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■ 68)*.1.猿も訪れたことがある市中の山寺。山門をくぐれば秋たけなわ…境内は小鳥の囀りと落葉の音=平安です:落葉浄土=2012.12.5

  =盛秋・境内は落葉浄土=
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  (画はクリックで拡大表示)
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*.1タヌキはよく見かけます。猿もH25年、境内が色付き始めたころ、初めて姿を現しました。庭木を伝わり庫裏の屋根に上がると反対側に回って姿をけし、しばらくすると森のカラスが騒いだので、本堂の裏側、山側の方へ移って行ったのだと思います。

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・・・只今書き込み中・・・

=◆正面の御堂は護摩堂・左は本堂。◆==================

この時期、境内の小鳥のビジーエムと、ジプシーキングスの「インスピレイション」のギター曲&落葉の音が合わされば、心揺さぶられて、仏教の無常観、日本の侘び寂びをしみじみ感じます!

鬼平犯科帳(主演:二代目中村吉右衛門)の「EDテーマ」(CDをかけて、公孫樹が散り始める頃から、天気のいい日に聴いています。
仏教の無常観・侘び寂びが表現されているような、繊細で心揺さぶるフランスの音楽バンド、ギター。人を泣かせる名曲で、お寺の境内によく合うように想います。エンドテーマ)・*2.ジプシーキングスの哀愁のこもった、「インスピレイション」の
*2.ジプシーキングスは、
南フランスのフラメンコギターを主とするグループ。初め思うほどあまり売れないグループだったが後、フラメンコに現代音楽のポップ・ロックを加味してから一躍世界的に有名になったギターを主とする8人編成。
中村吉右衛門主演の鬼平の時の「EDテーマ」この曲、
何度聴いても飽きません。不思議と日本の風景や、四季折々の光景によく合います。それは仏教の無常観・日本的な侘び寂びが表現されていて、繊細で心揺さぶる情感あるギターの調べだからだと想います。
ギターの哀愁漂う旋律が、むせび泣くが如く、しみじみと奏でられていて、魅せられます。この曲に無常観を感じるのは、無常を想わすような変化を、少し急(せ)き立てる様な旋律で表現させているからでからでしようか…?

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時代劇の映画やテレビ時代劇の多くは、京都の真言宗本山大覚寺や、大覚寺境内の日本三大名月観賞地として、よく知られる大沢池の畔でロケが行われています。大沢池(おおさわのいけ)は日本最古の人造の池泉です。平安の王朝人は、池に浮かぶ桜や観月を愛でていて、桜と月の名所として知られていました。
劇の終わりに、協力・京都大覚寺とよく出てきます。このお寺(旧嵯峨御所)は【※1.】格式の高い門跡寺院だから宸殿造りです。京都東映太秦映画村と、大覚寺の大沢池が近いからと言うこともあります。特に時代を感じさせる大覚寺竹林・大沢池のロケーション【location】が撮影場所に適しているからだと想います。

