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■ 9)この衝立の画は 丸山応挙の写し 『一休禅師と地獄太夫』2008.4.17

本玄関にあるこの画は、明治38年の丸山応挙の写しと云われるもの。
実際に、応挙の元になる画があるかどうかは、私には分かりません。

画は【 click!】で拡大表示。(+)の時更にクリックで拡大。


屏風の裏は琳派系の画の写し、(燻し銀泥地に少し金泥が交じるモノトーンに近い黒松三本)

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  お馴染みの、『一休禅師と地獄太夫』 
 
写しは作者不詳。 (画の上をクリックすれば拡大します)

画の賛は曾呂利新左衛門。(秀吉時代の人)

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地獄太夫は、室町時代泉州堺の遊郭に実際いたといわれる遊女。また、曾呂利新左衛門も実在したと言われ、本職は鞘師で、彼が作った鞘に刀を入れると、そろりと良く入ったところからの異名。頓知を以って知られ又、和歌・茶事・にも通じていたと言われる。秀吉にも仕え民衆にも親しまれた。謎の多い人物と云う事です。
 

画の賛に、 ◎ 花盛り ああ花盛り 五十年
     ◎ 野ざらしや 皆うたかたの 夢の跡
                明治参拾四年 巳の春
                 曾呂利新左衛門 □印 画賛
と言うこの世の無常を詠った二句。 

此の『一休禅師と地獄太夫』の画は、
一休さんが、七人の骸骨の真ん中で扇子を掲げて踊り、骸骨の三味線・太鼓・手拍子で、閻魔様が描かれた太夫の打掛を、衣桁に架けた地獄太夫と興じ呆けている。
苦界に沈めた地獄太夫が、そんな一休にすがる様な目で、見上げているように見えるのが印象的です。

他に地獄太夫の画(肉筆浮世絵)は、閻魔を描いた打掛を着た肉筆の浮世絵が当山に残されています。それは立身で軸になっていて地獄大夫を単独で描いています。落款はありません。


一休と骸骨のことはよく知られています。
一休は「狂雲集」で、
『門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくも無し』と詠み、正月にドクロを杖の頭につけ、『ご用心 ご用心』と、叫びながら練り歩いたと云われます。 
正月ごとに誰もが、あの世に向かって近づいていると強調したかったのでしょう。
「シャレコウベほど目出度いものはない」と言って次の歌を詠みました。

<にくげなきこのシャレコウベあなかしこ 目出度くかしくこれよりなし>

「にくげなき」とは、シャレコウベに肉がないことと、憎らしく思うことを掛けています。
生きているうちは、どうしても欲というものがなくならないものですが、死んで骸骨になればもはや欲もなく、誰に憎まれることもなくなります。そのような煩悩などきれいさっぱり抜け落ちた姿、目がくぼんで目の穴が出た様子を「お目出度い」と掛けて、それこそが一番尊いのだと、一休さんは頓智を効かせて伝えているのでしよう…か?

生に限りあることを忘れて、ただ快楽だけを追い求めていては、本当に大切なものを見失ってしまうかもしれません。
何時か訪れる死を肝に命ずることで、その生をより輝かせることができるのではと思います。

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「酒に狂うのも骸骨・遊興に狂うのも・踊り呆けるのも骸骨・美人も骸骨・・・!」
奇行を以って知られる一休は、骨こそ人間の原点としたと云われています。

=『狂雲集』(きょううんしゅう)とは、一休宗純による風狂破格の世界を呈する漢詩集、ほとんどが七言絶句。狂雲とは一休の号。=

『一休骸骨』は図解で世間に広く流布しており、その究極の図柄がこれらの『一休禅師と地獄太夫』。

絵師によって絵柄・画の表現が違い、地獄太夫の画は沢山有るようです。

<死にはせぬ 何処へも行かぬ ここに居る
 たづねはするな ものは云はねど>
(何処にも行かない ここにいる お前のそばにいる 何も語りかけないけれど・・・。)一休道歌より

