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■ 49)≪境内の花≫その44≪ツワ蕗の花&ランタナ≫『忌中』と『還浄』∞[還浄運動者]vs[その反対者]との論争?∞・今考えているのは、『忌中(キチュウ)』と『還浄(ゲンジョウ)』の事2010.11.15

(画はクリックで拡大)
山門までの、石段の途中から観る。
秋の花・黄色い和花「ツワブキ」&初夏から花期の長い洋花「ランタナ≒和名はシチヘンゲ(七変化)。拾種類あり、木立性でなく、小葉のランタナ(蔓性で色が変わらない品種)のような、懸崖向きもあります。」
ここの階段のかなり下から当山の境内です。このランタナは木立性です。
毎日階段を下りたり上ったり。

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ランタナの花は、好きな花の一つです。
小さいラッパ状の花が、拾数輪寄り集まって一輪となり、花色が変化する不思議な花で、別名「シチヘンゲ」と呼ばれています。実を付けるのもあります
誰もが好きになれる花です。(但し、毒が有ると聞いたこともありますが!?)
階段傍のランタナは木立性で、色々と色が変わって、とてもきれいです。

ランタナの花で想うことは、
ランタナの花は育て易く、綺麗で花期が長く、耐寒・耐暑性もあり、花色は拾数種もあり丈夫です。
それで街路の両脇に植えて、「ランタナ通り」と名づければと、以前から思っています。ランタナという名も、エキゾチックで、耳触りいいですし!
今後奥ノ院広場に、ランタナ園を作る為に、毎年少しずつ苗を植えて、増やしていくつもりです。

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ところで、今考えているのは、
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 〓『忌中(キチュウ)』と『還浄(ゲンジョウ)』〓のこと。

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最近お葬式の後の「忌中」札に換わって、「還浄」と書いてある札によく出会います。
「還」を漢音で読めば「カン;クワン」
例=往還・還元・返還・帰還・還暦・還付・生還=
…「還」を呉音で読めば「ゲン;グェン」
例=還俗「ゲンゾク」=
…「還」を「ゲン」と読む人は、一般に少ないと思うし、「ゲン」と読む熟語も限られています。
「ゲン」と読む「還俗(げんぞく)とは、僧侶になった者が、戒律を堅持する僧侶であることを捨て、在俗 者・俗人に戻る事」です。呉音で「ゲン」と読むのは、還俗「ゲンゾク」この熟語ぐらいしか思い当たりません。
昔からの「忌中」は、
一般に「四十九日または五十日までを言います。遺族が死亡直後に祭り・世間の行事などに参加せず、忌みにこもって弔いに専心する期間」のことです。
(還浄:げんじょう)の「還:ゲン」は呉音です。漢音なら「かん:クワン」と読めます。だから私は「かんじょう」と読んでいました。するとある葬儀会館の司会者が「(げんじょう)と読むんですよ」と親切に教えて下いました。きっと「げんじょう(還浄)」と読むと、統一しているのでしよう。
げんじょう(還浄)と言うのは、ある宗旨の一部で「忌中」という用語はふさわしくないという議論から、代わりに提唱された用語のようで、最近よく見かけるものです。特に西日本で見かけます。
今でもその宗祖の本山で「・・・回大御遠忌」として、伝統的に「・・・忌」が営まれていいる筈なのに?その「御遠忌」に「忌」が付いていても、そのままでいいのでしようか?
「忌み言葉」の言い換えが(還浄)!!???
「忌み言葉」の例、
*1.四は「死」に通じるので「よ」と読む。
*2.九は「苦」に通じるので「ここのつ」と読む。
*3.梨は「無し」に通じるので「有りの実」という。
*4.「するめ」は「金を擦る・スリ」に通じるので「あたりめ」という。同じく
*5.「すり鉢」は「あたり鉢」
*6.「スリゴマ」は「あたりゴマ」・
*7.結婚式で「終わる」を(お開きにする)
*8.「死ぬ」を(亡くなる・身まかる)
*9.「塩」を(浪の花) と言うたぐい。
この様に言い換えられたものは、どのように言い換えても迷信に他なりません。単なる言い換えです。

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さて、
その宗旨の本山の公式hpには「・・・回大御遠忌」・宗祖月忌法要・御正忌等と有り、「御遠忌(ごえんき)とは、もともと、50年ごとにお勤めされる宗祖の回忌法要のことです。」とあったり、
Q&Aに「葬儀等で使っている白木のお位牌は一時的な仮りのものです。忌明けなどが終わり一段落ついたら、お寺に相談してお焚き上げしてもらいましょう。」ともあります。