【※1.】門跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになる。

昔、京都旅行で大覚寺の近くの旅館に泊まった時、旅館の名前は忘れましたが、宿からすぐ近くの大沢池の畔を夕食後散策した時、今でも忘れることができない思い出があります。それは・・・!?。
現在はどうなっているか分かりませんが、当時は自由には出入りできました。大沢池の畔は、時代を経た木々が多くあります。そのまま時代劇に使えます。大覚寺は嵯峨天皇の別荘が真言宗のお寺になっているのです。だから桜と月の名所でもあるし、ほんとにいいところですよ…。時代劇を観るたびに想いだします。
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長谷川平蔵は実在した人物なのだそうです。
火付盗賊改方長官であったのは、1787年(天明7年)から1795年(寛政7年)まで。1795年に御役御免になったが、その直後に死去。平蔵には清濁併せ呑むというところがあった人物とも云われています。
長谷川 宣以(はせがわ のぶため、延享2年( 寛政7年5月19日)は、江戸時代中期の旗本。火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めた。幼名は銕三郎(てつさぶろう)、あるいは銕次郎(てつじろう)。家督相続後は父・長谷川宣雄と同じく平蔵(へいぞう)を通称とした。
池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として、日本の時代小説・時代劇ファンに知られる。
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池波正太郎原作・テレビの鬼平犯科帳シリーズをよく見ています。
主演の鬼平役には、今まで八代目 松本幸四郎(松本白鸚)・中村金之助・丹波哲郎・二代目中村吉右衛門へと主役が移ってきましたが、丹波哲郎・二代目中村吉右衛門の二人が適役・嵌まり役のように思います。自分としては二代目中村吉右衛門が一番味のある演技をしていて、一番適役だったと想います。
原作者の池波正太郎は、平蔵に世の善悪を受け入れる強烈なリーダーシップを持たせ、その中で、人情・人生の機微即ち人の情け、生き方や義理・人情愛をも兼備えさせ、感銘を持たせる平蔵を描いています。それが痛快です。映像もいいですが、原作小説を読んでも別の味わいがあります。池波正太郎は美食家としても知られたようで、小説の中にも自分と同じように美食家を想わす場面が平蔵にも盛んに設定されています。江戸時代の有名な高級料亭は「嶋村」:「八百善」:「平清(ひらせい)」です。

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=余話@=
この時代劇を見ていて、現在ではあまり聞くこともなく、自身も使うことがなくなった(けんのん)という言葉をよく聞きました。現在ではこの言葉は死語です。
(けんのん)を広辞苑で調べると、
【意味】「険難(けんのん)」は「危ない」「あやぶむこと」「危険」。

・「剣呑」とは、危険な様や不安な様を表す言葉。「剣呑、剣呑」と重ねて使う事で、意味を強調したりします。「剣呑」は「剣難」が変化したものとか…。ですから、「危ない」とか「危険」の意味です。
「剣呑剣呑」とは、「おお危ない、危ない、気を付けよう」です。
使い方としては、物騒で近付きたくない時などに「剣呑、剣呑」と言って回避するように使う。
現在では、危険を承知で近付く時には「剣呑、剣呑」とは殆んど表現しません。「剣呑」の意味は、危ない ・ やばい ・ 危険 ・ 物騒 という感じで使われます。
「剣呑剣呑」と繰り返して使うのは聞いたことがありませんし、「剣呑」という語自体 あまり使われない死語です。

・「険難険難」(けんのんけんのん)=「いやぁ危ない危ない」と恐れること。「化けの皮が現れんと、しきりに―に思う。
・「険難性」:何事についても危険だ、不安だと思う性質。臆病。
・「険難(けんのん)」はケンナン(険難)の転で、「剣呑」を当て字にします。
・「金は欲しいだろうが、そんな険難な思い迄して借りる必要もあるまいからね」
 〈漱石・道草〉
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=余話A=大沢池のことは以下サーチ。
大沢池は日本最古の庭池で、嵯峨天皇が810年に造営された離宮「嵯峨院」の苑池の一部です。中国の洞庭湖になぞられて造られたことから「庭湖」(周囲1`)とも呼ばれています。また、藤原公任「滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ」と詠んだ名古曽の滝跡がある名勝です。
春は桜、秋は紅葉の他に月の名所としても名高く多くの人々が訪れます。大沢池の周囲は時代劇ロケのスポットです。

観月の夕べ
仲秋の名月には一対の船(龍頭舟と鷁首舟)を浮かべた観月の夕べが行われ、池を一周しながら、抹茶を味わいつつ水面に映る月を愛でることができます。その他にも、特別舞台では満月法会が催されたり、観月コンサートなども開かれ、五感で嵯峨野の秋を味わえます。
現代の『観月の夕べ』は、仲秋の名月の日を含む夜3日間に行われます。池には、古式にのっとり龍頭船など屋形船3隻を浮かべ、池を一周しながらお茶を喫して水面に浮かぶ月を鑑賞します。空を見上げれば煌々と、目を落とせば静かな水面に映る月。この2つの月を見る稀有な時間が過ごせます。

