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現在、 下関は昔のような商業捕鯨基地としての役割を終え、単なる鯨類捕獲調査事業帰港地になりました。 が、 引き続き、鯨類捕獲調査事業の目視採集船基地として、現在に至っていて、その出港入港の寄港地となっています。 =〜=〜=〜=〜=〜=〜=〜=〜= 手前がキャチャボート。「第二勇新丸」 奥が調査船団の母船「日新丸」。(8044トン、乗員138人) 母船の船尾の傾斜した所から、くじらを引き上げて行き、甲板上で解体し、船内で加工していきます。 (画はクリックで拡大・ルーペが+の時は、更にクリックで拡大) テントの近くで、昔懐かしい鯨汁が振舞われていました。 鯨は塩漬けで、南氷洋から帰り消費されていました。現在では冷凍技術が進んだので、昔のように鯨特有の臭味が無いそうです。 ************************************** 今は:クジラ:の事を鯨と書きますが、古くは勇魚と書き:イサナ:と言ったようです。当に勇ましい大魚と言ったイメージなのでしょう!よく分かります。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以下市ホームペジ参考・数種の資料を総合して、 下関市は江戸期より北前船の寄港地として発展し、西海捕鯨や長州捕鯨の中間地点に位置していた地理的特性から、鯨肉や鯨油・鯨骨などの流通基地としての役割を担っていました。その基地機能は、明治32年に日本で、初めてのノルウェー式捕鯨会社である日本遠洋漁業 株式会社の下関出張所の設置へとつながり、近代捕鯨発祥地の所以ともなっています。戦後は主に南氷洋捕鯨の捕鯨船基地。また鯨肉の流通・加工基地として、鯨は関連産業とともに水産都市・下関の発展に大きく貢献してきました。
古くは縄文時代から、 下関とクジラとのかかわりは古く、縄文時代後期の六連島遺跡。弥生時代前期の綾羅木郷遺跡。弥生時代中期の吉母浜遺跡などから鯨骨が出土しています。鯨骨の中には、ヘラ状をしており、アワビオコシ(アワビを岩から採取する時に使う道具)として使われていたのではないかと推測されている物もあります。当時は組織的に捕鯨を行っていたのではなく、座礁して打ち上げられたクジラや、漂流したクジラなどを捕獲していたようです。
捕鯨の奨励。 12世紀に入り、平家物語の中では、壇之浦の合戦にスナメリが登場します。中世の下関でもスナメリは見られたようです。 「スナメリ」は日本で、最大の生息海域である瀬戸内海に、2000年の調査で約7600頭が生息していると推計されました。 山口県では1570年ごろから、北浦を中心とした長州捕鯨が始まります。 下関では豊北町で古式捕鯨が行われた形跡がありますが、主には長州捕鯨による鯨肉・鯨油・鯨骨の流通・集散地となり、北前船を通じてこれらが各地に送られていました。 長州藩は、長州捕鯨を積極的に奨励し、鯨運上銀の取り立てによる藩財政の強化を図っていました。
近代捕鯨の始まり、 明治時代に、日本の捕鯨技術を飛躍的に発展させた功労者である山口県出身の岡十郎は、ノルウェーに渡って近代捕鯨を学びました。1899年(明治32年)山田桃作と共に長門市にノルウェー式捕鯨会社である日本遠洋漁業(後の日本水産)を設立し、出張所を下関市に設置しました。これが日本の近代捕鯨の幕開けとなりました。 当時西日本近海で捕れた鯨肉の多くが下関に集荷され、取り引きされていました。1934年(昭和9年)には、日本捕鯨を設立した国司浩助の提唱により、南氷洋捕鯨が始まります。 下関は捕鯨船の基地、 1922年(大正11年)下関に本拠地を置く林兼商店が捕鯨部を新設し、近海捕鯨に乗り出しました。その後1936年(昭和11年)林兼商店の中部幾次郎が大洋捕鯨を設立し、翌年から南氷洋捕鯨を開始します。1949年(昭和24年)まで下関には大洋漁業の本社が置かれ、下関の林兼造船により捕鯨船が建造されました。 戦前戦後を含めて下関は南氷洋捕鯨の冷凍鯨肉の水揚げ地。鯨肉加工品の生産拠点。捕鯨船の基地として栄え、鯨は関連産業と共に水産都市発展の一翼を担っていました。下関港への鯨肉水揚げ量は1958年(昭和33年)に年間1万トンを超え、昭和30年代後半から40年代にかけてピークの年間2万トンに達しています。これは現在の調査捕鯨で得られる量の10倍以上に当たり、当時のにぎわいぶりが想像できます。
