小幅画です。 この画は寺宝の所に紹介していますが、 拡大の画が小さいので、 ここに入れて更に拡大して見れるようにしました。 クリックして見て下さい。
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『朝顔と石竹』と箱書きにあります。
「石竹」≒「撫子(ナデシコ)」です。 石竹は平安時代、中国から漢字の「石竹」とともに伝わり、日本でも「石竹」と言われていたが、その後「撫でし子」という和名を持つようになり、秋の七草のひとつとされます。 その後、「石竹」は日本の名を持つようになり、「撫し子」といいう和名を持つようになります。 名前の由来は、 花が小さく色も愛らしいことから、愛児に模して、愛児をなでる「撫でし子」が定説となっています。
万 葉 集 大伴家持 三巻四〇八 【石竹のその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ】 (あなたが撫子の花だったらよいのに。そうしたら毎朝、手に取って愛でるのに!) 「ヤマトナデシコ」は、夏から秋にかけて咲くから、別名を「常夏(とこなつ)」ともいいます。 源氏物語の八巻の「常夏」は、この「なでしこ」の別名からきているそうです。 その「常夏」では、色とりどりの「撫し子」が咲き乱れる様子が、描写されているんだそうです。
大和撫子(ヤマトナデシコ)の花言葉は、可憐、貞節です。 同時に撫し子には、才能、大胆、快活といった意味もあるようですよ!
最近の「なでしこジャパン」の活躍を見ていると、当にその花のように、努力・才能と、大胆なゲーム、朗らかさ、可憐さ、、すばらしい命名だと思います。
ナデシコ. 大和撫子による癒し。 愛撫する子。和歌などで、多く植物のナデシコにかけて用いる歌が残っています。
<我が宿に蒔しなでしこいつしかも花に咲きなむなそへつつ見む> :大友家持: わが家の庭に蒔いたなでしこは、いつになったら咲くのだろう、その花をあなたと思って眺めよう。 山上憶良は、仏教の「七宝」の一つに匹敵するとして、七種の秋の野の花の一つとし、ナデシコの花を挙げたといいます。それ以後好んで歌に詠んで行ったようです。 ナデシコは淡紅色で、縁が細かく切れ込んだ五弁の小花が、若い女性の照り映えるような笑顔を、想起させることや、「撫でし子」という優しい名を持つことに加え、種子で繁殖させやすく、夏の乾燥に強い生命力を持つことから、庭の花として愛好されたようです。
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朝顔は、 中国から伝来し、漢名の牽牛(けんご)がこれにあたるようです。(アサガオとウシが取引されたという故事に由来するとある。)その種子「牽牛子(けんごし)」は古くから薬用とされ、日本への伝来も薬用からです。 早朝に咲くから和名「朝顔」という意味ではなく、早朝に開花し、昼には萎んでしまう特徴を朝の美人の顔に喩えた「朝の(花容:かおばな)」の意味とされます。 花容とは美しい花という意味。 アサガオの花は『万葉集』に5首詠まれているそうです、 そのあさがおは、キキョウとする説が有力のようです。 山上憶良(やまのうえのおくら)は「秋の野に咲きたる花を指(および)折り かき数(かぞ)ふれば七種(ななくさ)の花」と詠み、その後に「萩(はぎ)の花尾花葛花(をばなくずばな)なでしこが 花をみなへしまた藤袴朝顔(ふぢはかまあさがほ)が花」と詠んでいます。それなら現在のような朝顔は、平安初期頃からとなるのでしようか?。
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*1.抱一について、 (以下数種の資料・事典を総合して) 画業は初め狩野高信(かのうたかのぶ)から狩野風を学び、また宋紫石(そうしせき)について沈南蘋(しんなんぴん)の写生画風・歌川豊春(とよはる)から浮世絵。さらに土佐派円山派などの技法を習得。親交あった谷文晁(ぶんちょう)からも影響を受けるなど、 諸派の画風を次々と学んだ。 のち尾形光琳(こうりん)の作品に接して深く傾倒し、独自の立場でその作風を試み、江戸時代の装飾芸術の流派「琳派(りんぱ)」の最後を飾った。 1815年(文化12)には光琳百年忌を催し、『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行し、また23年(文政6)にも『乾山(けんざん)遺墨』を編するなど、光琳あるいは乾山に対する私淑ぶりがうかがえる。 また光琳筆の『風神雷神図屏風(びょうぶ)』の裏面に自らの最高傑作『夏秋草図』(重要文化財東京国立博物館)を描き付ける。 色彩豊かな光琳画の装飾性に倣いながらも、繊細優美な画風をもって豊かな叙情性を追究している 。 ほかに『葛秋草(くずあきくさ)図屏風』(重要文化財)。『十二ヶ月草花図』(御物)『秋草鶉(あきくさうずら)図屏風』など、とくに草花図の優品が多い。
*1.姫路城主・酒井忠以の弟に当たり、江戸酒井家別邸に生まれ。京の町衆の宗達、同じく京の豪商の放蕩息子だった光琳等とは違い、抱一は名門大名の出身。
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この画は数年前の当山の寺宝展に、初めて世に出した物です。だから真贋の程は分かりません。その事を申し添えておきます。
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