大沢池畔の遊歩道。
初春の池畔の桜はつとに有名だが、晩秋の紅葉もすばらしい。
池を一周する遊歩道には、季節の風情を感じながらゆっくりと散策する人々の姿がいつもみられる。この遊歩道は趣のある樹木が両脇にあり、かなり広く江戸時代の主要な何処かの街道を想わせます。
エンドテーマジプシーキングスの哀愁のこもった、「インスピレイション」のギター曲に合わせて、大沢池畔の桜や、御室(おむろ)の仁和寺(真言宗)御室の桜が映し出されます。
ここはもと嵯峨天皇が弘仁年間(810〜824)に造営された離宮「嵯峨院」の苑池の一部で、現在大覚寺境内に属している。中国の洞庭湖(どうていこ)になぞらえて「庭湖(ていこ)」ともいい、作庭当時は泉・滝・名石等の美を極めた池泉舟遊式庭園であった。今なお池中には、菊ガ島・天神島の二島と、巨勢金岡(こせのかなおか)が配置したとされる庭湖石(ていこせき)があり、広々とした大陸的雰囲気を漂わせた現存する我が国最古の庭園の一つである。池畔には弘法大師が離宮の鎮守として勧請したと伝えられる五社明神のほか、桜樹が多く、花の名所であるとともに、古くより月の名所としても名高く、秋の観月に訪れる人も多い。この池の北は嵯峨院の建物があった場所で、北約五十メートルの所に嵯峨院滝殿の石組み跡、「名古曽滝(なこそのたき)」があり、