長府外浦町の関見台公園の一角に、1958年(昭和33年)に大洋漁業が建設し、市に寄贈した「鯨館」があります。近代捕鯨の華やかな歴史の象徴として、市民に親しまれていました。現在は閉鎖されて中に入ることはできません。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜 商業捕鯨の一時停止、 IWC(国際捕鯨委員会)で1982年(昭和57年)に、商業捕鯨モラトリアム(一時停止)が採択され、1987年下関港に捕鯨船が帰港したのを最後に、下関は商業捕鯨基地としての役割を終えましたが、引き続き鯨類捕獲調査事業の目視採集船基地として現在に至っています。この間平成10年4月に調査母船「日新丸」の一般公開が行われ、同年11月には初めての南氷洋捕鯨調査船団の合同出港式も実現し、これまでに7度の出港式が開催されています。 南氷洋捕鯨は、ノルウェー式捕鯨とも呼ばれ、その昔捕鯨母船1隻、タンカー1〜2隻、冷凍冷蔵運搬船1〜2隻、キャッチャーボート10〜20隻、探鯨船(キャッチャーボート)1〜3隻を1つの船団として、日本から1〜3船団が活躍していた。 戦前にはこれらの船舶は、その特性により、補給艦や、駆潜艇 としての転用も念頭に置かれ、海軍に大切にされていた。 戦後は、厳しい食糧事情を補う為に、鯨は貴重な存在となっていた。 その後西欧諸国の偏見・エゴとも言える発想により、商業捕鯨が禁止となり、通称「調査捕鯨」として、細々と活動されている状況です。 調査捕鯨を実施するのは日本鯨類研究所(東京)です。 =余談= 大洋ホエールズの出発点が、下関であったことを知る人は今は少なくなりました。かって大洋漁業の本社があり、1950年プロ野球が2リーグ制になった時、大洋は下関を本拠地にしていました。 その後関西を経て遠く、川崎市へ移転。 横浜市に再移転し、横浜ベイスターズとなって、今下関ではソフトバンクフアンが多いいようです。
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「鯨捕り」金子みすずの詩
海の鳴る夜は 冬の夜は 栗を焼き焼き 聽(キ)きました むかし むかしの鯨捕り ここのこの海 志津が浦 海は荒海 時季(トキ)は冬 風に狂ふは雪の花 雪と飛び交ふ銛(モリ)の縄 岩も礫(コイシ)もむらさきの 常は水さへむらさきの 岸さへ朱(アケ)に染(ソ)むといふ 厚いどてらの重ね着で 舟の舳(ミヨシ)に見て立つて 鯨弱ればたちまちに ぱつと脱ぎすて素つ裸 さかまく波にをどり込む むかし むかしの漁夫たち― きいてる胸もをどります いまは鯨はもう寄らぬ 浦は貧乏(ビンボ)になりました 海は鳴ります 冬の夜を おはなしすむと 氣がつくと―
_・_・__・_・__・_・__・_・__・_・__・_・__・_・__・ 金子みすずは、 山口県長門市にて生まれ、女学校卒業後大正12年(1923年)下関西之端町商品館内の上山文英堂書店で働き始め、6月頃よりペンネーム「みすゞ」で童謡を書き投稿しながら、下関市で結婚生活をしていましたが、 薄命でした。
みすずの事。 (以下市HPページ・数種の資料・事典を総合して)
金子みすず(本名・テル)は明治36年(1903年)4月11日、山口県大津郡仙崎通村(現長門市)にて生まれた。女学校卒業後大正12年(1923年)下関西之端町商品館内の上山文英堂書店で働き始め、6月頃よりペンネーム「みすゞ」で童謡を書き投稿を始めた「童話」「婦人倶楽部」「婦人画報」「金の星」などの雑誌に童謡が掲載され、西条八十より「若き童謡詩人の中の巨星」とまで賞賛される。 大正15年(1926年)2月同書店の番頭・宮本啓喜と結婚。この年の「日本童謡集」に「お魚」と「大漁」の二編が掲載されるが、創作活動に反対する夫により活動を停止する1930(昭和5年2月に離婚、その後娘ふさえの養育権を、夫に奪われた事を苦に服毒自殺。享年26歳)
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