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■ 85)当山本玄関にあるこの画は、明治38年の丸山応挙の写しと云われるもの。 実際に、応挙の元になる画があるかどうかは、私には分かりません。 画は【 click!】で拡大表示。(+)の時更にクリックで拡大。 屏風の裏は琳派系の画の写し、(燻し銀泥地に少し金泥が交じるモノトーンに近い黒松三本)2008.4.17

本玄関にあるこの画は、明治38年の丸山応挙の写しと云われるもの。
実際に、応挙の元になる画があるかどうかは、私には分かりません。

画は【 click!】で拡大表示。(+)の時更にクリックで拡大。


屏風の裏は琳派系の画の写し、(燻し銀泥地に少し金泥が交じるモノトーンに近い黒松三本)

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  お馴染みの、『一休禅師と地獄太夫』 
 
写しは作者不詳。 (画の上をクリックすれば拡大します)

画の賛は曾呂利新左衛門。(秀吉時代の人)

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地獄太夫は、室町時代泉州堺の遊郭に実際いたといわれる遊女。また、曾呂利新左衛門も実在したと言われ、本職は鞘師で、彼が作った鞘に刀を入れると、そろりと良く入ったところからの異名。頓知を以って知られ又、和歌・茶事・にも通じていたと言われる。秀吉にも仕え民衆にも親しまれた。謎の多い人物と云う事です。
 

画の賛に、 ◎ 花盛り ああ花盛り 五十年
     ◎ 野ざらしや 皆うたかたの 夢の跡
                明治参拾四年 巳の春
                 曾呂利新左衛門 □印 画賛
と言うこの世の無常を詠った二句。 

此の『一休禅師と地獄太夫』の画は、
一休さんが、七人の骸骨の真ん中で扇子を掲げて踊り、骸骨の三味線・太鼓・手拍子で、閻魔様が描かれた太夫の打掛を、衣桁に架けた地獄太夫と興じ呆けている。
苦界に沈めた地獄太夫が、そんな一休にすがる様な目で、見上げているように見えるのが印象的です。

他に地獄太夫の画(肉筆浮世絵)は、閻魔を描いた打掛を着た肉筆の軸になった浮世絵が当山に残されています。それは立身で軸になっていて地獄大夫を単独で描いています。落款はありません。


一休と骸骨のことはよく知られています。
一休は「狂雲集」で、
『門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくも無し』と詠み、正月にドクロを杖の頭につけ、『ご用心 ご用心』と、叫びながら練り歩いたと云われます。 
正月ごとに誰もが、あの世に向かって近づいていると強調したかったのでしょう。
「シャレコウベほど目出度いものはない」と言って次の歌を詠みました。

<にくげなきこのシャレコウベあなかしこ 目出度くかしくこれよりなし>
「あなかしこ」って、なんだか雅な響きがあるよね 🌸

「あなかしこ」,
この言葉は、もともと古典文学や仏教の文書などで使われていた表現で、意味は主に以下のようなもの:
「ああ、恐れ多い」「もったいない」という感嘆の気持ちを表す言葉。

手紙の最後に添える挨拶として使われることが多く、特に女性が使うことが多いい…
仏教の教えを伝える文書(御文章)の締めくくりにもよく登場する。
ちなみに、漢字では「穴賢」とも書くことがあるよ。
こういう古語って、今の言葉では表しきれないニュアンスがあって面白い。

「にくげなき」とは、シャレコウベに肉がないことと、憎らしく思うことを掛けています。
生きているうちは、どうしても欲というものがなくならないものですが、死んで骸骨になればもはや欲もなく、誰に憎まれることもなくなります。そのような煩悩などきれいさっぱり抜け落ちた姿、目がくぼんで目の穴が出た様子を「お目出度い」と掛けて、それこそが一番尊いのだと、一休さんは頓智を効かせて伝えているのでしよう…か?

生に限りあることを忘れて、ただ快楽だけを追い求めていては、本当に大切なものを見失ってしまうかもしれません。
何時か訪れる死を肝に命ずることで、その生をより輝かせることができるのではと思います。

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「酒に狂うのも骸骨・遊興に狂うのも・踊り呆けるのも骸骨・美人も骸骨・・・!」
奇行を以って知られる一休は、骨こそ人間の原点としたと云われています。

=『狂雲集』(きょううんしゅう)とは、一休宗純による風狂破格の世界を呈する漢詩集、ほとんどが七言絶句。狂雲とは一休の号。=

『一休骸骨』は図解で世間に広く流布しており、その究極の図柄がこれらの『一休禅師と地獄太夫』。

絵師によって絵柄・画の表現が違い、地獄太夫の画は沢山有るようです。

<死にはせぬ 何処へも行かぬ ここに居る
 たづねはするな ものは云はねど>
(何処にも行かない ここにいる お前のそばにいる 何も語りかけないけれど・・・。)一休道歌より