藤原公任(ふじわらのきんとう)が、

     滝の音は絶えて久しくなりぬれど
          なこそ流れてなお聞こえけれ

と詠んでいます。
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・平安のはじめ、嵯峨天皇の離宮として建立されて1200有余年。絶えず歩みつづけてきた大覚寺。 今日では“華と心経の寺”として親しんでいただいておりますが、数々の悲運を乗りこえ、その法灯を守り続けてきました。 今日までの人と歴史の軌跡を辿り、この場でしか語ることができない口伝えを織りまぜながら、ここに記します。
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・大覚寺
弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山。
正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と称し、嵯峨御所とも呼ばれる。
平安初期、嵯峨天皇が檀林皇后とのご成婚の新室である離宮を建立されたが、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院です。
弘仁9年(818)疫病が蔓延し、多くの人が病に苦しんだ時、嵯峨天皇は厚誼のあった弘法大師の勧めにより離宮嵯峨院(大覚寺)に於いて、天下泰平を願い一字三礼して、天下泰平を願い紺紙金泥による般若心経を浄写され、その功徳により疫病は治まった。以後、般若心経は勅封とされ、60年に一度、戊戌(つちのえ・いぬ)の年に開封されています。嵯峨院が大覚寺となったのは、皇孫である恒寂入道親王を開山として開創した貞観18年(876年)です。
弘法大師空海のすすめにより、空海と共に三筆と云われた嵯峨天皇が浄書された般若心経が勅封(60年に1度の開封)として奉安され、般若心経写経の根本道場として知られる。嵯峨天皇の心経の真筆の他に後光厳、後花園、後奈良、正親町、光格の五天皇の宸翰般若心経が勅封心経殿に保存されています。
明治時代初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた格式高い門跡寺院である。いけばな発祥の花の寺でもあり、「いけばな嵯峨御流」の総司所(家元)でもある。時代劇・各種ドラマのロケ地としても有名である。
小倉山が近くにあります。有名な嵯峨菊は嵯峨天皇の御代、大沢池の菊ヶ島に自生していた嵯峨野独特の野菊で知られる。
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以下大覚寺ホームページより。
延暦13年(794)、桓武天皇は「山背」を「山城」と改め、新都・平安京に遷都する。桓武天皇ののちに即位した平城天皇は、病身のため弟の嵯峨天皇に在位わずか3年で譲位するが、平城上皇の平城古京への復都、薬子の乱などの政変によって政局は動揺していた。
遷都から15年、大同4年(809)に即位した嵯峨天皇は、律令よりも格式を中心に政治を推し進め、ようやく平安京は安定をみる。 一方で嵯峨天皇は、都の中心より離れた葛野の地(現在の嵯峨野)をこよなく愛され、檀林皇后との成婚の新室である嵯峨院を建立、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。嵯峨天皇は、唐の新しい文化を伝えた入唐求法の僧侶たちにも深く帰依された。その代表が弘法大師空海であり特に恩寵を賜り、弘仁7年(816)には高野山開創の勅許を得、同14年(823)には東寺も下賜され、真言宗の立教開宗に至った。弘仁9年(818)の大飢饉に際して嵯峨天皇は、弘法大師の勧めにより一字三礼の誠を尽くして般若心経を浄書され、その間、檀林皇后は薬師三尊像を金泥で浄書、弘法大師は嵯峨院持仏堂五覚院で、五大明王に祈願した。このときの宸筆・般若心経は、60年に一度しか開封できない勅封心経として現在も大覚寺心経殿に奉安されている。嵯峨院が大覚寺として再出発することになったのは、貞観18年(876)です。嵯峨上皇の長女で、淳和天皇の皇后であった正子内親王が、淳和天皇第2皇子の恒寂入道親王を開山として開創した。その後、延喜年間(901〜923)になると、宇多法皇がしばしば行幸して詞宴を催すが、恒寂入道親王の後、3代定昭より20代良信までの約290年間興福寺一乗院の兼帯が続く。一乗院による兼帯後、文永5年(1268)、後嵯峨上皇が落飾して素覚と号し、第21代門跡となる。また、後宇多天皇が徳治2年(1307)に出家し法皇となり、法名を金剛性と号し大覚寺に住して第23代門跡となる。この時、皇位が皇統や所領の継承をめぐって2分され、亀山・後宇多の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住したことにより大覚寺統(南朝)と称されることとなる。法皇は大覚寺の再興に尽力され、次々と伽藍の造営に努められたので「大覚寺殿」と称され大覚寺のご中興とされる。しかし、第24代性円門跡の時代、延元元年(建武3年・1336)火を発してほとんどの堂舎を失ってしまう。
元中9年(明徳3年・1392)には南北朝媾和が大覚寺正寝殿で行なわれ、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って大覚寺に入った。しかし、和議の条件が果たされなかったため、応栄17年(1410)、後亀山上皇の吉野出奔以後、南朝の再興運動が起こり、大覚寺もこの運動に深く関わっていく。戦国時代に入り、応仁2年(1468)、応仁の乱によりほとんどの堂宇を焼失。天文3年(1534)からは東山の安井門跡蓮華光院を兼帯するが、天文5年(1536)にも木沢長政勢により放火されている。天正17年(1589)、空性を門跡に迎えた後、衰退した大覚寺の再建にとりかかり、寛永年間(1624〜44)には、ほぼ寺観が整えられた。最後の宮門跡は、江戸時代後期・天保8年(1837)に門跡に就任された有栖川宮慈性入道親王である。大正13年(1924)、第48代龍池密雄門跡が心経殿を再建。また大正天皇即位式の饗宴殿を移築し、御影堂(心経前殿)とした。
最後に、大覚寺は、いけばな発祥の花の寺であり「嵯峨御流」の総司所(家元)です。嵯峨天皇が、嵯峨院を造営した際に作庭した現存する日本最古の庭池「大沢池」の菊ヶ島に咲く野菊を手折り、器にいけ「後世、花を賞づるもの、宜しく之をもって範とすべし」と述べられたのをはじまりとする。
御室の桜は、お多福桜と云われて親しまれています。
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仁和寺(御室御所)は皇族とゆかりの深い門跡寺院です。低く咲いた八重桜の間から五重塔が聳えるシーンが映し出されます。
インスピレイション」のギター曲に合わせて、御室(おむろ)の仁和寺(真言宗)御室の桜も大映し出されます。

