それらの多くの岬を削り、彼方此方の入江を、埋め立てています。

現在の下関日銀支店近くの、功徳院と言う寺の辺りを、昔「薮の内(うち)」と言いました。
現在も小高い梅光学院・名陵中学校・王江小学校から続く「王子ヶ鼻」は、海峡に延びる岬の尾根なので、迂回すれば遠く、時には浪を被ることもあるので、今の功徳院辺りから、薮の内(なか)を越えて近道とする、低く短い峠みたいなのがあったことになります。だからこの辺りを、一般に現在も「薮の内(うち)」と言います。
現在は城のように見える、寺の石垣がありますが、その頃は寺はまだありませんでした。峠の道の藪の中、今の寺の境内あたりから海側を削り、現在の上下6車線のR9号線を通し、更に日銀下関支店を挟んだ、2本の道(県道?市道?)、計3本の道が作られ、その辺りの削った残土で、埋め立てて、現在の細江町・山陽の浜が出来ました。現在の寺の石垣は、岬の尾根を削った後に、築かれた土止めのような役目の石垣なのでしよう?海岸線の「上下2車線の(よんけん通り)」は埋め立て地の上です。だからここから海峡側には、4本の車道があることになります。「王子の鼻」の岬を削った辺りが、現代の入江町の一部と岬町(ハナのちょう)です。だからこの辺りの地盤は、埋め立てでないので堅固です。このあたりの国道(R9号線)は、水平ではなくよく見れば幾分か盛り上がっています。

三百目(さんびゃくめ)という町名は存在しません。
(この功徳院という寺は、田中川に架っていた弁天橋(べザイテンバシ)から、弁財天を遷して、お寺にするまでは、岬を超える短い薮の中だった。)三百目と言う橋は三百目で出来たからそう呼ばれていたそうです。銀三百目で出来たぐらいだから、谷川に架かる小さな橋?だったのでしょう。王子ヶ鼻の峰と名池山を挟む小さな谷川だった?のです。

「王子の鼻(ハナ)」は、江戸時代の古地図に、「王子ノハナ(鼻)」と記されています。その西側のねきには、番所もあったようです。

唐戸・南部町・観音崎を過ぎ、昔の三百目通りにさしかかる所から、この寺の小高い境内辺りを越えて、西に行けたのだと思います。今でも三百目の名が、バスの停車場として残っています。
この功徳院には、「薮の内弁天」として、弁財天が祀られています。この弁財天は、明治〜大正期?、現在の市役所の近く、田中川に架かる「弁財天橋」の近くにあった祠に祀られていたようです。弁財天は水に縁があるインドの神です。だからよく水があると所に祀られます。そこにあった田中橋の袂の祠から遷して、此処に遷して寺にしたといわれます。幕末時には、功徳院と言う寺は、存在していないことになります。そのことを知る人は少なくなりました。
三百(目;メ)から「王子の鼻」を通らず、現在の(岬;ハナ)之町の海側を通ることなく抜けて行けたことから、「目(メ)から鼻(ハナ)に抜けて行く」=それを「カラシが鼻に抜けて辛い」ことに喩えて、=芥子小路=と言っていたのだと云います。

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湊の沖には、3.4の小島が画かれています。
幕末の頃には、画のような島は、実際にはなく、画の構成上、広重が付け加えたものだと思われます?それか、当時は存在していて、近世に海峡を広げた浚渫工事で消えたのかも知れません。

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画のような島はなくとも、干潮時に現れる岩礁が、彼方此方あったかも知れません?
有名なものは、幕末の頃迄、巌流島の近くに、※2.「篠の瀬(死の瀬)」岩礁群がありました。亦は通称;与次兵瀬。
※2.「与次兵瀬」=「篠(死)の瀬」は、当時難所として、恐れられています。この岩礁は、豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄の役)の指揮を取るため 、肥前名護屋城にいた豊臣秀吉は、母危篤の知らせに、大急ぎで帰坂することになった。帰坂途中に、ここで御座船が座礁転覆したが、毛利によって、助けられたと言われています。その時の座礁させた船頭、明石与次兵衛は責任をとらされ、切腹させられます。その名を取り、江戸時代には『与次兵衛ヶ瀬』とも呼ばていた。岩礁は大正年間、航行する船舶の増加と大型化に伴い爆破処理される。
何れにしても、
≪幕末の「出舟入船千石船」で賑わった、当時の馬関湊の様子や、歴史と繁栄が、この錦絵から、よく覗えるものだと思います。栄えた当時は、西の難波と云われていました。≫
千石船は難波から青森まで、航海をしながら各湊に寄り各地の物産を取引して、三カ月かけて航海していたようです。