豊前田町の遊郭が盛んな頃、遊郭の玄関にあったもの(一間四方の大きさ) 
元遊郭楼の旦那、故今井唯一氏から寄進されたものです。

この今井氏からは、護摩堂を一建立・境内の大灯篭一対も寄進を受けております。

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以下webより、
室町時代、地獄太夫(じごくたゆう)という伝説の遊女がいました。地獄変相を描いた打ち掛けを羽織り、念仏を唱えながら客を迎えていたとか。何とも奇っ怪でミステリアスで気になります。絶世の美女だったという地獄太夫は、意外な人物と師弟関係を結んでいました。寝苦しい夜に最適な、不可思議な美女のお話をお届けします。
自ら地獄太夫と名乗る!
地獄太夫は元々は武家の娘で、幼名を乙星(おとぼし)と言いました。ある時山中で賊に襲われ、そのあまりの美しさゆえに、泉州堺(大阪府堺市)の遊里に売られてしまいます。
乙星はこのような辛い目にあうのは、前世で修行を怠った為だと考えて、自ら「地獄太夫」と名乗ります。そして美貌と風変わりな出で立ちから、人々の注目を集めるようになっていきました。

『新形三十六怪撰 地獄太夫悟道の図』より国立国会図書館デジタルコレクション
師匠は、一休禅師だった!
アニメ『一休さん』で馴染み深い一休禅師は、地獄太夫と出会っていたという話が、『一休関東咄』に記されています。
一休禅師が堺を訪れた時に、地獄太夫はその姿を見かけて歌を送ります。「山居せば深山の奥に住めよかしここは浮世のさかい近きに」(出家して俗世とは無縁のはずのあなたが、山の寺ではなく、こんな俗世極まる所で何をしているんですか)
すると一休禅師は、「一休が身をば身ほどに思わねば市も山家も同じ住処よ」(自分はこの身を何とも思わない。どこにいようと同じ事)と返します。
一休禅師はアニメのキャラクターのイメージが強いですが、実像は反骨心を持った孤高の僧だったようです。権威を拒否して、民衆の生活に入り込んで独自の布教活動をしました。女性と付き合い、肉も平気で食べるといった型破りの行動から奇人扱いされましたが、信者も数多く存在しました。
一休禅師は、どんな遊女だろうと興味を持って会いに出かけます。すると、その遊女が名高い地獄太夫だと知るのです。「聞きしより見て恐ろしき地獄かな」(実際に見ると、聞いていたよりもはるかに美しいし、大した女だ)と一休禅師が歌を送ると、「しにくるひとのおちざるはなし」と地獄太夫は返します。死んで来た人は皆地獄に落ちるという意味合いから、自分の所に来る人は皆が夢中になる。気をつけなさいよと牽制しているのです。地獄太夫が肝の据わった女性だというのが伝わる逸話です。この出会いがきっかけとなって、打ち解けた2人は師弟関係を結びます。

『栗原信充/画 肖像集一休宗純』より国立国会図書館デジタルコレクション
ある時には、地獄太夫が「出家して仏に仕えることができれば救いもあるものを」と嘆くと、一休禅師は「五尺の身体を売って衆生(しゅじょう)※の煩悩を安んじる汝は邪禅賊僧にまさる」と言って慰めました。有名な狂歌「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」(正月の門松は、死へ向かう途中の目印のようなもの。おめでたいけれど、不吉なものでもある)は、一休禅師が地獄太夫に向けた歌だという説もあります。
地獄太夫が亡くなった時には、一休禅師が手厚く葬ったとも伝えられています。一休禅師は地獄太夫にとって人生の師でありました。
※衆生:人間をはじめ全ての生き物
江戸時代から現代まで絵画や漫画の題材に
地獄太夫と一休禅師のエピソードは、江戸時代の町人の間で人気を博します。多くの読本や歌舞伎で取り上げられ、絵画にも描かれました。現代でも漫画『鬼灯の冷徹』のストーリーの中に登場したり、若者ファッションのデザインに取り入れられたりしています。苦界に落ちながらも、凜とした佇まいで生き抜いた地獄太夫は、ダークヒロインとしてこれからも人々を魅了し続けるのでしょう…ね!

