大綱和尚寫。「和論語ノ内 元就公曰」と軸裏に題されています。
普段は境内外、寺の外に保管しています。
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大綱とは、 (以下数種の資料・事典を総合して) 大綱宗彦。(だいこう そうげん) 臨済宗の僧。大徳寺435世大徳寺塔頭黄梅院第14世住職。安永元年(1772)〜安政7年(1860)融谷宗通に師事 。華室昨夢と号し、 和歌 茶の湯を能くし、 書画に優れた。裏千家十一代玄々斎宗室・表千家十代吸江斎宗左・武者小路千家七代以心斎宗守・松村宗悦らと親しく、「大綱遺詠」がある。永楽保全の参禅の師としても知られている。 掲示板88)【大綱和尚墨跡と沢庵和尚乃賛。】『勝川春章筆?肉筆浮世絵』と、その賛[汝五尺の身体を売りて、一切衆生の煩悩を済度す。柳は緑、花は紅・・・。]に、沢庵和尚の賛として、 『仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売る。 汝五尺の身体を売りて、一切衆生の煩悩を済度す。柳は緑、 花は紅の色いろ香。池の面に月は夜な夜な通へども 水も 濁さず影も止めず』の墨蹟を残しています。
それで、大網と毛利家の関係は以下、 (茶道の本・事典・歴史本等を参考にすれば) 嘉永元年【1848】五月。有栖川宮家において催された茶会に、大綱は長州藩第十三代藩主毛利敬親【1819〜71】とともに招かれる。敬親は江戸麻布邸で生まれ、茶道を嗜み、和歌及び書画を能くし、自在庵と称した。 とありました。 と言う事は、 この時に、敬親(たかちか)から茶軸を所望されたのでしょうか? 所望の後に元就の教えを書いて 後日贈ったのでしょうか!? それよりも、初めて藩主に遇うというので、 大網自ら前以て、初代元就の教えを茶軸に謹書し、 長州藩十三代藩主。毛利敬親に遇う当日、手土産に贈ったと言う方が、成り行きだと思えますが!? いろいろその場面を考えさせられます。
以下読み、 元就公曰く國主多らん者乃政・・・只今書き込み中・・・ ・・・・・書き込みを暫く休憩・・・
毛利敬親のことは、 百科事典等によれば 以下です 家臣の意見に対して異議を唱えることが無かったため、「そうせい侯」(常に「うん、そうせい」と返答していたため)と呼ばれ、政治的には賢明な藩主ではなかったとの評価がある。幕末の動乱の中心を担った藩の藩主であるにもかかわらず、幕末の四賢侯にも数えられていない 。 しかし、ことに教育に熱心な藩主であり、彼の家柄や年齢にこだわらずに優秀な才能を信頼する性格が、幕末の世に多くの人材を輩出させている。特に11歳も年下の下級武士の息子である吉田松陰の才に惚れこみ、自ら山鹿流兵学の門下となったエピソードは、松陰の秀才ぶりと同時に敬親の人柄を示すものとしても語られることが多い。 敬親は有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで、窮乏していた長州藩を豊かにし、「倒幕」をも成し遂げさせた。当時としては奇異なタイプの藩主と言える。と、 また倒幕後、すぐ隠居した事が示すように、私欲や野心にも囚われる事もなかったとされることから、歴史ファンからの評価はおおむね好意的である。長州志士からの人望も厚く彼らが維新後に敬親を顕彰して建てた石碑などが 旧長州藩内に多く現存する 司馬遼太郎は『世に棲む日々』の中で「敬親に世界観がなかったといえばかれに酷だろうかれはかれ自身独創力というものはもたなかったが、人物眼もあり物事の理解力にも富んだ男で、それにうまれつきおそろしく寛大であった・・・。ある意味ではかれほど賢候であった人物はいないかもしれない。かれは愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけた」と、 ※参考;大綱と敬親が会ったとされる 有栖川家の事と麻布※ 昔、有栖川家は東京南麻布にあり、現在は有栖川宮記念公園となっている所です。近くに今は別の宗派(皇室から降下された歴史のある寺)ですが、古くは東の高野山と云われた真言宗の大寺が在った処。初代アメリカ公使タウンゼント・ハリスの領事館に使用されていた寺でもあり、歴史的に有名な処です。と言う事は、このあたり幕末の頃は海が近かったのでは? 韓国・フランス大使館等があるところでも知られていて、今は都心でも高級地街とされています。この麻布の江戸毛利藩邸で、乃木希典が生まれますが、少年時代は長府毛利藩で過ごしました。 檀家さんの葬式や法事で4.5度行った事がありますが、治外法権の紫ナンバーの車によく出会い、田舎もんの私には、忘れられない印象に残る所でした。 有栖川威仁親王の没後。二十年目に公園地として賜与され、区立公園として開放されることになっています。
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