名池山は空也上人にまつわる、名水「名池;(めいち)」として知られています。今でも東蓮寺前に、「名池井戸」として遺っています。この井戸ばかりでなく、きっと名池山の伏流水が、山裾のあちこちから湧き出ていて、その水は千石船に積み込まれたことでしよう?しかし、現在では名池山は開発されていて家が立ち並んでいます。それで保水力を無くし伏流水も少なくなり「名池井戸」も淀んでいて飲み水に適していません。幕末までの名池山は豊かに木々が茂る原生林の山でした。
※1.画の中の、名池山の麓、手前辺り、倉庫郡・家並みのある処は、戦前頃までは、裕福なお屋敷があった地域で、この辺りの商家の奥さんは、「おゴウさん」と、特別な呼ばれ方をしていたと、ご年輩のご婦人から聞いいたことがあります。「おゴウさん」≒「裕福な商家のお屋敷の奥様?」と言う意味でしょうか?
千石船の頃、入船出船で賑わい、多くの問屋があったようで、難波に次ぐ西日本一の大湊として栄えたその様子です。

民家・問屋が連なる(南部町・現在の市役所を少し西、観音崎へさしかかる辺り)に、萩本陣の「馬関越荷方役所」があり、高杉晋作が責任者として関ると(1865年)、往来する全ての船から手数料を取とるように、権限を拡大する。越荷方の莫大な利益で、騎兵隊を結成される資金に当てらたそうです。
長州征伐が出されると、晋作は海軍提督・後に参謀として倒幕戦を勝利に導きます。晋作死後「越荷方」は明治維新を実現させる上で、決定的な役割を果たしたのだそうです。現在は「馬関越荷方役所」跡に、石碑があります。この役所は、最初現在の下関漁港の近く新地(白石正一郎邸辺り?)にあったようです。
藩の改革反対派から、一時追われる身の晋作が、隠れ住んだのは新地です。
闘病生活をしたのも、終焉の地も新地です。


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以下(ネット情報纏め。)
晋作が「越荷方」の権限を任された翌年には、幕府が長州藩に対して兵を出し、征伐を行う、幕長(ばくちょう)戦争がおこる。
*⌒*⌒*⌒
「幕長戦争」=江戸幕府が毛利氏長州藩に行ったもの。長州征伐・長州出兵・幕長戦争・征長の役・長州戦争・第二次長州征討などとも呼ばれる。
この長州征討で、幕府軍(征長軍15万の大軍勢)を諸藩から集めて、長州藩を四方向から一斉に攻める方法が取られ、小倉口、石州口、芸州口、大島口の四方から攻めたため、長州側では四境戦争と呼ぶ。
山陽道から侵攻する「芸州口」、山陰道から侵攻する「石州口」、関門海峡対岸より侵攻した九州勢「小倉口」、四国の諸藩兵は「大島口」の四方面。
石州口は、大村益次郎の活躍により勝利。
小倉口では、大島口から戻った晋作、<既に結核の病状悪化(26歳)>≪29歳病没≫が、(騎兵隊★千人の指揮)をとり、小倉城(九州諸藩から★5万人)の大軍を率いながら、わずか千人足らずの長州藩軍に大敗を喫す。
途中、坂本龍馬率いる海援隊の応援もあり、小倉城陥落炎上し、長州藩の勝利で幕を閉じた。
当時小倉は細川家→小笠原家。
この第二次長州征討の失敗により、幕府の武力が張子の虎となる。この敗戦が徳川幕府滅亡をほぼ決定付けることになる。これにより佐幕派と、薩長を中心とする倒幕派の力関係の逆転。

