=絹本= 軸の当て紙の部分には、高田(地名?)・見波観山堂製(軸を作製時の店名?)と言う朱印があります。当時何処かに、見波観山堂という【軸装】専門の店があったのでしよう…か?。落款が読めず絵師が判りません。どなたか教えてください。目元の描き方をみると浮世絵初期の描き方と少し違うように想えます。時代が下がって幕末の頃の絵師が描いたのかも? 掛軸・・・縦180cm 横41.5cm 画・・・縦96cm 横32.5cm 絹本肉筆の小副画。肉筆浮世絵としては小振りだと想います。極小品と言えるかも?。 (画は【 click! 】で拡大表示)
・・‥‥…━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━…‥‥・・ 【 当山の〓仏画・小仏像・絵画・什物等〓は、全て境内外(寺外)に保管、保存しております。】 ・・‥‥…━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━…‥‥・・
ーーーーー・・・−−−−−−−−・・・−−−− 振袖新造=遊女のお披露目時の娘。クールビュテー。 ーーーーー・・・−−−−−−−−・・・−−−− ________________________________________ 肉筆浮世絵画に書き込んだ大綱宗彦(だいこう そうけん)の墨跡。大綱が書き込んだ沢庵和尚乃讃。 それは、 『仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売る。 汝五尺の身体を売りて、一切衆生の煩悩を済度す。色即是空空即是色、柳は緑、 花は紅の色いろ香。池の面に月は夜な夜な通へども 水も濁さず影も止めず』 この賛は一般には多く一休禅師と云われてもいますが、大綱が自ら書き込んで沢庵の寫しとしているので、間違いなく沢庵和尚乃讃です。賛を書き込むために最初から大きく余白を開けたように思われます。だから大綱宗彦自身がこの絵を自ら絵師に依頼して描かせたのかもしれません? 以下、サーチ【search】 【賛(讃)】は仏教で、法会や日常の勤行に詠唱された歌。讃文ともいう。敦煌から出た唐代写本の例はみな七言句で長短不定。一韻で通すものと換韻するものとの二種がある。梵語の経典に用いられた偈(げ)から発展したもので、宗旨を述べたり仏の徳をたたえたりしたものが多い。〈涅槃(ねはん)讃〉〈浄土讃〉〈念仏讃〉〈出家讃〉など。〈悉達太子讃〉(全60句)は《悉達太子修道因縁》という長編の変文の冒頭に枕として用いられてもいる。賛とは〈画賛〉とも言い、像画や水墨画の余白に見られるもの。 ―・−・―・−・ 一休宗純(いっきゅう・そうじゅん)・大綱宗彦のこと、以下サーチ【search】しながら、 一休禅師として名で親しまれている室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧、後小松天皇(南北朝時代の北朝最後の天皇)のご落胤。今でも一休の墓は宮内庁管轄。漢詩人。6歳で京都安国寺の老師像外集鑑に入門。若干13歳のころから漢詩の才能を開花させた。その後、何人かの師のもとで修業し、寺を出て詩作と書画中心の生活に入る。 応仁の乱後、後土御門天皇より大徳寺第47代住持に任命され、寺の外に住みながら大徳寺の再興に尽力する。 一休宗純と幕末の大徳寺大綱宗彦を比較してみると、大綱は、大徳寺435世であり、大徳寺14世大徳寺塔頭黄梅院第14世住職をし、裏千家11代玄々斎宗室・表千家10代吸江斎宋左・武者千家小路千家7代以心斎宋守と交わる永楽保全の参禅の師。和歌、茶の湯等を能くし、書画等に優れた人で当時のサロンで交わっています。沢庵と大綱は共に同宗の参禅の師。和歌、茶の湯等を能くし、書画等に優れた人。それ故、大綱宗彦は沢庵のことを一番よく知る立場にあります。 江戸後期の臨済宗の僧。大綱は字、宗彦は諱、空華・昨夢と号した。6才で黄梅院に入り得度する。修行後、夏峰宗正を継いで管長となる。同院を引退してから風月を友とし同院に、雅友と交わり、詩歌・書画・茶道を能くした。万延元年(1860)寂、89才。 そんなことから同じ大徳寺住職をしていた沢庵和尚(沢庵宗彭)のことをよく知るのは、一休ではなく大綱です。沢庵和尚と大綱宗彦は同じように詩歌・書画・茶道を能くして大徳寺歴史に残る人物で、大綱は沢庵のことを遡って、一番知る立場にあります。 第一一休は室町時代。沢庵和尚は、安土桃山時代〜江戸時代だから沢庵は一休よりのちの人です。時代から見ると一休は沢庵のことを知る由もありません。 そんなことから、この賛は間違いなく大綱が言うように沢庵和尚のものです。沢庵の賛の中で、“色即是空空即是色”の句が本来は無いのだと言う説がありますが、大綱がここの賛の中に記しているので、“色即是空空即是色”は、最初から確実に賛の中に含まれていたのです。文中での“色即是空空即是色”はあっても無くてもいいとは言えますが、意味が変わるわけではありません。 “色即是空空即是色”を入れることは、賛の口調はより整えられるし、句がしまります。 ー・ー・ー・ この賛を一休とした古典落語があります。 それは有名な古典落語『一目上がり』です。 落語にとり入れられたのには、“頓智の一休と地獄太夫”と言う逸話が種元になったのだと思います。それを沢庵和尚の『仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売る。・・・』と言う大綱の賛を絡ませて作ったものです。賛とは〈画賛〉とも言い、像画や水墨画の余白に見られるもの。
