鯨のように横たえていました。(海自の潜水艦;招待者だけ艦内見学をさせていました。) 船首の方には日の丸:船尾に旭日旗でした! 旭日旗の事をサーチ【search】して見ました。 日章と旭光を意匠化した日本の旗。 しばしば誤って別意匠の(「日章旗」≒『日の丸』)の意味と呼ばれることも多いようです。 (画はクリックで拡大 ルーペが+の時は 更にクリックで大きく拡大 ) よく当ホームページ(掲示板・お知らせ)等に下関に寄港した海自の船を載せていますが下関の今(関門海峡)を、紹介しようと思って載せているものです。けっして戦争等を賞賛したり、讃美しようとするものではありません。海自船のみならず、いろんな船を載せていますよ! 国際航路:海峡だから最新鋭の船が、よく似合うと言った感覚です!? それから港町である事を知ってもらう事でもあります。 それに下関の観光の一助?とも思って! 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 鯨はこの海峡には入ってきませんが、イルカは昔いたようです。(現在も海峡を出入りしているかどうかは、分かりません。) 海峡の東側(左);瀬戸内海には、鯨の仲間で一番小さいスナメリが居るようですから、 この海峡を今でも、出入りしているのかも知れません。 スナメリは日本で、最大の生息海域である瀬戸内海に、2000年の調査で約7600頭が生息していると推計されました。 源平・壇ノ浦の合戦で、イルカの大群が、源氏から平氏の側に泳いで行くのを見た陰陽師の阿部晴信は、平氏の滅亡を予言したと平家物語は伝えています。(これイルカではなく スナメリの事だったのでしようか?) 「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」 :昔の捕鯨について: 〓近代捕鯨は下関ですが、昔;捕鯨が盛んだったのは、山陰側の仙崎です。〓 仙崎(金子みすずの生地)の油谷湾は、かつて捕鯨基地として栄えた、大きな湾を持つ港です。 捕鯨は冬から翌年の春にかけ、日本海を下るクジラが、仙崎湾・油谷湾に入ってくるのを待ち受けて行なわれたようです。
古来海の彼方から沿岸に来た鯨は捕獲され、人々に多くの糧や豊かさをもたらしてくれました。それで人々は感謝をこめて、鯨をあますところなく、すみずみまで利用したうえ、鯨の墓や供養塔を建て、鯨法会をして全国各地でねんごろに弔ってきました。
特に仙崎:通地区では子鯨をおもう親の情を哀れみ、ここの特色は村人たちが鯨を捕らえた日を命日として、戒名をつけ菩提を弔われていました。古来捕鯨が盛んな時期、この地ならではの優しい村人たちの姿が伺え、鯨法要も寺で行われます。 また向岸寺には鯨位牌・鯨児過去帖があり、鯨に人間と同じように戒名がつけられ伝えられています。 「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」 =林芙美子のこと= 〓直筆の詩稿が見つかった(2009/9)その詩〓 書かれた時期は不明 「風も吹くなり 雲の光るなり 生きている幸福(しあわせ)は 波間の鴎のごとく 漂渺とただよひ
生きている幸福(こうふく)は あなたも知っている 私も知っている 花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かれど 風も吹くなり 雲も光るなり」
当に、花のいのちは短くて、 苦しきことのみ多かれど、 人生は『吹くなり、 光るなり。』 ですねェ〜!
文中の幸福(しあわせ:こうふく)の送り仮名は、原文の芙美子自身の送り仮名です。
誰もがよく知る、 「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき。」と自身が好んで、いつも色紙に書いた作家 林芙美子の直筆の詩稿が見つかった(2009/9)のが、上の詩です。 その原稿を写真で見ましたが、智的なあじの有る字体でした。詩意もあじがありますよねェ〜!
「波間の鴎のごとく 漂渺(ひょうびょう)とただよひ 風も吹くなり・雲も光るなり」 これ、 関門海峡;尾道海峡が イメージされているのでは!? 放浪記にも海の事が出てきます。 (尾道の)「海が見えた 海が見える・・・」も有名です。
漂渺(ひょうびょう)を広辞苑で引いても、載っていませんでした。それで(渺;びょう)は難しい字なので辞書を引いてみました。 (渺)という字は「水面などが限りなく広がり、遥かに霞んでいる」という意味。 「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」「−−−」 林芙美子は、明治37年(1904)12月31日に下関市田中町の五穀神社横にあったブリキ屋の2階で生まれました。(田中町・五穀神社境内には「林芙美子生誕地の碑」があります。) 芙美子の父が宮田麻太郎です。ところが生まれるとすぐ夫婦仲が悪くなり、芙美子は私生児として届けられれる。その父は「文子」と付けたのが、それを届ける人が「フミ子」と届けたようです。実父と「文子(4.5歳)」頃のツーショットの写真(ふるさとの想い出・写真集明治・大正・昭和の下関)にその説明が載せてあります。 下関でこの地域に縁のあるのは、田中絹代;金子みすず;林 芙美子の3女性がおります。 _・_・__・_・__・_・__・_・__・_・__・_・__・_・__・_・_
芙美子の出生地については、 尾道・下関・門司・鹿児島などの諸説が云われていますが、自伝的作品「放浪記」には、「鹿児島を追放されて、父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関というところであった。私が生まれたのはその下関である。」とあります。 又『思い出の記』に、 「どんなに苦しくても、田舎に居た時代が今では、一番なつかしくてなりません。わたしの生まれたのは、山口県の下関です・・・。」とあります。 それなのに現在では、門司の方から、何故か出生地は門司(小森江)であると盛んに言われ出しています。 薄命で48歳(1951)川端康成が葬儀委員長を務める。 自叙伝でもある「放浪記」にも下関のことが書かれており、第一学年から第四学年まで在籍していた名池小学校の資料室には、彼女の学籍簿が展示されています。
以下(放浪記より)
海が見えた 海が見える 五年振りに見る尾道の海はなつかしい 汽車が尾道の海へさしかかると 煤けた小さい町の屋根が提灯のように 拡がって来る 赤い千光寺の塔が見える 山は爽やかな若葉だ 緑色の海向こうにドックの赤い船が 帆柱を空に突きさしている 私は涙があふれていた・・・・・。
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