豊前田町の遊郭が盛んな頃、遊郭の玄関にあったもの(一間四方の大きさ) 
元遊郭楼の旦那、故今井唯一氏から寄進されたものです。

この今井氏からは、護摩堂を一建立・境内の大灯篭一対も寄進を受けております。

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以下webより、
室町時代、地獄太夫(じごくたゆう)という伝説の遊女がいました。地獄変相を描いた打ち掛けを羽織り、念仏を唱えながら客を迎えていたとか。何とも奇っ怪でミステリアスで気になります。絶世の美女だったという地獄太夫は、意外な人物と師弟関係を結んでいました。寝苦しい夜に最適な、不可思議な美女のお話をお届けします。
自ら地獄太夫と名乗る!
地獄太夫は元々は武家の娘で、幼名を乙星(おとぼし)と言いました。ある時山中で賊に襲われ、そのあまりの美しさゆえに、泉州堺(大阪府堺市)の遊里に売られてしまいます。
乙星はこのような辛い目にあうのは、前世で修行を怠った為だと考えて、自ら「地獄太夫」と名乗ります。そして美貌と風変わりな出で立ちから、人々の注目を集めるようになっていきました。

『新形三十六怪撰 地獄太夫悟道の図』より国立国会図書館デジタルコレクション
師匠は、一休禅師だった!
アニメ『一休さん』で馴染み深い一休禅師は、地獄太夫と出会っていたという話が、『一休関東咄』に記されています。
一休禅師が堺を訪れた時に、地獄太夫はその姿を見かけて歌を送ります。「山居せば深山の奥に住めよかしここは浮世のさかい近きに」(出家して俗世とは無縁のはずのあなたが、山の寺ではなく、こんな俗世極まる所で何をしているんですか)
すると一休禅師は、「一休が身をば身ほどに思わねば市も山家も同じ住処よ」(自分はこの身を何とも思わない。どこにいようと同じ事)と返します。
一休禅師はアニメのキャラクターのイメージが強いですが、実像は反骨心を持った孤高の僧だったようです。権威を拒否して、民衆の生活に入り込んで独自の布教活動をしました。女性と付き合い、肉も平気で食べるといった型破りの行動から奇人扱いされましたが、信者も数多く存在しました。
一休禅師は、どんな遊女だろうと興味を持って会いに出かけます。すると、その遊女が名高い地獄太夫だと知るのです。「聞きしより見て恐ろしき地獄かな」(実際に見ると、聞いていたよりもはるかに美しいし、大した女だ)と一休禅師が歌を送ると、「しにくるひとのおちざるはなし」と地獄太夫は返します。死んで来た人は皆地獄に落ちるという意味合いから、自分の所に来る人は皆が夢中になる。気をつけなさいよと牽制しているのです。地獄太夫が肝の据わった女性だというのが伝わる逸話です。この出会いがきっかけとなって、打ち解けた2人は師弟関係を結びます。

『栗原信充/画 肖像集一休宗純』より国立国会図書館デジタルコレクション
ある時には、地獄太夫が「出家して仏に仕えることができれば救いもあるものを」と嘆くと、一休禅師は「五尺の身体を売って衆生(しゅじょう)※の煩悩を安んじる汝は邪禅賊僧にまさる」と言って慰めました。有名な狂歌「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」(正月の門松は、死へ向かう途中の目印のようなもの。おめでたいけれど、不吉なものでもある)は、一休禅師が地獄太夫に向けた歌だという説もあります。
地獄太夫が亡くなった時には、一休禅師が手厚く葬ったとも伝えられています。一休禅師は地獄太夫にとって人生の師でありました。
※衆生:人間をはじめ全ての生き物
江戸時代から現代まで絵画や漫画の題材に
地獄太夫と一休禅師のエピソードは、江戸時代の町人の間で人気を博します。多くの読本や歌舞伎で取り上げられ、絵画にも描かれました。現代でも漫画『鬼灯の冷徹』のストーリーの中に登場したり、若者ファッションのデザインに取り入れられたりしています。苦界に落ちながらも、凜とした佇まいで生き抜いた地獄太夫は、ダークヒロインとしてこれからも人々を魅了し続けるのでしょう。