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■ 48)≪境内の花≫その43…≪ユッカ≫【宗祖;お大師さん(空海・弘法大師)のご生涯・・・修行大師のこと】〓2010.11.15

 【修行大師像前の「ユッカ:(キミガヨラン)」の花。】

修行大師像とは、
薦を背負い、頭陀袋を掛け、数珠・錫杖(しゃくじょう)を持ち、菅笠をかぶり草鞋履きで、修行されている若い頃のお大師さんのお姿。
(画はクリックで拡大)

     ┌───【修行大師像前の「ユッカ:(キミガヨラン)」の花。】───┐

以下、「ユッカ」をサーチ【search】してみました。
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「ユッカ」の種類は十種類が有り、
「先史時代、北アメリカのインディアン(アメリカ合衆国の先住民族の総称)にとって、花は食料の一つであったようです。南西テキサスの岩陰遺跡からみつかった多数の糞石(ふんせき)に、ユッカの花粉が含まれていて、なかには花粉の90%以上をユッカが占める糞石もあり、ユッカの花期に集まり、花を食べる食生活のあったことが明らかにされた。そのもっとも古い糞石は2800年前にさかのぼる。ユッカはかつて飼料にされ繊維も得たが、現在の利用は観賞栽培にほぼ限られる。」と有りました。5〜6月と10月ごろ、大きな円錐(えんすい)花序を直立して、黄白色の鐘形花を多数開く。庭園や公園によく植栽される。上向きの葉の先に針状の刺があります。
この花には毒が無く、
食料の一つであったと有りますから、2.3弁の花弁を試しに食べてみました。肉厚の花弁は水分が多いいので、サラダの彩りに使えば好いかも!煮て調理してみてもいいのでは!?
日本には交配に必要な“ユッカ(蛾)”という昆虫が、いないために受粉せずに果実を見ることは出来ないそうです。
  
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昔の「下馬」辺りから、
本堂や諸堂・日和山八十八ヵ所・奥の院へお参りする最初の階段のおどり場。其処から迎え下さるように佇まれる修業姿のお大師さん。
まさに、御修行されている若き日(空海)の尊いお姿です。お大師さん≠ヘ、二十歳前に、すでに都会を離れて自然の中で修行することを好まれ、また人々に救いの手を差し伸べながら、四国や紀伊の野山を渡り歩かれたお方です。この像はそのお姿です。
またのちに、真言宗を開かれてからも、都から離れて、人里離れた高野山に置かれ、都会の煩わしさを遠ざけ、仏道修行に専念されて行きます。
のち醍醐天皇から、
最初は、「本覚大師」と言う大師号が贈られることになっていたようですが、「弘法利生(こうぼうりしょう)」の業績から、「弘法大師」の(おくり名・諡号)が贈られることになったそうです。

ユッカの花の向こうは、修行大師像。
修行大師は、
言うまでもなく弘法大師空海、お大師さん≠フ、まさに御修行されている、その尊いお姿です。お大師さん≠ヘ、二十歳を前に、すでに都会を離れて自然の中で修行することを好み、また人々に救いの手を差し伸べながら、四国や紀伊の野山を渡り歩かれた方でした。またのちに真言宗を開かれてからも、常にその身を人里離れた高野山に置かれたのは、やはり都会の煩わしさを遠ざけ仏道修行に専念しようとする心の現れであったことでしょう。

以下、サーチ【search】したことです。
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空海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。「弘法大師(こうぼうだいし)」の名(諡号〈醍醐天皇、921年贈〉)で著名な真言宗の開祖。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお、〈まなとも〉)。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国大陸より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。


延暦12年(793年)、
大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入られる。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著して俗世の教えが真実でないことを示した(「聾瞽指帰」は、後に序文と巻末の十韻詩を改定、『三教指帰』(さんごうしいき)と改題されている)。この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく断片的で不明な点が多いようです。しかし吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学ばれました。『大日経』を初めとする密教経典に出会っられたのもこの頃です。さらに中国語や梵字・悉曇などにも堪能でした。