“一休と地獄太夫”をご存知でしょうか?“ “一休と地獄太夫”のことは、以下、サーチ【search】しながら、
当山玄関にある『一休禅師と地獄太夫』の大きな衝立画には、明治38年の丸山応挙の写しと云われるものがあります。昔、当山前は遊廓街。 実際に、応挙の元の画があるかどうかは、私には分かりません。
画の賛に、◎ 花盛り ああ花盛り 五十年 ◎ 野ざらしや 皆うたかたの 夢の跡 明治参拾四年 巳の春 曾呂利新左衛門 □印 画賛 と言うこの世の無常を詠った二句と、 此の画の中には、 一休さんが七人の骸骨の真ん中で扇子を掲げて踊る画です。その周りを遊郭の座敷で三味線・太鼓・手拍子で踊る骸骨等が、閻魔様と地獄が描かれた太夫の打掛を衝立式の衣桁に架けたその前で、地獄太夫と興じ呆けているのが描かれています。 苦界に沈めた地獄太夫が、そんな一休にすがる様な目で、見上げているように見えるのが印象的な絵です。 ー・−・ 一休と骸骨のことはよく知られています。 一休は「狂雲集」で、 『門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくも無し』と詠み、正月にドクロを杖の頭につけ、『ご用心 ご用心』と、叫びながら練り歩いたと云われます。 正月ごとに誰もが、あの世に向かって近づいていると強調したかったのでしょう。 「シャレコウベほど目出度いものはない」と言って次の歌を詠みました。 <にくげなきこのシャレコウベあなかしこ 目出度くかしくこれよりなし> 「にくげなき」とは、シャレコウベに肉がないことと、憎らしく思うことを掛けています。 生きているうちは、どうしても欲というものがなくならないものですが、死んで骸骨になればもはや欲もなく、誰に憎まれることもなくなります。そのような煩悩などきれいさっぱり抜け落ちた姿、目がくぼんで目の穴が出た様子を「お目出度い」と掛けて、それこそが一番尊いのだと、一休さんは頓智を効かせて伝えているのでしよう…か? 生に限りあることを忘れて、ただ快楽だけを追い求めていては、本当に大切なものを見失ってしまうかもしれません。 何時か訪れる死を肝に命ずることで、その生をより輝かせることができるのではと思います。
「酒に狂うのも骸骨・遊興に狂うのも・踊り呆けるのも骸骨・美人も骸骨・・・!」 奇行を以って知られる一休は、骨こそ人間の原点としたと云われています。
=『狂雲集』(きょううんしゅう)とは、一休宗純による風狂破格の世界を呈する漢詩集、ほとんどが七言絶句。狂雲とは一休の号。=
『一休骸骨』は図解で世間に広く流布しており、その究極の図柄がこれらの『一休禅師と地獄太夫』。
絵師によって絵柄・画の表現が違い、地獄太夫の画は沢山有るようです。 当山には衝立に描かれた一休と地獄太夫の他に、単身で地獄太夫を描いた肉筆の浮世絵が保存されています。
<死にはせぬ 何処へも行かぬ ここに居る たづねはするな ものは云はねど> (何処にも行かない ここにいる お前のそばにいる 何も語りかけないけれど・・・。)一休道歌より。
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ところで1975年から1982年にかけて放送された。テレビ漫画の一休は、 高視聴率を記録していました。もう一度現在の子供等に見せられたらいいと思っています。 漫画に出てくる蜷川新右衛門は架空の人物で、義満から一休が後小松天皇の落胤であることから、南朝とも縁を持つ伊予の局の実子でもある一休を監視するために、足利将軍家を脅かす危険因子になりかねない一休の動向を探る密命を帯びた架空の寺社奉行蜷川新右衛門を作っています。(寺社奉行と言う職務は一休の頃にはありません) マンガの一休さんのとんち話は、禅問答とよく似ているものの、禅問答とかけ離れたもので、漫画のとんち話は、意地悪な無理難題。多くは、不条理さと意味不明な問答になっています。
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当山玄関にある『一休禅師と地獄太夫』の大きな衝立画『一休禅師と地獄太夫』 豊前田町の遊郭が盛んな頃、遊郭の玄関にあったもの(一間四方の大きさ) 元遊郭楼の旦那、故今井唯一氏から寄進されたものです。 お馴染みの、『一休禅師と地獄太夫』 写しの作者不詳。
当山には他に、閻魔と地獄を描いた着物(打掛)を着た、単独の地獄太夫の肉筆画(落款なし)が残されています。
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『地獄太夫は室町時代に泉州堺の遊郭に実際にいた遊女と言われています。山賊にかどわかされて苦界に身を沈めたのですが、これも前世の不信心ゆえであると・懺悔の心を込めて自らを「地獄」と名乗り、地獄模様の着物を羽織って仏の御名を唱えながら客を送り迎えたそうです。風狂で知られる一休禅師はその評判を聞いて地獄太夫のもとを訪ねました。「聞きしよりみてうつくしき地獄かな」と詠むと、地獄太夫は「生きくる人の落ちざらめやも」と返したと言います。こうして一休禅師と、地獄太夫はうちとけて語り合いました。地獄太夫が「出家して仏に仕えることができれば救いもあるものを」と嘆くと、一休は「五尺の身体を売って衆生の煩悩を安んじる汝は、邪禅賊僧にまさる」と言って慰めたそうです。 また、有名な「門松は冥途の旅の一里塚 目出たくもあり目出たくもなし」という歌は、一休が地獄太夫に贈ったものだとの伝もあるそうです。 そんなエピソード【episode】から、上記の賛は一休のものとされた可能性があります。』 しかし、賛の墨蹟を大綱宗彦が沢庵和尚として残しているので、一休ではなく沢庵和尚のものと確定されると想います。当山には大綱宗彦の真筆の墨蹟が残っているので、比べてみると筆跡は大綱のものに間違いありません。
