本玄関にあるこの画は、明治38年の丸山応挙の写しと云われるもの。 実際に、応挙の元になる画があるかどうかは、私には分かりません。
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屏風の裏は琳派系の画の写し、(燻し銀泥地に少し金泥が交じるモノトーンに近い黒松三本)
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=−=−=−=−=−=−=−=−=−=−=−=−=−= お馴染みの、『一休禅師と地獄太夫』 写しは作者不詳。 (画の上をクリックすれば拡大します)
画の賛は曾呂利新左衛門。(秀吉時代の人)
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地獄太夫は、室町時代泉州堺の遊郭に実際いたといわれる遊女。また、曾呂利新左衛門も実在したと言われ、本職は鞘師で、彼が作った鞘に刀を入れると、そろりと良く入ったところからの異名。頓知を以って知られ又、和歌・茶事・にも通じていたと言われる。秀吉にも仕え民衆にも親しまれた。謎の多い人物と云う事です。
画の賛に、 ◎ 花盛り ああ花盛り 五十年 ◎ 野ざらしや 皆うたかたの 夢の跡 明治参拾四年 巳の春 曾呂利新左衛門 □印 画賛 と言うこの世の無常を詠った二句。
此の『一休禅師と地獄太夫』の画は、 一休さんが、七人の骸骨の真ん中で扇子を掲げて踊り、骸骨の三味線・太鼓・手拍子で、閻魔様が描かれた太夫の打掛を、衣桁に架けた地獄太夫と興じ呆けている。 苦界に沈めた地獄太夫が、そんな一休にすがる様な目で、見上げているように見えるのが印象的です。
他に地獄太夫の画(肉筆浮世絵)は、閻魔を描いた打掛を着た肉筆の浮世絵が当山に残されています。それは立身で軸になっていて地獄大夫を単独で描いています。落款はありません。
一休と骸骨のことはよく知られています。 一休は「狂雲集」で、 『門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくも無し』と詠み、正月にドクロを杖の頭につけ、『ご用心 ご用心』と、叫びながら練り歩いたと云われます。 正月ごとに誰もが、あの世に向かって近づいていると強調したかったのでしょう。 「シャレコウベほど目出度いものはない」と言って次の歌を詠みました。
<にくげなきこのシャレコウベあなかしこ 目出度くかしくこれよりなし>
「にくげなき」とは、シャレコウベに肉がないことと、憎らしく思うことを掛けています。 生きているうちは、どうしても欲というものがなくならないものですが、死んで骸骨になればもはや欲もなく、誰に憎まれることもなくなります。そのような煩悩などきれいさっぱり抜け落ちた姿、目がくぼんで目の穴が出た様子を「お目出度い」と掛けて、それこそが一番尊いのだと、一休さんは頓智を効かせて伝えているのでしよう…か?
生に限りあることを忘れて、ただ快楽だけを追い求めていては、本当に大切なものを見失ってしまうかもしれません。 何時か訪れる死を肝に命ずることで、その生をより輝かせることができるのではと思います。
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「酒に狂うのも骸骨・遊興に狂うのも・踊り呆けるのも骸骨・美人も骸骨・・・!」 奇行を以って知られる一休は、骨こそ人間の原点としたと云われています。
=『狂雲集』(きょううんしゅう)とは、一休宗純による風狂破格の世界を呈する漢詩集、ほとんどが七言絶句。狂雲とは一休の号。=
『一休骸骨』は図解で世間に広く流布しており、その究極の図柄がこれらの『一休禅師と地獄太夫』。
絵師によって絵柄・画の表現が違い、地獄太夫の画は沢山有るようです。
<死にはせぬ 何処へも行かぬ ここに居る たづねはするな ものは云はねど> (何処にも行かない ここにいる お前のそばにいる 何も語りかけないけれど・・・。)一休道歌より
豊前田町の遊郭が盛んな頃、遊郭の玄関にあったもの(一間四方の大きさ) 元遊郭楼の旦那、故今井唯一氏から寄進されたものです。
この今井氏からは、護摩堂を一建立・境内の大灯篭一対も寄進を受けております。
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