仁和寺や 
     足元よりぞ 
           花の雲   春泥

仁和寺の桜には特に「御室桜(おむろざくら)」の名が付いていて、約200本あり、八重咲き、樹高は低く、2mから3mほどで、「わたしゃお多福 御室の桜 鼻が低うても 人が好く」と詠われたおなじみの桜。お多福はおなじみの顔、顔の輪郭が甕(かめ)で、ほっぺとおでこが出ていてお鼻が低いので前にコケても鼻を打たない。
この鼻が低いということと、花の咲く位置が低いということで「お多福桜」という名前になっています。

樹高が低いのは、この地の岩盤が固く、深く根を張れないため、樹高が低くなっているということです。。「花(鼻)が低い」ということから「お多福桜」と言います。

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=余話B=以下サーチ【search】。
時代劇を見ているとよく「呉服太物(ふともの)」と、看板を掲げた店(たな)をよく見かけます。「呉服太物」の呉服は解るとしても太物の意味か解らなかったので、辞典を調べたら細い繊維の絹に対して言う太物。
「太物」とは、繊維の細い絹の反物に対して、綿や麻のような繊維の太い織物の反物のことを言うとなっていました。
よく調べてみました。以下、
呉服(ごふく)は、和服用の織物の呼称の一つで、特に絹織物を指す。反物の称、中国の呉の時代に織られた絹の反物で、呉織・呉服(くれはとり)と呼ばれていたが、後に音読され「ごふく」と呼ばれるようになる。
「太物(繊維の太い綿や麻の反物)」⇔呉服 (絹のような繊維の細い反物)のようです。
実は本来は古代中国にあった呉という国から伝わった織物のことを表す言葉が呉服です。しかし、呉(ご)の服(ふく)が「ごふく」と単純になったのではなく、古代は呉は「くれ」、服は「機織り(はたおり)」とし、呉服を「くれはとり」と呼んでいました。その後日本では、呉から伝わった織物の技術を「呉服(ごふく)」と呼ぶようになったので、本来は織物や織物技術、反物を指す言葉です。

・日本では江戸時代に、正絹で作った衣服(反物)を呉服と呼んでおり、呉服屋で販売されていましたが、綿で作った衣服(反物)は太物と呼ばれ、太物屋で販売されていました。後に正絹や綿、両方の衣服(反物)を販売する呉服太物屋が出てくることになり、今では「呉服屋さん」=「和服のお店」となりました。

・呉の国から日本に伝わった絹の細い糸の反物(織物)に由来し、太い糸の綿織物や麻織物を意味する太物に対し、絹織物を意味する語として使われるようになった。『世説故事苑』によれば応神天皇の時代に伝来した。
もともとは絹織物の称として綿織物、麻織物の太物(ふともの)と区別されていたが、現在では和服用の織物の総称としても使われている。江戸時代の呉服商の看板には「呉服 太物商」の表記が見られる。
もともとは絹織物の称として綿織物、麻織物の太物(ふともの)と区別されていたが、現在では和服用の織物の総称としても使われている。江戸時代の呉服商の看板には「呉服 太物商」の表記が見られる。
更にネットで調べました。
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=余話C=以下サーチ【search】。
おお そで 【大袖】とは、
@礼服(らいふく)の上衣。袖丈が長く、袖口は縫い合わせない。即位・大嘗祭(だいじょうさい)などに着用した。
A鎧(よろい)の附属具。古くは単に袖と称。横幅の等しい平らな子札(こざね)の板六,七段を縅(おど)し,これに鉄製の冠板をつける。鎧の綿上(わたがみ))に結び付け、上部に垂らして盾のかわりとした。 →壺袖・大鎧。
B「弘袖」に同じ。僧侶の正装の法衣は大袖・平安時代の十二単衣(じゅうにひとえ)も大袖です。小袖は十二一単のインナーウェアです。小袖の十二一単のインナーウェアは、安土桃山時代に桃山小袖として独立します。
C僧侶の正装の法衣や、十二単衣の大袖と、現在の小袖の着物のとはたたみ方がかなり違います。
D皇女和宮が第14代将軍徳川家茂の正室に降嫁した時の着物は、皇女だから十二単衣のような大袖?城内でも礼服(らいふく)の時は、大袖だったのでしょうか?
・お正月や成人式の晴れ着、卒業式の袴姿、納涼のゆかたなど和服を着た人の姿は、季節感を感じさせ、道で出会うとついつい注目してしまいます。和服のことを「きもの」とも呼びます。この「きもの」の原形となるのが、近世の「室町小袖(こそで)」です。
小袖は、近世染織の花形でした。
「小袖」という言葉、
「振袖(ふりそで)」というと、袖の振りの長いきものを指しますが、「小袖」は袖の短いきものを指すわけではありません。今日の「きもの」と呼ばれる衣料全般を指す言葉です。

