この欄の項目(bP5)にある「一休と地獄太夫」と違って、 地獄太夫独り立ちで画かれたものです。作者は不詳。(落款は在りません) 双方を比較してみて下さい。
(画はクリックで拡大)の時更にクリックで拡大。
この欄の項目(ナンバー15)の方には、一球禅師と地獄太夫の物語が有ります。
やはり昔、町内の遊郭が盛んな頃の遊郭楼の旦那から、寄進されたものと思われます。
打掛には、定番の閻魔さんが画かれた地獄図の画。 同じように人間が陥る、地獄が画かれた打ち掛けをかけております。
地獄太夫の事を調べました。 (以下数種の資料・事典を総合して) 地獄太夫は室町時代に泉州堺の遊郭に実際にいた遊女です。山賊にかどわかされて苦界に身を沈めたのですが、これも前世の不信心ゆえであると・懺悔の心を込めて自らを「地獄」と名乗り、地獄模様の着物を羽織って仏の御名を唱えながら客を送り迎えしたそうです。 一休禅師はその評判を聞いて地獄太夫のもとを訪ねました。 「聞きしよりみてうつくしき地獄かな」と詠むと、 地獄太夫は、「生きくる人の落ちざらめやも」と返したと言います。
こうして、一休禅師と地獄太夫はうちとけて語り合いました。 地獄太夫が、「出家して仏に仕えることができれば救いもあるものを」と嘆くと、 一休は、「五尺の身体を売って衆生の煩悩を安んじる汝は邪禅賊僧にまさる」と言って慰めた、そうです。また有名な「門松は冥途の旅の一里塚 目出たくもあり目出たくもなし」という歌は、一休が地獄太夫に贈ったものだとの伝もあるそうです。
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