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【越荷】・【越荷方】について、
【越荷】江戸時代に、廻船で下関を通って大坂に送られた日本海沿岸の物産。長州藩での言い方。
こしにかた【越荷方】
江戸時代に、長州藩の村田清風が下関に設置した藩営の商社。越荷を、大坂での相場が安いときには下関に留め置き、高値のときに売るなどして利益を得る。
下関は商業と海上交通の要所。藩はこれに目をつけ、藩士の村田清風が、豪商の白石正一郎や中野半左衛門らを登用して、「越荷方(こしにかた)」を設置します。
「越荷方」は、藩本部の会計とは別個の出先機関。有事の際に使われる特別会計を担った。幕府に対しての隠し資財。ここで備蓄された資金が、幕末には武器の近代化にあてられた。
(当時下関沿岸では、400を越す問屋があり、賑わっていたと言います。)
村田清風は、藩主毛利敬親のもとで、天保の改革に取り組んだ貢献者。
藩が下関で運営した北前船の回船を相手にした貿易会社。いわば北前船など、諸国の回船を相手に、通行料徴収・倉庫業・金融業を営んだ。長州のかくし財産的存在。これが幕府にも対抗出来る資金だったようです。此処から資金を出し、薩摩藩から軍艦一艘・小銃(当時最新式のゲーベル銃?)一万丁購入し、明治維新を実現させる力にします。

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『歌川広重の作品は、ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高いようです。広重の鮮やかな青は藍(インディゴ)の色を、欧米では「ジャパンブルー」、あるいはフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)に習って「ヒロシゲブルー」とも呼ばれてもいる。
ヒロシゲブルーは、19世紀後半のフランスに発した印象派の画家たちや、アール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響をあたえたとされ、当時ジャポニスムの流行を生んだ要因のひとつともされているのだそうです。浮世絵版画の出版は、幕府の許可の下でおこなわれていたので、各図版には検査を受けたという「改(あらためいん)」印が刷り込まれています。
落款(署名、印章)で、誰が描いたのか分かり、版元印で、版元はどこかも分かります。極印、改印で、いつ出版されたのかも分かるようです。』
以上、『 』内は、この画の為の、ネットに依る情報。
*3.【江戸時代の始め頃、湊を造る為、毛利家が干拓工事を起こします。しかし海峡の潮の流れは、ひと岩沈めれば、直ぐ流される激流で、工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみで、なかなか成し遂げられませんでした。そんな折、*4.稲荷町の痘痕のある“お亀さん”という遊女が、人柱に立つことを自ら申し出ます。白衣に身を包み、海に身を投じて、埋立が捗ることを願ったのだと云われています。亀山神社の辺りを、毛利家が干拓(開作)し拡げて、八丁浜(ハッチャハマ)を造ったのは史実です。】
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地名の説明が多くなりますが、更にこの画を通して下関の幕末時を説明をします。
幕末時千石船の入船・出船で、繁栄していた、良き赤間ヶ関(下関)を知る意味です。
古くから、この画かれた辺りを「赤間ヶ関」;「馬関」と呼れています。
昔、近隣の人は、下関に行くことを、「関」に行くと云っていました。

*2.広重が此処に来た安政三年には、「下の関」としています。
当時、「下の関」≒「赤間ヶ関」≒「馬関」と言う呼び名を、どのように区別していたのでしよう?
「防長;三関」があることから、地元・近隣の人は、「赤間ヶ関」;「馬関」と呼び、諸国(広域)から見た場合、下関と呼ぶのが一般的だったと、素人推測出来ます?
山口県には近世から、サンセキ(防長;三関)があります。
それは、
西にある「下関」以外の「関」は、中央は防府三田尻「中関」;東は室津半島の先端「上関」です。
特に上関・下関は瀬戸内海の海上交通の要衝に位置し、万葉集にも登場、古代から栄えた歴史を持ちます。「中関」は毛利家以来かもしれません?
*2.【広重が実際に、下関に来たかどうかは定かではなく、備前児島の富農出身の淵上旭江(1713−1818)が描いた「山水奇観」を、参考(種本)としたと言う説もあると云います。前編、寛政12(1800)・後編、享和2(1802)】
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山口県のサンセキ(防長;三関)は、近世に船の荷を、検査する番所(関)が設置されていたことによるようです。。
このように地名の下・中・上と言う呼び方は、都(京都)に近い方を、上・中・下とします。
また、備前・備中・備後。豊前・豊後。肥前・肥後。越前・越後の例も同じです。前と付くのが都に近いのです。