沢庵も大綱も共に書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残していることから、大綱が言うように沢庵の賛に間違いありません。 江戸時代、柳生宗矩(やぎゅう むねのり)は、指南役として深い信頼を寄せられていて、沢庵も三代将軍・家光に参禅の師とし深く交わっています。 ー・ー・ー・ー・ 落語の話はサーチ【search】以下、 長屋に住む八っつあん。隠居さん宅で、床の間の掛軸に目をやる。 『雪折笹』の図に「しなわるるだけはこたえよ 雪の笹」と書かれてある。
隠居いわく「これは画に添えた賛(サン)というもの。雪の重みに しなって耐えている笹竹も雪が融ければ元の通りに立ち直るように、 人間も苦難に遭遇したときこそ辛抱が大切であるという教訓じゃ」と。
次に 八っつあん。大家さんのところへ行く。 大家の家の床の間には、「近江(きんこう)の鷺は見がたし、遠樹 (えんじゅ)の鴉(からす)は見やすし」の字が書かれてあった。
「雪の中にいるサギは、近くであっても見つけにくいものだが、 遠くにいるカラスは小さくともすぐに目につく。善行はなかなか 認められないものだが、悪事は目立つものだ、だから悪事はできない という意味である」と、大家は言う。
そこで八っつあん、「結構な賛(サン)でございますな」というと、 大家さん「いや、これは根岸の蓮斉先生の 詩(シ)だ」。
八っつぁん「今度は『シ』と言おう」と思って医者のところへいく。医者の家の床の間には、
「仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売る。 汝五尺の身体を売りて、一切衆生の煩悩を済度す。柳は緑、 花は紅の色いろ香。池の面に月は夜な夜な通へども水も濁さず影も止めず」 と書かれていた。
八っつあん、字など読めないが「結構な詩(シ)でございますな」と、 ほめると、医者は「いや、これは一休禅師の悟(ゴ)だ」と。
「サン、シ、ゴと来たから、今度は六か」と、八っつあんは 友人宅へいく。
友人宅には、にぎやかな七人の絵に「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」という回文 (=逆から読んでも同じ文)が添えられていた。
八っつあんは、感心しながら「へえぇ、結構なロクですなぁ!」、 友人「いいや、七福神だ」。
またまた失敗。「七の次は八か?」と、ぶつぶつ言いながら 古道具屋さんの前を通ると、額に「古池や 蛙とびこむ 水の音」。 それを見て八っつあん「結構なハチで」。「芭蕉の句(九)だ」。
この話、七番目が「質(七)流れ品だ」で落とす、とも。
ところで、「八っつあん」の名前は?「八五郎(8560)」 でしたか?「七」がない。 =余話= ついでに「質屋」のことを「一六銀行」。他に[十一」というのはご存知でしたか?。「七」の文字は分解すると「十」と「一」。いちろくぎんこう【一六銀行】 〔一と六の和「七」が「質」と同音のところから〕 質屋の俗称。六一銀行。 私は「十一(といち)」は「10日で1割の利息」の意味と思ってました。
この落語から『仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売る。・・・』という沢庵の言葉が、一休の言葉として広く知られて行ったのだと思います。 ━━━━━…‥‥ 『華厳経』入法界品に現れる善哉(ぜんざい)童子が、法を求めて53人の善知識を訪ねて教えを請い、 53人の善知識を訪ねて教えを請うその中には、偏見や予断や先入観を持たずに謙虚に教えを請う為に、遊女まで善知識に加えて訪ねています。善哉童子(裕福な長者の子)が発心を起こして、53人の善知識を訪ねたことから、東海道53次の宿場が出来る元になったと言われています。 ここに浮世絵の遊女の画をHPに載せることには憚れる思いですが、『華厳経』入法界品に現れる善哉童子が、法を求めて53人の善知識を訪ねて教えを請い、 53人の善知識を訪ねて教えを請います。その中には遊女まで、先入観や偏見を持たずに謙虚に教えを請う為に、善知識の一人に加えて教えを乞う為訪れています。