ところでこの時期、或る沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かられる。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修ましたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟(みくろど)で修行をされている時、口に明星が飛び込んできたと記されています。このときお大師さんは悟りを開れました。当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中でお大師さんが目にされたものは、「空」と「海」だけであったため、「空海」と名乗られました。

お大師さんの得度に関しては、延暦12年(793年)に、20歳にして勤操を師とし和泉国槇尾山寺で出家したという説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていたが、現在では、延暦23年(804年)、入唐直前31歳の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではない。無空や教海と名乗った時期があります。

入唐求法
延暦23年(804年)、
正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡られる。入唐(にっとう)直前まで一私度僧であったお大師さんが突然留学僧として浮上する過程は、今日なお謎だそうです。

第16次(20回説では18次)遣唐使一行には、最澄や後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。

同年5月12日、難波津を出航、博多を経由し7月6日、肥前国松浦郡田浦から入唐の途につかれ、空海が乗船したのは遣唐大使の乗る第1船、最澄は第2船である。この入唐船団の第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった。

お大師さんの乗られた船は、途中で嵐にあい、大きく航路を逸れて貞元20年(延暦23年、804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、お大師さんが福州の長官へ嘆願書を代筆されました。同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安に入られる。

永貞元年(延暦24年、805年)2月、西明寺に入り滞在される。

長安でお大師さんが師事れれたのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられています。お大師さんはこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられ学ばれます。

5月になるとお大師さんは、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。

8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このときお大師さんは、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。

8月中旬以降になると、
大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信でです。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点ある。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。

同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。元和元年(延暦25年、806年)1月17日、お大師さんは全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草される。

そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集。8月に明州を出航して、帰国の途についた。

途中暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開宗し、以来、大宝寺を西の高野山というようになった。福江に本尊虚空菩薩を安置してあると知った空海は参籠、満願の朝に明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修業し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じられ、寺の名を明星院と名づけたといいます。

虚しく往きて実ちて帰る
「虚しく往きて実ちて帰る」というお大師さんの言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐したお大師さんの成果がいかに大きなものであったかを如実に示しています。

大同元年(806年)10月、
お大師さんは無事帰国し、大宰府に滞在する。日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。

お大師さんは、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。お大師さんが唐からが持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられています。「未だ学ばざるを学び、〜聞かざるを聞く」(『請来目録』)、お大師さんが請来したのは密教を含めた最新の文化体系であったようです。

お大師さんは、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国されため、当時の規定ではそれは闕期(けつご)の罪にあたるとされた。そのためかどうかは定かではないようですが、大同元年(806年)10月の帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされ、大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住しています。この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていたようです。

真言密教の確立
大同4年(809年)、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位した。お大師さんは、まず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入られる。

最澄・空海のお二人は10年程交流関係を持った。密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていた。しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には訣別するに至る。二人の訣別に関しては、古くから最澄からの理趣釈経(「理趣経」の注釈書)の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題がおこります。

弘仁2年(811年)から弘仁3年(812年)にかけて乙訓寺の別当を務められる。

弘仁3年(812年)11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇。入壇者には、最澄も含まれていた。さらに12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼった。

弘仁6年(815年)春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩(基徳の誤記か?)などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼した。時を同じくして西国筑紫へも勧進をおこなわれる。この頃『弁顕密二教論』を著している。

弘仁7年(816年)6月19日、修禅の道場として高野山の下賜を請い、7月8日には、高野山を下賜する旨勅許を賜る。翌弘仁8年(817年)、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手し、弘仁9年(818年)11月には、お大師さん自身が勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞在され、弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手される。

この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続けに執筆。

弘仁12年(821年)、満濃池(まんのういけ、現在の香川県にある日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。

弘仁13年(822年)、太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。この年平城上皇に潅頂を授けた。

弘仁14年(823年)正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになる。東寺は教王護国寺の名を合わせ持つが、この名称が用いられるようになるのは鎌倉時代になってからである。