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下関は、昔、(赤間関・馬関)とも呼ばれました。赤間関・馬関と呼ばれたのは、伝説的には、
現在の阿弥陀寺町にあった、昔の「月波楼・春帆楼・風月楼」」付近(元阿弥陀寺境内)は、
むかし硯の材料として、採掘していた巨石の山があり、其の形状馬の様よう、其の色、赤色に由来する地名であったとされます。
この版画の中では、千石船が数隻寄港して停泊しており、遠方の海峡を数隻航行しています。入船・出船の様子です。
言うまでもなく、薄く遠方に画かれている山並は、海峡の対岸北九州市門司(大理)・小倉です。幕末の頃の下関は、諸州の廻船よらざるはなしと云われ、西の難波・小江戸と云われたほど賑わっていました。
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千石船は船体の割に、舵は大型で固定式でなく、水深に合わせて引き上げる事が出来る吊り下げ式。これは水深の浅い日本各地の湊に、近づく為の工夫のようです。
千石船の事は誰もよく知っています。(千石積級の大荷が、北前船に、ごく普通に使われるようになると、大型廻船を代表して、いつしか千石船の呼び名が定着していったようです)
大きな千石船とは対照的な小舟が、手前に自然に目に入ります。
*⌒*⌒
それは伝馬舟・ハシケのようでもないし、見物に現れた様子でもありません。見物舟ならば、船頭以外に、必ず子供、大人男女同舟している筈です。
(船頭を除けば二人は女性。よく見れば、一人は大風呂敷の包み・もう一人は、柳行李(ヤナギゴオリ)を、夫々乗せています。しかも着物が、一般の女性よりも、身奇麗に見え、また髪の結い方も違うようです。また裾を少し崩し気味に、寛いでいます。余り行儀は良くないかも!明らかに一般の女性とは、違うように画かれています。船頭が左手で櫓を操り、右手を伸べて、千石船の“船頭相手に一夜妻”を務めるのは、この船と指でしめしながら説明している一場面。
この小舟を見て、此処で説明をする気になりました。

*⌒
それで、この小舟の名前を調べました。
以下、サーチ【search】しながら、

   ≫≫≫──────↓─↓─↓─↓─↓───── ≪≪≪

この小舟はたぶん、
*5.「“おちょろ舟”」と言うのだと思います。此の錦絵を見て、調べるまでは、「おちょろ舟」と言う言葉も、役目も知りませんでした。
「(おちょろ舟)の役目を、此処に載せるのは憚られる思いですが、千石船(北前船)にまつわる、特有な風俗として、明白なる史実だから、ここに載せます。」
(“おちょろ舟”)は「お女郎(じょろう)舟」が訛ったようです。瀬戸内の湊に多くいたといいます。
〔西の浪花と呼ばれた*4.稲荷町≒現;下関赤間町は、当時江戸の“吉原”・京の“島原”につぐ三大遊廓の一つとされます。井原西鶴の「好色一代男」に*4.「稲荷町」の事が描かれています。高杉晋作・坂本竜馬・伊藤博文等が、この界隈で盛んに出会って国家を論じたらリ、遊んでいたことでしょう?昔、「遊郭」は湊町につきものの風俗です。
坂本竜馬は、おりょうさんと一時(半年ぐらい)、稲荷町近くの阿弥陀寺の近くに住んでいました。
「赤間関(あかまがせき)稲荷町(いなりまち)」は、天和二(一六八二)年に刊行された西鶴の『好色一代男』に登場します。元禄時代にはもう日本じゅうにその名を知られていた。現在下関市赤間町の一部が稲荷町にあたる地域で、町名となったお稲荷さんもそこに健在です。
古くは稲荷町は、源平合戦からの縁起を誇る遊里でした。壇の浦で敗れた平家の女官が、生活のために春をひさいだのが稲荷町のはじまりといいます。遊女たちが、安徳帝の命日には綺羅(きら)をかざって御陵に参ったのが先帝祭の起源で、当時その参拝道中は稲荷町の三階建の大阪屋(現在は東京第一ホテル下関)という妓楼から出発したようです。

東京第一ホテル下関ホームページによると、下関赤間関稲荷町の妓楼「大坂屋」の跡にあたとされます。稲荷町は江戸時代、全国的に知られた遊里で、明治維新で活躍された高杉晋作、伊藤博文先生をはじめ多くの志士たちにとっては、時に作戦本部ともいうべき場所となり、また浩然の気を養う憩いの街ともなった史跡として維新史にその名をとどめております。