華厳経「入法界品」は、スダナという名の少年(善財童子=インドの長者の子に生まれた子)が仏教に目覚め、文殊菩薩の勧めにより、53人の善友(善知識)のもとを次々に訪ねて教えを乞い、その旅の最後に弥勒菩薩や普賢菩薩にも教えを受けて、ついには悟りの世界(入法界)に入るという物語。53人の善友の中には、菩薩や修行僧だけでなく、女神や仙人、バラモン、船頭、医者、商人、子供、遊女なども含まれており、仏法というものは、職業や身分、年齢や性別などには関係なく、いかなる人からでも学びうることが出来ると象徴的に説き示されている壮大な物語です。。 「われ以外、みなわが師なり」 「人生で出会う人、出会う人、自分にとっては大切な先生である」と言うのが、善財童子が目指す姿勢です。 私たちも善財童子のように、「多くの人から出来るだけ教えを受けて、自分の心をみがく人生の旅をする」 「善知識は月のごとし、能く清涼なる教法の光明をもって衆の熱悩を除く。」『華厳経』(けごんきょう) 『華厳経』は、 善財童子が、文殊菩薩に促されて悟りを求める旅に出発、53人の善知識(仏道の仲間・師)を訪ねて回り、最後に普賢菩薩の元で悟りを得る様が描かれる。 入法界品に現れる童子の姿をした菩薩の名。法を求めて 53人の善知識を訪ねて教えを請い,ついに普賢菩薩のところで十大願を聞き、阿弥陀浄土に往生することを願うようになる。華厳経(けごんきょう)』に説かれる善財童子(ぜんざいどうじ)の壮大な遍歴の旅の説話を描いたもの。虚空(こくう)のごとく澄んだ心をもつという童子。 華厳経入法界品(にゅうほっかいぼん)に登場する文殊菩薩(マンジュシュリー=もんじゅぼさつ)が教えを説き、発心して次々と53人の【※、】善知識(ぜんちしき)を歴訪し、教えを請い、最後に普賢(ふげん)菩薩に会って、浄土往生を願ったという、仏法修業の段階を示したものとされるものです。どんな人でも自分以外は師(善知識)と言うことだと想います…。所謂、吾れ以外は、全て我が師と言うことでしようか?。 【※、】善知識とは、「善き友」「真の友人」、仏教の正しい道理を教え、利益を与えて導いてくれる人を指していう。「善友」とも漢訳されます。 ー・ー・ー・ー・ @華厳経の主人公、善財童子は下層の遊女でも区別せず、「善き友」「真の友人」、として訪ねて教えを乞います。 A一休禅師と地獄太夫の交流の逸話。 B沢庵和尚の賛。 C沢庵和尚の賛を書き込んだ大綱宗彦。。 Dキリスト教と同じく仏教にも、教祖に関る娼婦の話があります。 釈迦がカーストの最下位にあった遊女(アンバパーリ―)に修行者と共に、食事にマンゴー林に招かれた時、その遊女に招かれた後に、リッチャヴインジク族の王からも食事に誘われますが、最初に招かれた遊女の食事を優先され、同じ日同時に行けないので、最初に遊女から受けたのを優先されて王様の招きを断り、食事を受けた遊女からマンゴウ林の寄付を受けられます。 仏教は裕福とか職業や身分、年齢や性別などには関係ないのだと言うことです。ブッダは、遊女アンバパーリーの招待をすすんで受けるなど、貴賎の差を問わない絶対平等の立場で行動を続けられます。 これらの話は、仏教の平等性を表しているのです。 ー・ー・ー・ー・ ━━━━━…‥‥ ・・‥‥… この画に、大綱宗彦( だいこう そうけん)が、沢庵和尚乃讃を書き入れています。 この画(軸)と大綱が書いた墨蹟から、以下の賛は一休禅師ではないことがはっきりすると思います。この賛のことを以下考えてみます。落語に取り上げられたのは、“一休と地獄太夫”の逸話が種元になっているのだと思います。
大綱の墨跡の賛には、 『仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売る。 汝五尺の身体を売りて、一切衆生の煩悩を済度す。柳は緑、 花は紅の色いろ香。池の面に月は夜な夜な通へども 水も 濁さず影も止めず』。 とあり、沢庵和尚乃讃。八十八翁大綱寫とあります。大綱晩年の書です。大綱は和歌、茶の湯を能くし、書画に優れた人。 この絵の賛書きは少し右上から左に流して書いています。それは大綱の癖なのかも知れません?
この賛を味わうには、 「柳緑、花紅(柳は緑に見え 花は紅に見える。)」と言う禅語が肝心です。しごく当たり前のことをいっているにすぎない言葉です。 だが 人は当たり前のことを見失いやすくなります。当たり前のことを あるがままに捉えることが悟りにつながるというのです。素直に当たり前に「緑の柳がそのまま緑・花は紅に見えれば」 それが悟りであるというのだと思います。判ったような判らんような? 迷句ですが、これが悟りの入りへの口になります。だから上記の賛の意味を想うとき、この画(軸)と大綱が書いた墨蹟から、上記の賛は一般には、賛意から考えて、如何にも一休の賛のように想えるのでしょう!大綱と沢庵は同じく大徳寺の歴史に残る人物です。 同じ大徳寺大綱が沢庵和尚乃讃としていますから、間違いなく、沢庵和尚乃讃です。如何にも一休の賛のように想えます(またそういわれています)が、沢庵と大綱は、同じく大徳寺の歴史に残る僧(住職)です。同寺で同じ歴史に残る大綱が、沢庵和尚乃讃としていますから、間違いなく、之は一休ではなく沢庵和尚の【*2.】讃ではないでしようか?大綱最晩年の賛書きです。大綱の死は八十九歳。大綱死の前年の遺墨です。大綱最後の遺墨ということになります。 賛の字が揃っていて、可なりの達筆です。 この絵を大綱自ら描かせて沢庵の賛を入れたのか?、当時のサロン仲間がこの絵を持っていて、請われて沢庵の賛をいれたのでしょうか?大綱自ら描かせて沢庵の賛を入れたのなら、この落款が判らない画の絵師は、幕末期の肉筆浮世絵師?となります。何方か教えてください。 ・――――――――――――――・ この画の遊女は、太夫でもなく花魁でもなく若い振袖*.新造です。遊郭デビュウする頃の娘(こ)を振袖新造(16歳頃)と言います。振袖新造になる前は禿(はげと書くかむろ)がいます。禿は10歳までの子。
太夫と言う言葉は京文化(上方)から生まれた遊郭言葉。花魁は江戸文化の遊郭言葉です。室町時代の一休と地獄太夫と言うのを、江戸の呼び方で、一休と地獄花魁としたら、大夫と花魁の呼び方の品が違います。文化の違いです。花魁とは泥臭い田舎言葉といえるかも!