一休の晩年は、森女(しんじょ)という盲目の女性と同棲しました。
一休は後小松天皇のご落胤と云われています。今でも墓は、宮内庁の管理となっています。

一休の名前の由来は、
出家して若いころ、『有漏路(うろじ=この世の迷いの世界)より、無漏路(むろじ=悟り.仏の世界)へ帰る、一休み… 雨降れば降れ、風吹けば吹け』と詠みました。この歌にある一休(ひと休み)から、師匠から【一休(ひとやすみ)=いっきゅう】という道号を授かりました。
『有漏路(うろじ=この世の迷いの世界)より、無漏路(むろじ=悟り・仏の世界)へ帰る』
『有漏路=(生まれて)から、無漏路=(死ぬ)まで


室町時代の禅僧、一休禅師。名は宗純、幼名は千菊丸(せんぎくまる)。この幼名からして両親は高貴な人物であることがわかりますが、父親は南北朝統一の象徴となった北朝の後小松天皇。母親は藤原一族の日野中納言の娘、伊予の局(いよのつぼね)。つまり、一休禅師は後小松天皇のご落胤で、天皇の血筋を受け継いでいることから、お墓も宮内庁が管理しているというわけです。
 後小松天皇の寵愛を受けた伊予の局は千菊丸を身籠もると、皇位の継承を妬んだ人たちによって宮廷を追われ、南北統一から2年経った1394(応永1)年1月1日に、嵯峨の民家で人知れず千菊丸を産みました。その後、千菊丸が政争に巻き込まれることを恐れた伊予の局は、1399(応永6)年に5歳になった千菊丸を臨済宗の安国寺に入れ、出家させたのです。
「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」(人生は煩悩溢れるこの世から、来世までのごくわずかの一休みの出来事。雨が降ろうが風が吹こうが大したことではない)
この歌を聞いた華叟禅師は、歌の中にある“一休み”という言葉を宗純に授け、「一休」が宗純の号となったのです。「一休」と聞くと、漫画やアニメの影響からか小坊主姿の「一休さん」を思い浮かべてしまいますが、「一休」という呼び名が付けられたのは、宗純が立派な大人になってからのことだったのです
一休が愛した女性
1467(応仁1)年、京都の町を焼き尽くした「応仁の乱」が起こりました。一休は戦火から逃れ、大坂(現・大阪)に避難していましたが、その大坂で一休は、ひとりの女性に出会います。その女性とは、鼓を打つ盲目の美しい旅芸人・森侍者(しんじしゃ)。この時、一休は76歳で、森侍者の年の頃は20代後半。年齢に50歳ほどの開きがありましたが、一休は彼女に惚れ込んでしまいました。その時の気持ちを詩集『狂雲集』に残しています。
「その美しいえくぼの寝顔を見ると、腸(はらわた)もはちきれんばかり…、楊貴妃かくあらん」
一休の気持ちは彼女に伝わり、2人はまだ戦火が収まらない京都に戻り、一休がこの世を去るまでの間、酬恩庵で同棲生活を送ったのです。
1481(文明13)年の大燈国師の命日に、マラリアに罹った一休はこの世を去りますが、その時「一休の禅は、一休にしか分からない。朦々淡々(もうもうたんたん)として60年、末期の糞を晒して梵天に捧ぐ」という辞世の句を残しました。何とも強烈な辞世の句です。
そして、臨終の言葉は「死にとうない」だったとか…。禅の道を極め、悟りを得た高僧には相応しくない言葉ですが、一休の88年間の波乱に満ちた人生を思えば、一休らしい最期の言葉だったと言えるのではないでしょうか…。
生涯を通じて鋭く社会を批判し、名声利欲にとらわれず、庶民の中に分け入り、禅の民衆教化に尽くした一休。禅僧でありながら、女性を愛し、肉を喰らい、酒を呑み、頭も剃らず、権威に反発し、弱者に寄り添い、民衆とともに、笑い、泣き、生きた一休は、なんとも人間味溢れる男だったのです。
「有漏地(うろじ)」とは、煩悩に汚れた世界としてのこの世のことで、「無漏地(むろじ)」とは、穢れや煩悩がない境地のことです。宗純は、人生は無漏地へ向かうまでの一休みのところにいるだけのこと、雨が降ろうが風が吹こうが、短い一生なのだから気にすることはない、と言ったのです。師は悟りの境地を見出したと宗純を称え、「一休」の名を与えました。
晩年、京田辺に酬恩庵を結ぶ。そこに盲目の森女(しんじょ)という女性と同棲しました。
そこに宮内庁管轄のお墓があります。菊の紋をあしらった門があり、一見して宮内庁管理ということが分かります。宮内庁説明の札が建っています。

=余話=一休
頓智の効く一休さんの話から、クイズの日は[一休]いっきゅう[19]の語呂合わせで、1月9日なのだそうです…よ‼