尚、真言宗では(御遠忌;ごえんき)ではなくて(ごおんき)と言っています。

その本山の公式hpにある【…「・・・回大御遠(忌)」・宗祖月(忌)法要・御正(忌)等の(忌)」…また、『葬儀等で使っている白木のお位牌は一時的な仮りのものです。忌明けなどが終わり一段落ついたら、の』「(忌)明け」】など、これらの「忌」を本山が、まず改めなければ、いくら宗外で、「忌中」を「還浄」と換えてみてもちぐはぐだし、衆人を納得させられないのでは!?そのことは言葉の使い分けに他なりません。
「還浄」は、どうやら宗門の正式な用語ではないようですが、「忌中」に代わるものとして、現在同宗の本山外の一部で「還浄運動?」が行われているにすぎません。
論争の最中のようです。
還浄はまだ広辞苑には載っていません。

サーチ【search】してみると、
同宗の宗外での、「還浄運動?」vs「その反対者」論争は賑やかで、@ABCのようです。
@(還浄)でなくて(帰浄)とすべきとの意見もあるとか?
また、
A今まで通り(忌中)でいいとする意見もあるようです?
=忌中は家族が死んだ時、家人が慎んで忌みにこもる期間。よく「喪」と混同されたりもします。忌中の「忌みにこもる意」を改めるべきとの議論が出て、それが「還浄。」=
ところが今度は、
Bかわりに用いた「還浄(げんじょう)」という用語の是非が問題になっているとか!?
「還浄」とは、死んだ人が浄土にかえったという意味のようです。
「還」は意読では;かえる/めぐらす/「円を画いて元へ戻る。行ったものが元の場所へ戻る。」です。
また、
C「還浄運動者?」の中でも、「かえる」は「還」か「帰」か、どの字を使用するかの是非が議論されているようでもあります。

確かに「忌中」にも問題があるとは思います。真言宗(真言宗以外の殆んどの宗旨)では、今でも・初7日忌・・・49日忌≒(忌中)・何回忌と謂う言い方をします。
それで思うのは、
忌中の「忌」に拘らずに、
「49日または50日まで、遺族が死亡直後に世間の行事等に参加せず、(身内の死を契機に、己の心(忌)を見つめて)弔いに専心する期間のこと・近隣への告知」と、単にそう解釈すればそれでいいのだと思います。それが「忌」なのだと!?
そこで、漢字源の解字にあるように、≪忌は「心+己」で己の心中にハッと抵抗が起き、素直に受け入れないこと≫と言う意味も有るのですから!。
その解釈をとって、
身内が死んだ時、一定期間【誰もが死を、受け入れられない、平常とは違う、悲嘆と言う心の抵抗が起こる。遺族の心にうずまく、種々な感情を和らげ、新たな生活へふみ出すけじめの儀式。身内の死を受け入れ、死の意味を考え、「己が心(忌中)」を見つめ直すことが肝心なのでは・・・。】それで、今まで通り弔いに専心する。即ち「忌中」。でいいのだと思います。
個人的には、このような意味づけで好いと思います?

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「還浄運動者?」vs「その反対者」が論争するよりも、街・特に都会では、不幸があった事を知られたくない家族もいると聞きますので、最初から「忌中」札を貼り出さなければ、それで好いことだと考えたりもします。賑やかに論争するよりも、そのことの方が簡単です。
無理に「忌」に拘り、「忌中」を改めようとして、人の死を「還浄」(浄土に還る)としたとしても、今度はそれなら(人間は、本来お浄土から生まれて来たものだということが前提)になり、それが問題になるのでは?
教義がよく解らない宗外者からみれば、そのことは往生と矛盾するように思えます。