=以下私考?= 太夫道中とは言わないと思います。あの絢爛な花魁道中は江戸文化から生まれたのだと思います?。上方では太夫道中というものは確立していなかったかも!?。江戸で生まれたのが花魁という呼び方なら『花魁の下に源氏名(花魁何々)』上方なら『源氏名の下に太夫(何々太夫)』が付くのかもしれません。
【*.新造】は「新艘」の意。色里の隠語で「舟」が女性を指すことから、新米の 遊女を新しい船に見立ててこう呼んだようです。新造は武家の奥さんを言うこともあるようです。
・・・以下この絵の迷鑑賞・・・ ・襦袢・着物の裏地・帯等極上品、袂・裾模様には上品な一重の山茶花模様の雅な着物。この娘(こ)の着ている山茶花模様は、静かで浄らかな雰囲気を醸しています。これが梅や百合でも香があって刺戟が強すぎ!!。亦、桜や、牡丹、しゃくやく、の花であっては、あまりに華やか過ぎます。山茶花の色こそ、静かで浄らかで、しかも淋し過ぎない花だと思います。微かに匂いを放つ山茶花。その模様がこの美女(遊女)にお似合いです。花首からポタッと落ちる椿には匂いがありませんが、花弁を散らすサザンカには匂いがあります。爽やかさを想いおこさせます。花びらがはらはら落ちるのが山茶花です。そのハラハラ散るさまも、この娘(こ)の未来を暗示しているよう…?。(素人迷鑑賞なので、纏りなく重複します。) ・品の良い着物の大人しい色合いが、この美女にお似合いで、身形(みなり)が良く、品のいい高級な遊女(吉原)の画。振袖新造の身に纏った着物の美しさは極上です。 ・肉筆ならではの色の鮮やかさがあります。ビューテフル肉筆浮世絵。 ・右手の拇指(親指)と、食指(人差し指)、中指に琴爪をはめた手、仏像が印を結んでいるように、意味ありげに、左手で右手の琴爪をつけた【*1.中指】を隠すように、軽く握ったその手。その結んだ【*2.印】の意味(サイン)を説いてみたくさせます。恥じらいの残る可愛げな仕草に描いています。誇らしげに「可愛い子ぶる子」→「かわいこぶりっこ」→「ぶりっ子」の演出なのかも…!?。 【*2.のこと】、 仏像の手の形や組み方を印契あるいは印相といい、略して「印(サイン)」と呼びます。 印は、サンスクリット語で「身振り」を意味するムドラーから来た言葉で、本来釈迦の身振りから生まれたものです。特に密教では、誓願や功徳を表わすものとして重要視され、教義の発展と共に細分化体系化されているものです。 古来インドでは手の形で意志を現す習慣がありました。これから発展して印相が生まれました。 印相は印契(いんげい)ともいいます。ふつうは簡単に印(いん)と呼ばれています。 印は指で輪を作ったり、両手を組み合わせていろいろな形をつくり出します。 印は仏様の御利益や担当部門、意志などを象徴的に表します。したがって仏像を見分けるときの重要なポイントにもなります。】 ー・−〜・−〜・ ・右目の黒い瞳は少し上にずれています。右目の黒目と左の黒目が左右ずれていて、心做しか 緊張して目線が定まらないように想えます…?。 やはりデビー時の緊張した顔かなー…!!?ラグビーで活躍した五郎丸さんで話題になったルーティンの一種かも知れません? =ルーティンとは= 最近スポーツの試合のここぞという場面で、集中力を高めたり、ゲンを担いだりする意味合いで行われる選手独自の儀式的な所作を、ルーティンと呼ぶことも多い。パフォーマンスルーティーン、一連の体の動き(パフォーマンス)を伴ったルーティンワークのこと。
・現在のアイドル歌手が両手にマイクを握って振り返る一瞬のポーズにも似ているかも? ・その手は、水仕事をしたことが無いような、ふっくらした艶やかな指です。浮世絵の手は、顔に次ぐ最重要なテーマだと思います。 ・それは、“心に萌えいずる春を感じる”といった語感で用いられている、現在の“萌え〜!”と同じように、この絵を描いた画家がその表現を意識して、萌えさせるように描いた。当に江戸の“萌え絵師”です。 ・吉原?遊女(美女)は今で言う「萌えキャラ」 ・キュートな萌えキャラは、美少女アイドル。 ・自筆浮世絵は、大名や豪商等が描かせたようですから、高級な絵具を使っているように想えます。素人目にもそのように想えます。 ・高級な絵具を使い、初デビー時の穢れない無垢な美女を描いています。 ・・‥‥…━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━…‥‥・・ 以下、サーチ【search】しながら絵の迷鑑賞…! ・花魁は江戸吉原遊郭(浅草の裏手にあった吉原遊郭)で位の高い女性。江戸吉原特有の呼び名です。花魁の名は、位の高い遊女。花魁と言う言葉は、花魁以下の郭内中で、花魁が新造(しんぞう)や、禿(かむろ)等の下の者から“お・い・ら・ん・ところの姉さん”と呼んだことから、「お・い・ら・ん・=花魁”」と言われだしたとも言われます。“お・い・ら・ん・処”と言う言い方は、江戸言葉で江戸の方言です。 亦、花魁の謂れには別に面白い話があります。『花魁は廓でキツネやタヌキと同じように、尾で客を騙す。花魁は尾がない故、尾が要らぬ「おがいらん(尾がない)、それで、お(尾)・いらん」と、なったという話。