・「小袖」とは、もともと「大袖(おおそで)」と対をなす言葉でした。平安時代以来の公家(くげ)の装束(しょうぞく)を見ても分かるように、日本の衣服の表着(おもてぎ)は、もともと袖口が大きく開いていて、袂(たもと)が袋になっていませんでした。これを「大袖」と呼ぶのに対し、その下に着るインナーウェアとしての衣服は、袖口が小さかったことから「小袖」と呼ばれるようになったのです。近世以降、袖口が大きく開いた衣服が、公家の男性など、ごく限られた場でしか用いられなくなる一方で、袖口が縫い詰められて袂が袋になった小袖が、表着として一般的になります。そして、衣料全般を指す「きるもの」=小袖形の衣服という感覚が生まれました。このことが、今日、小袖形の衣服を「きもの」と呼ぶ下地になっています。
さて、現在でも、結納(ゆいのう)のときに男性側から女性側に渡される結納金を「小袖料」と呼ぶことがあります。対して、女性側から男性側に渡すものを「袴(はかま)料」ともいいます。おそらく、「おしたく代」という意味で、結納金のことを、衣服を表す言葉で示すのでしょう。結納の「小袖料」は、「小袖」という語が一般の人々が使う言葉として今日まで命脈を保っている、わずかな例と言われます。

・留袖は元来,小袖と同義で,腕を通す部分だけを残して,袖丈いっぱいに袖付けをした袖 (付け詰め袖,脇塞〈わきふさぎ〉小袖ともいった) およびその小袖をいう。江戸時代の女性は成人すると振袖の振りを縫合せて付け詰めにしたことからこの名が起ったと考えられている。その後,帯幅が広くなり袖丈が長くなったことから,袖には振りや身八つ口 (袖付けの下部の開き) を設けるのが一般となったため,留袖の名は残ったが本来の意味を失い,単に袖丈の長短によって振袖と区別されるにすぎなくなった。現在では留袖は既婚女性の礼服の江戸褄をさすことが多い。通常は白襟黒紋付の裾模様であり,下着や小物類は白を用い,丸帯または袋帯を締める。生地は縮緬 (ちりめん) 類が多い。

・江戸時代には若年者が着用する振袖の長い袖を結婚後に短くし、身八口を縫い留める習慣があり、このような着物を柄ゆきに関わらず全て「留袖」と呼んでいた。ここから「留袖」と言う名称自体がやがて「既婚女性の礼装」と言う意味に転じていく。

・留袖は振袖をリサイクルしたものであった。

・現在「留袖」と呼ばれているのは、化政文化華やかな頃、江戸で芸者から流行が広がった江戸褄(えどづま)と呼ばれる下半身部にのみ模様の入った着物を指す。ホーマルな着物です。