=往生の本来の意味は、仏になり悟りを開くために、仏の国に往き生まれる事・その宗旨の目的は、平たく言えば極楽浄土に往くことだと思います。=

そのことから、「浄土に還る」はそぐわないのでは?と素朴にそう思います。
今度は「往生」という言葉を換えなければならないのでは!?
「お浄土に還(かえる)とするなら、四苦八苦の現世の「穢土(エド)≒(三界六道の苦しみのある世界)」に、仏が人間を無情にも、この世に生まれさせ給うた…。」となります・・・?。
本来誰もが現世(げんぜ)は、四苦八苦の穢土だから、極楽往生を希求したのではないでしようか!?
「忌中」をいくら言い換えても、先に挙げた「忌み言葉」の言い換えのたぐいに似ており、逆に迷信扱いになるのでは?
私にとっては「還浄(げんじょう)」という言葉は、ちょっと解ったようで解らない、言い換えられた変な新語・造語!?
往生とは、現世を去って、仏の浄土に生まれることだと思います。極楽浄土に往(い)って生まれかわるから往生と謂うのでは・・・?。往生成仏・往生即涅槃という語句もあるように思います。
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浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の西方極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。「浄土門」、「浄土思想」とも。
また「阿弥陀信仰」とは、阿弥陀仏を対象とする信仰をいう。「浄土信仰」とも。
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=参考=以下、サーチ【search】してみました。
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仏教思想。
学問的に仏教思想を扱う場合に、浄土信仰を仏教とは別の宗教とみなして「浄土教」という語を使う場合もある。
阿弥陀信仰について、
日本では浄土教の流行にともない、それぞれの宗旨・宗派の教義を超越、包括した民間信仰的思想も「阿弥陀信仰」に含めることもある。
また阿弥陀仏は多くの仏教宗派で信仰され、「阿弥陀信仰」はひとつの経典に制限されない懐の広さを持つものですが、ともすれば偶像崇拝や、阿弥陀如来のみを尊び、他の仏を排する一神教的信仰思想に陥りやすい側面もある。
真言宗では阿弥陀如来を、
曼荼羅の中の仏・十三仏の中の一仏として取り入れられ、包括して信仰されています。

浄土について、
「浄土」という語は中国での認識ですが、思想的にはインドの初期大乗仏教の「仏国土」がその原義であり、多くの仏についてそれぞれの浄土が説かれている。しかし中国・日本においては、浄土教の流行にともない、浄土といえば一般に阿弥陀仏の「西方極楽浄土」をさす。

真言宗のお浄土は「弥勒のお浄土」。
私の個人的に考えるお浄土は、よく天文雑誌で見かける、極彩色に耀く銀河・星雲の群れを連想するような、大日如来(宇宙神)を中心にした仏・菩薩・諸天・善神たちの居並ぶ、大宇宙の神々しい曼荼羅の世界に行くのでは!?それが浄土世界(真言宗なので弥勒の浄土)と想像しています?!お浄土は観念なのですから・・・。
子供の頃は、死は無になることだと思い、永遠の無が無性に不安で、恐怖で堪りませんでした。今では死とは大宇宙の曼荼羅世界にワープする事と思えるようになり、不安も恐怖も無くなりました。死とはそんな宇宙の根源へ帰る。魂の故郷へ帰る事なのではと自身は考えます!!??私たちは死んでも宇宙から飛び出す事は出来ないのです。  

?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?

空海:弘法大師の即身成仏というのは、「死んで仏となるのでは無く、生きながら宇宙の根源と一体となることを目指すもの。自身が宇宙そのものであると気づくこと」です。
   
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〓以下は自分がよく試みる夢想。≒(それは宇宙旅行を3DCG(3次元コンピュータグラフィックス)で画いたような、バーチャルリアリティーの夢想・空想!)?〓
自分がロケットに乗って、地球の大気圏外に出ます。更に太陽系を離れ、銀河系をも離れ、宇宙の果てまで自身の心を拡げて、宇宙旅行をすると観念します。弥勒菩薩が現れるのは釈迦入滅後。567,000万年(或いは576,000万年)であるとされています。銀河系の中には2千億の星々があり、更に宇宙には銀河系のような星の集団が、何千億も在ると云われております。途方もない宇宙の拡がりに自身の心を遊泳させるのです。そして現実の自分に軟着陸させます。この様に空想するのが密かな私の愉しみです!? 
よく報道されている極彩色の星雲の群れを、空想・夢想し、マンダラの世界である大日如来を中心に、仏・菩薩・諸天・善神たちの中に身をおいたと連想するのです!?
『心だけでなく、最後に自分の体が、以上のように弥勒の浄土に旅立つ事(即ち死)』も同じような事と言えるかも?!そう思えば死は怖くはなくなるのでは?!
このようになって行く事が、いずれは自分の死なのではと、今頃しきりと思うようになりました。それが自分の安心(あんじん)になりつつあります。
!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!

只今書き込み中・・・

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〓境内(けいだい)とは!〓
神社・寺院・教会などの宗教施設が占有している土地のこと。神社・寺院・教会の敷地です。
境内の定義は様々で、例えば、全ての占有地を境内と呼ぶとは限らず、聖域として他から区別している敷地のみを境内と呼ぶこともある。飛地境内のことを境外地(けいがいち)と呼ぶこともある。
(法律用語)の境内地(けいだいち)とは、「宗教法人が宗教活動に用いるための土地のことである。宗教法人法によって規定されている・・・。」

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