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■ 5)私:住職は・・・〔::境内の花 その2::寺標前のアジサイ〕2008.4.29

昭和16年生まれ。  
当山の住職をする前は、他県で25年間住職をしていました。
先住さんが、お歳で再起不能になられたので、岡山県から帰関しての住職です。 
大学を卒業してから、先住さんの下で当山に居りました。 
昭和52年の春。岡山県の寺の住職としてご縁があり、下関を離れました。
下関・福仙寺での空白は四半世紀です。

趣味は作庭です。写真は平成19年秋。寄進して頂いた黒松を寺標の前にあしらったものです。 

(写真クリックで拡大)

下関に居るときから、境内の作庭は一人でしています。
作庭と言っても素人ですから、洗練されたものではなく、短歌・俳句で言えば自由律みたいなものです!? 
と言うよりも、字あまりが多いい。我流で自由自在なのです。

響灘に面した筋ヶ浜から、石をバイクで運び、昔の下馬辺りからの石段から上げていました。若い時だから出来ました。 
当時は趣のある光沢のある比重の重い石が、秘密の場所に在りましたが、今その場所は様変わりしています。 

去年秋、寄進して頂いた盆栽(写真の画:クリックすれば拡大します)が、頃合いの黒松だったので、階段上り口の寺標の前にあしらいました。処の根締に使った石が皆筋ヶ浜の石の一部です。
山門から直ぐ左へ入り小玄関までの、アプローチの左側の石の配置も、その筋ヶ浜の海の石です。

今境内にある当時のその石を抱えてみると、よく抱えたな〜。と、我ながら感心します!何せ境内まで石段が在り、車が入りませんから思うようには出来ません。
大きな石や植木等、重いものは上げられませんので、どうしてもちまちました庭になってしまいます。寺の丘には庭石になるようなものは産出しません。だから想う様に出来ません。これらの事が残念です。

桧が二本驚くほど大きくなっていました。桧を植えていたことを忘れています。
母に聞いてみると、苗を植えて岡山に行ったと言いますが、きっと小鳥の糞からの野良生えだと思います。
下関での空白を感じるひとつです。
岡山の寺は平地で、車が出入り出来たので、大石を庭に入れたりもしてみました。
そこは境内が狭かったので、思うようには出来ませんでした。 

坂の多いい港町下関は、昔からあったものを利用していくしかなく、植木は低いものを植えて、時間をかけて大きく育てる事を楽しみにするしかありません。育てる事に徹しました。前に植えた木とバランスが取れないと、大きくなった木を取り除け、山の方に植え替えたりもしています。 
利点は費用がかからない無い事です。 
ただ最初はこまごまして、バランス悪く見栄えがなく、寺内のものからは、京都のお寺の庭のように綺麗でないと言って、評判がよくありません。 
でも、今ではかなり自分なりに満足しています。参拝者の評価は?
庭園と言うよりは、植物園の懸念(きらい)があるかも!?
専門の作庭師さんのように、出来上がった植木や、名石を機械で運んで、チームで造庭するのに比べたらかないません。
常緑樹を四割:落葉広葉樹は六割の割りにしています。常緑樹を多くすると境内が暗くなるからです。

もともと当山は幕末期に、豊田町八道(トヨタチョウヤジ:天平の創建)から、長府毛利藩;客家老細川家によって、細川家の領地だった現在の所に遷されているので、境内の庭の歴史はあまりありません。遷ってから私でまだ8代目です。
 
また、庭作りを再開しております。このたびは一度、安上がりにするために、石塔屋さんの手を借り再開しました。もう齢なので剪定は、シルバーさんにお願いしています。とにかくお金をかけてない庭です。

丘の八十八ヵ所の境内は自然の雑木のままです。何年か一度に枝刈りをする程度にしています。でないと海峡が見えなくなるし、参道が薄暗くなり蚊も多くなるからです。
八十八カ所の丘は、戦前までは黒松が多くありましたが、戦時中に焼夷弾の油脂を撒かれて1本だけを残して全て枯れました。

:『余談』:
焼夷弾の事ですが、当時本堂屋根天井板は、焼夷弾が天井にひっかかり、火災にあうからと言って、天井板を突き破れと言う、馬鹿げた指令が何処からか出て、そのようにしたようです。(それって本当に有効なのでしょうか?甚だ疑問です。)お陰で天井板は、昔の立派な無垢の天井板ではなくなりました。』
豊前田町は戦災にあっていますが、当山は難を逃れております。

この市街の中にある、境内の貴重な緑は後世、大事に受け継いでゆきます。
境内には狸が数頭棲んでいます。時たま警戒心の強い親子に夕方出会うと可愛いですよ!いまだ馴れてくれません。

境内の裏庭は日陰で、庫裏の屋根まで枝を伸ばす大きな楠が在り、一年中葉を降らすので庭は作れません。特に4月の新しい葉に入れ替わる頃は積もるほどです。 
日和山は苔ののらない土質・環境です。それで裏庭の作庭は残念しております。
後住予定者は庭には全然興味ないし、そろそろこの辺で手を休めようと思っております。

この4.5年。帰関した時から、齢を感じつつも以前よりかなり改庭しました。
庭作りは本尊さんへ捧げる供養だと思っております。 
真言宗の寺の作庭は、大げさに言えば密教(真言宗)のマンダラ(宇宙・仏の世界を具現したもの)を表現し、ご本尊様・参拝者に贈る事だと自分なりに思います。
庭の中に自然を、宇宙の神秘を、世の無常を、少し悟りにも似たものを感じます。 
自分の作った庭で、仏の世界を、自ら四季の無常を、世の無常を感じるということでしょうか!? これ独り善がりの自受法楽?!

先住様は高野山では高い位でしたが、私はもうかなり前から、僧階申請をしない様にしています。 
御存命時の空海[お大師さん]の僧位を超してからは申請を止めました。 
お大師さんは、 
早い時期から僧位を辞退されておられます。(その時の上表文が残されております。) そのことを思えば恐れ多い事ですから・・・!!(当時と現在では制度がかなり違います。)
お大師さんの「弘法大師」の称号は、 
高野山入定後。延喜二十一年に醍醐天皇から、「法を広められたことを讃えられて贈られた、おくり名(謚号:しごう)なのです。」真言宗の開祖「空海」は「弘法大師」と言われて一般に親しまれています。
大師の称号を授けられたお祖師さんは、かなりおいでですが、「お大師さん」といえば「空海:弘法大師」をさします。


もう直ぐ古希の歳。そろそろ「安心立命」→「アンジン・リュウミョウ」を確立し、【 「平気で死んでいく。」 否、死ぬるのが目的でないので、「平気で生きていく」】ことを目指せればと思うようになりました。 

:広辞苑【「安心立命」=「アンジン・リュウミョウ」】とは、仏教用語で信仰によって天命を悟り。心を安らかにして少しも動じないことです。
=参考=
今日では辞書によると、「あんしん・りつめい」とも読むようですが、元々仏教用語で、本来の読みは「アンジン・リュウミョウ」」なのです。)
「心→身」「安心→安身」の字でもいいようです。「安心立命」

:広辞苑;【平気】とは、物に動じることなく困難に負けないこと。:

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