天長元年(824年)2月、勅により神泉苑で祈雨法を修す。3月には少僧都に任命され、僧綱入り(天長4年には大僧都)。6月に造東寺別当。9月には高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となった。


描かれたその肖像天長5年(828年)には『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であった。綜芸種智院の名に表されるように、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関でもある。『綜藝種智院式并序』において「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定んで道にあり」と、学校の存続が運営に携わる人の命運に左右される不安定なものであることを認めたうえで、「一人恩を降し、三公力をあわせ、諸氏の英貴諸宗の大徳、我と志を同じうせば、百世継ぐを成さん」と、天皇、大臣諸侯や仏教諸宗の支持・協力のもとに運営することで恒久的な存続を図る方針を示している。ただし、これは実現しなかったらしく、綜芸種智院は空海入滅後10年ほどで廃絶した。現在は種智院大学がその流れを受け継いでいる。

天長7年(830年)、淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻、『秘蔵宝鑰』三巻を著した。

天長8年(831年)5月末、病(悪瘡といわれている)を得て、6月大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留された。

天長9年(832年)8月22日、高野山において最初の万燈万華会が修された。お大師さんは、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表される。その後、秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられていいます。

承和元年(834年)2月、東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた。12月19日、毎年正月宮中において真言の修法(後七日御修法)を行いたい旨を奏上。同29日に太政官符で許可され、同24日の太政官符では東寺に三綱を置くことが許されている。

承和2年(835年)、1月8日より宮中で後七日御修法を修す。宮中での御修法はこれより明治になるまで続き、明治以後は東寺に場所を移して今も行われている。1月22日には、真言宗の年分度者3人を申請して許可されている。2月30日、金剛峯寺が定額寺となった。3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に入定。享年62(満60歳没)。


旧宅跡に建つ弘法大師像(善通寺西院)延喜21年(921年)10月27日、東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られた。

最初は「本覚大師」の諡号が贈られることになっていたが、「弘法利生(こうぼうりしょう)」の業績から、「弘法大師」の諡号が贈られることになった。

弘法大師は「空海」を越え、千年の時を越え、普遍化したイメージでもある。歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名におよぶが、一般的に大師といえばほとんどの場合弘法大師を指す。空海を知らなくても「弘法さん」「お大師さん」を知る人は多いと言えるだろう。

真言宗では、宗祖空海を「大師」と崇敬し、その入定を死ではなく禅定に入っているものとする。高野山奥の院御廟で空海は今も生き続けていると信じ、「南無大師遍照金剛」の称呼によって宗祖への崇敬を確認するのである。
故郷である四国において山岳修行時代に遍歴した霊跡は、四国八十八箇所に代表されるような霊場として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている。

入定に関する諸説 [編集]
高野山奥の院の霊廟には現在もお大師さんが禅定を続けて居られるいます。奥の院の維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。

現存する資料で空海の入定に関する初出のものは、入寂後100年以上を経た康保5年(968年)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。『今昔物語』には高野山が東寺との争いで一時荒廃していた時期、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたという。観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。


=参考;以下 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼サーチ【search】してみました。=

・ネイティブ・アメリカンは砂漠に育成する原産主のユッカの花びらや種の莢、果実、若葉、根などを食用もしくはハーブ茶、煎じ薬として用いて、伝染病・関節炎・神経症・むくみなどの霊薬と呼んでいたが、この事実が日本に伝えられたのは総遠いことではない。アメリカではGRAS物質(古来用いられて安全性が確認されたもの)として認められ、香辛料及び栄養剤として永らく利用されてきています。

・このユッカには、植物学者が高濃度にサポニンが含まれていることを見出して以来、ユッカのエキスを用いた臨床研究が進み、上気の疫病のほかリューマチ、痛風、高血圧、高脂血症などに特に有効であることが確認され、それが主成分サポニン(ステロイド系ホルモン前躯体物質)によるものであることが明らかにされました。ユッカには食物繊維も豊富なところからサポニンとの総合効果を求めて木部を加熱処理して粉末にした自然食品も供給されているそうです。

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