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■ 33)仙涯和尚の「一行書」軸2009.2.12

普段は境内外、 寺の外に保管していますが、 
ここにアップしました。

「古無 今無 刻木作圖 人倫之道」
(昔も、今も、木を刻み、圖を書くことは、人倫之道。)
「木を刻み作図するとは、(木を刻み仏を作り、仏画を作図することなのでしようか?)」その事が、人の道と言うのでしようか?

・・・只今書き込み中・・・
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(以下数種の資料・事典を総合して) 
仙豪`梵(せんがい ぎぼん)寛延3年(1750年)ー天保8年(1837年))は、江戸時代後期の博多の禅僧。
軽妙洒脱な人柄で、 広く博多の人々に慕われたようです。
その容姿は 、丈は矮小で、顔は猿、と自称したとも言われ、
禅の修行は月船和尚の下で修め、印可もそこで受け、その後、
聖福寺に住職として赴任してきた時(1788)には、小坊主どもに乞食坊主に間違えられた逸話が残っているそうです。
権力におもねることを、極端に嫌い、いろんな逸話を残しているようです。終生黒の麻の袈裟で過ごし、絹の紫衣などは本山妙心寺の命令でも無視しています。
全て型破りで、博多の庶民に愛された人物です。
美濃に生まれ、博多の聖福寺の住持を二十年務め、多くの洒脱・飄逸な絵画(禅画)を残しました。東京の出光美術館は仙高フ絵のコレクションで知られている。