竜馬は長府藩赤間関で、大年寄を世襲する伊藤家当主・伊藤九三から、伊藤邸の一室を借りると「自然堂(龍馬の雅号)」と名づけ、(妻・おりょう)とともに逗留後、京都で暗殺されるまで、妻・おりょうさんをここに住まわせます。坂本竜馬は妻おりょうさんと、慶応三年下関本陣伊藤邸に逗留した時、小舟で巌流島に渡り花火をして遊んだと云われます。 
国鉄の前進である山陽鉄道が、現在の下関駅に近い細江町に移ると、賑わいが当山の前、細江町・豊前田町に移って行きます。更に山陽線の関門トンネルが通じると現在の下関駅の方に遷ります。〕

此の版画の小舟は、
*5.お女郎さん二人が、“おちょろ舟”に乗り、千石船に出向いて行く様子を描いたもののようです。
板子一枚が、海の底の船乗り達の為に、入港・風待ち・潮待ち時に、停泊している船の乗組員を相手に、身の回りを含めて、世話をする一夜妻の役目をするお女郎さんを乗せ、千石船まで出向いた小舟のことです。陸と舟との間の、荷役を担った「伝馬舟・ハシケ」とは違います。
*4.地方によっては、チョロ舟・猪牙舟(ちょきぶね)とも言います。
謂われは、
手漕ぎのチョロ舟は、舟足が速く、「チョロ・チョロ縫うように進むからチョロ舟」と言う。猪牙舟は「舟の先端が猪の牙のように、尖っているから、そう云われています」
此の版画もよく見ると、舟先きが猪の牙のように先鋭です。
舟の構造としては皆同じで、「おちょろ舟」≒「チョロ舟」≒「猪牙舟」なのです。それは地方によって呼び名が違うだけです。
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【六十余州各所図会】(全70枚)は晩年の製作のようです。それを裏付けるように、辞世の句を見つけました。
  ≪東路(あづまぢ)に筆をのこして旅の空 西のみくにの名所を見む≫
このことから【六十余州各所図会】は、晩年に日本各地を見て歩き製作したことになります。
しかしこの歌も、自身の辞世ではないともされます。1854年(安政元年)から1856年(安政3年)にかけて制作された広重晩年の作で、五畿七道の68ヶ国及び江戸からそれぞれ1枚ずつの名所絵69枚に、目録1枚を加えた全70枚からなる名所図会なのだそうです。
このUPした画は、その中のご当地錦絵の一枚です。

〓以上、文中に多くの地名・その謂われ等を入れたので、くどくなりました。〓
当山の下を豊前田谷と言いますが、段々と忘れられて来ています。特に(谷)と言いういわれ方が…!
行政による町名変更以来により、昔は誰でも知っていた謂われある歴史上の地名が、消えてゆきました。それで此処に多くの地名を入れました。

=余聞=
・明治以降、西洋人等が、錦絵に大変興味をしめし、自国に持ち出したと云われます。多くの浮世絵が包み紙、おみやげなどで、海外に流出したことが知られています。
そのようにして、多くの作品が海外に流出し、絵画の 印象派に影響したのだと言うことは、よく知られています。
・さらに外国は、梅雨や湿気が少ないため、シミ・虫食いなどが発生しにくいようです。それ故、外国からの里帰りの方が、日本に残っていたものより、大事に保存されているものが多いいようです。
・多色刷りの際に、色がずれないように、紙の位置を示す「見当」(*6.現在のトンボ)がつけられます。これは現代でも使われる「見当を付ける」「見当違い」「見当外れ」という言葉は、ここから来ていると言われます。
・「*6.トンボ」とは印刷物を作成する際に、仕上がりサイズに断裁するための位置や多色刷りの見当合わせのため、版下の天地・左右の中央と四隅などに付ける目印。見当標とも言う。一般的に天地・左右の中央に付けるものをセンタートンボ、仕上がりサイズの四隅に配置するものを角(かど)トンボと呼び、この他、印刷物の形状に応じて折りトンボなどが用いられるようです。
・版画が盛んな頃の錦絵の一枚の値段は、当時20文位だと言われています。蕎麦一杯;16文と言われていますから、現在価格では5.6百円でしようか?当時は誰にでも手に入ったようです。

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【 当山の〓仏画・小仏像・絵画・什物等〓は、全て境内外(寺外)に保管、保存しております。】
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