・大坂新町と京都島原は、花魁と云わず太夫というのだそうです。 江戸吉原は娼妓さん(つまり体を売る)で芸はその次、対照的に京都島原は芸妓さんで「芸」を売るのが主だそうです。上方の太夫の方が江戸の花魁より格が上なのです。 現在京都の島原は西本願寺の裏手というか西側辺りでした。大夫はかつては、正五位の地位をも与えられた最高位の遊女で、京都御所の公家、皇族が相手であったため、教養に長けた芸妓でなければならなかったそうで、例えば、舞踊なら名取、師範になれるくらいです。
・「豊かな黒髪・室内ばかりで過ごし、日焼けすることのない色白できめ細かい肌・富士額・中高で面長な美人顔。目元は涼しく、口はおちょぼ口、「酒を飲む時の(ちょこ=猪口)は、この漢字です。」という事は、おちょぼ口とは、猪口の先端の形が似てるから、これから取ったのでしようか? )それらの条件を満たした、江戸時代の美人顔です。 猪口の先端の形が似る“おちょぼ口”のことですが、 ・生まれつきの人はあまりおらないと想います。 ・本来は上品な口元と言う意味を言うのだと想うし、 ・現在の舞妓さんの化粧法、紅のひき方なのでは?舞妓さんの唇の化粧法を調べたら、棒紅と呼ばれる細く小さな固形状のものを、容器にとって水で溶いて塗り、艶(つや)出しと、唇の荒れを防ぐために、飴を溶かしたものを紅筆につけて重ね塗りするのだそうです。舞妓さんになってからの一年間は愛らしさをだすため、紅は下口唇にのみ少しだけひくのだそうです。そんな化粧法だったのかもしれません? ・当時の美人像も鼻筋が通りウエストが細い女性であり、そして化粧をせず「地物の上品」であることがポイントです。 ・ 振り向いた腰。袂・裾模様には、一重の山茶花模様の雅な着物、この美女(吉原?遊女)に似合っています。このことから源氏名は“さざんか”としましょう? ・良い着物の大人しい色合いが、この美女にお似合いです。恥じらいの残る年頃の身形(みなり)のいい、高位の吉原?遊女の画。 ・一般の遊女が、遊郭で着るド派手な着物とは思えない、店では特別扱いの上品な着物を纏っています。身に纏った着物は垢ぬけていて、「琴の芸を嗜む高級な品のいい吉原?遊女」です。将来の花魁候補!?
・最高位の花魁は、江戸の一般庶民には高嶺の花。誰もがあえるものではありません。 ・花魁候補の女性は、幼少の頃から禿として、徹底的に古典や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁などの教養を養い、芸事を仕込まれていたようです。この時代では最高のレベルの品格・教養です。 ・この肉筆の浮世絵の遊女は、箏がお得意…!のようです…!! ・有名な菱川師宣の「見返り美人」より、艶やかな美人。また、この「見返った吉原?遊女」のほうに若さを感じます。癒しキャラでもあります。 ・菱川師宣の「見返り美人」はかなり年増?。 ・この娘は振り返った視線が定まらない初々しさがあります。 ー・ー・ー・ 浮世絵の始まり。以下、サーチ【search】 浮世絵の始まりは、明暦3年(1657)1月におきた江戸大火以降といわれています。町のほとんどを焼き尽くして何もなくなった後、復興していく江戸の町とともに、生まれ変わる流行を絵画化したのが浮世絵の始まりのようです。
浮世とは、 もともと浄土(あの世)に対して、仏教の厭世的な「憂世(この世)」で、移ろい易いといった意味。この字句から伝わるように、移ろい易いこの世を厭世的に表した言葉でした。しかし、江戸大火の復興景気の風潮のなか、つらい世の中だからこそ浮き浮きと楽しんで生きるべきだと考えるようになってきました。「浮世」の絵という意味の浮世絵は、生きている今を楽しみ、世の中を肯定的にとらえた庶民のエンターテイメントだったようです。 こうした意味を持たせた浮世絵は、吉原の遊女、歌舞伎役者、町で人気の美女、力士、火消しや風景画、物語などあらゆるジャンルが描かれました。 浮世絵は、版画と絵画(肉筆画)があり、絵画(肉筆画)は一点ものなので高価なものでした。版画は大量生産によって値段もリーズナブルなため、江戸庶民は、現在の雑誌や気に入ったポストカードを購入するような感覚で、浮世絵を手にしてゆきます。浮世絵ブームです。 ・・‥‥…━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━…‥‥・・ ・ 振り向いてくねらせた腰元。有名な切手になった菱川師宣の年増の「見返り美人」より若く、より腰をくねらせた妖美な愛らしい娘(こ)。 ・クールビューティー(Cool Beauty)。 ・ため息が出るほどの美しさ…!? ・恥じらいを見せて振り向いたデビュー時の15〜16歳!
・・・〓肉筆浮世絵、素人迷鑑賞〓・・・ (以下サーチ【search】しながら…。)素人“迷”鑑賞なので纏まりなく、重複します。 ・肉筆ならではの色の鮮やかさがあります。ビューテフル肉筆浮世絵。 ・右手の拇指(親指)と、食指(人差し指)、中指に琴爪をはめた手、仏像が印を結んでいるように、意味ありげに、左手で右手の琴爪をつけた中指を隠すように、軽く握ったその手。その結んだ【*2.印】の意味(サイン)を説いてみたくさせます。恥じらいの残る可愛げな仕草に描いています。誇らしげに「可愛い子ぶる子」→「かわいこぶりっこ」→「ぶりっ子」の演出なのかも…!? 【*2.の余話、 仏像の手の形や組み方を印契あるいは印相といい、略して「印(サイン)」と呼びます。 印は、サンスクリット語で「身振り」を意味するムドラーから来た言葉で、本来釈迦の身振りから生まれたものです。特に密教では、誓願や功徳を表わすものとして重要視され、教義の発展と共に細分化体系化されているものです。 古来インドでは手の形で意志を現す習慣がありました。これから発展して印相が生まれました。 印相は印契(いんげい)ともいいます。ふつうは簡単に印(いん)と呼ばれています。 印は指で輪を作ったり、両手を組み合わせていろいろな形をつくり出します。 印は仏様の御利益や担当部門、意志などを象徴的に表します。したがって仏像を見分けるときの重要なポイントにもなります。】 ・右目の黒い瞳は少し上にずれています。右目の黒目と左の黒目が左右ずれていて、心做しか 緊張して目線が定まらないように想えます…?。やはりデビー時の緊張した顔かなー…!!?ラグビーで活躍した五郎丸さんで話題になったルーティンの一種かも知れません? =ルーティンとは= 最近スポーツの試合のここぞという場面で、集中力を高めたり、ゲンを担いだりする意味合いで行われる選手独自の儀式的な所作を、ルーティンと呼ぶことも多い。パフォーマンスルーティーン、一連の体の動き(パフォーマンス)を伴ったルーティンワークのこと。 ・現在のアイドル歌手が両手にマイクを握って振り返る一瞬のポーズにも似ているかも? ・その手は、水仕事をしたことが無いような、ふっくらした艶やかな指です。浮世絵の手は、顔に次ぐ最重要なテーマだと思います。 ・それは、“心に萌えいずる春を感じる”といった語感で用いられている、現在の“萌え〜!”と同じように、画家がその表現を意識して、萌えさせるように描いた勝川?は、当に江戸の“萌え絵師”です。 ・吉原?遊女(美女)は今で言う「萌えキャラ」 ・キュートな萌えキャラは、美少女アイドル。 ・自筆浮世絵は、大名や豪商等が描かせたようですから、高級な絵具を使っているように想えます。素人目にもそのように想えます。 ・高級な絵具を使い、初デビー時の穢れない美女を描いています。 ・当時の人も、この画を見て、“萌え〜!・萌え〜!”だったのかも…!?。 ・従順な癒し系で、江戸の人たちもメロメロ…!。癒しキャラ。この娘(こ)は江戸の癒し美人ギャル。 ・この画の娘(こ)は、「可愛い、萌える、癒される」三拍子そろったお江戸一の美人ギャル。お江戸のアイドル。 ・お江戸のアイドルと言っても、吉原遊女は、一般庶民には会うことができない高嶺の花。基本的には旗本や、大商人たちが顧客のようです。 ・振袖新造デビューの名披露目。その日の源氏名は、着物の柄と同じ「さざんか…?」 ・胸キュンとさせるCOOL(かっこいい)なポーズ。 ・普段踊りの稽古をしている姿を、切り取ったような一瞬なのかも… ・吉原?の遊郭内の他の若い娘も、“ぶりっ子”のそぶりを常日頃研究し合っていたかも…? ・花魁は江戸吉原遊郭で位の高い遊女、江戸吉原特有の呼び名です。 ・大坂新町・京都島原では花魁と呼ばず太夫というのだそうで、江戸吉原は娼妓(つまり体を売る)さんで芸はその次、京都島原は芸妓さんで「芸」を売るのが主なのだそうです。つまり娼妓ではなく芸妓さん。現在京都の島原は西本願寺の裏手というか西側辺りだそうです。大夫はかつては、正五位の地位をも与えられた最高位の遊女で、御所の公家、皇族が相手であったため、教養に長けた芸妓でなければならなかったそうで、例えば、舞踊なら名取、師範になれるくらいです。 ・「豊かな黒髪・室内ばかりで過ごし、日焼けすることのない色白できめ細かい肌・富士額・中高で面長な美人顔。目元は涼しく、口はおちょぼ口、「酒を飲む時の(ちょこ=猪口)は、この漢字です。」という事は、おちょぼ口とは、猪口の先端の形が似てるから、これから取ったのでしよう )それらの条件を満たした、江戸時代の美人顔です。 ・“おちょぼ口”のことですが、生まれつき猪口の人はあまりおらないと想います。 ・“おちょぼ口”とは、「かわいい」「小さい」と限定された上品な口のことを言うのだと想うけど、本来は現在の舞妓さんの化粧法、紅(ルージュ)のひき方なのでは?舞妓さんの唇の化粧法を調べたら、棒紅と呼ばれる細く小さな固形状のものを、容器にとって水で溶いて塗り、艶(つや)出しと、唇の荒れを防ぐために、飴を溶かしたものを紅筆につけて重ね塗りするのだそうです。舞妓さんになってからの一年間は愛らしさをだすため、紅は下口唇にのみ少しだけひくのだそうです。そんな化粧法だったのかもしれません? ・当時の美人像も鼻筋が通りウエストが細い女性であり、そして化粧をせず「地物の上品」であることがポイントです。 ・ 振り向いた腰。袂・裾模様には一重の山茶花模様の雅な着物、この美女(吉原?遊女)に似合っています。品の良い着物の大人しい色合いが、この美女にお似合いです。恥じらいの残る年頃の身形(みなり)のいい、吉原?遊女の画。 ・一般の遊女が、遊郭で着るド派手な着物とは思えない、店では特別扱いの上品な着物を纏っています。身に纏った着物は垢ぬけていて、「琴の芸を嗜む高級な品のいい吉原?遊女」です。将来の花魁候補!?。 ・花魁候補の女性は、幼少の頃から禿として、徹底的に古典や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁などの教養を養い、芸事を仕込まれていたようです。この時代では最高のレベルの品格・教養です。 ・この肉筆の浮世絵の遊女は、箏がお得意…!のようです…!!。 ・有名な菱川師宣の「見返り美人」より、艶やかな美人。また、この「見返った吉原?遊女」のほうに若さを感じます。癒しキャラでもあります。 ・菱川師宣の「見返り美人」はかなり年増?。 ・この娘は振り返った視線が定まらない初々しさがあります。
浮世絵の始まり。以下、サーチ【search】 浮世絵の始まりは、明暦3年(1657)1月におきた江戸大火以降といわれています。町のほとんどを焼き尽くして何もなくなった後、復興していく江戸の町とともに、生まれ変わる流行を絵画化したのが浮世絵の始まりのようです。 浮世とは、憂き世=平安時代から起こった仏教的厭世観のこと=無常。 もともと浄土(あの世)に対して、仏教の厭世的な「憂世(この世)」で、移ろい易いとといった意味。、この字句から伝わるように、移ろい易いこの世を厭世的に表した言葉でした。しかし、江戸大火の復興景気の風潮のなか、つらい世の中だからこそ浮き浮きと楽しんで生きるべきだと考えるようになってきました。「浮世」の絵という意味の浮世絵は、生きている今を楽しみ、世の中を肯定的にとらえた庶民のエンターテイメントだったようです。 こうした意味を持たせた浮世絵は、吉原の遊女、歌舞伎役者、町で人気の美女、力士、火消しや風景画、物語などあらゆるジャンルが描かれました。 浮世絵は、版画と絵画(肉筆画)があり、絵画(肉筆画)は一点ものなので高価なものでした。版画は大量生産によって値段もリーズナブルなため、江戸庶民は、現在の雑誌や気に入ったポストカードを購入するような感覚で、浮世絵を手にしてゆきます。浮世絵ブームです。
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“一休と地獄太夫”の逸話や、この“賛を作った沢庵”、この絵にその賛を“書き入れた大綱”は共に、遊女と言えども、偏見や予断や先入観を持たずに謙虚に教えを請う姿勢、遊女まで区別せず、善知識として扱うこの姿勢は大切なことだと教えているのだと想います。 “どんな人でも我以外全て我が師”の姿勢。私たちも善財童子のように、「多くの人から出来るだけ教えを受けて、自分の心をみがく人生の旅をする」
「誰も偏見や予断等、先入観を持たず、 謙虚に教えを請う姿勢を教えているのだと想います。」
・−・−・−・ =余話= フィクション上では、しばしば沢庵と宮本武蔵が結び付けられますが、。例えば、吉川英治作の小説『宮本武蔵』では武蔵を諭すキーパーソン的な役割を担っているが、史実において武蔵と沢庵和尚の間に接触のあった記録は無いんだそうです。(吉川自身も「武蔵と沢庵和尚の出会いは、自身による創作である」と明言しているようです。)[
「柳生宗矩(柳生新陰流)と沢庵和尚の関係は実際交流があったようですが、武蔵とは実際の繋がりはありません。」
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