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≪:中秋の名月:≫
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<: 画は 秋の夜の【関門海峡と関門橋】そして【ゆめタワーと満月】の絶景 :> 『月つきに 月見る月は多けれど 月見る月は この月の月』・・・ 古歌;詠み人 不詳 (画はクリック拡大。)
この日は皓々たる月夜でした。 水平に刷毛ではいたような薄いスジ雲が、山際に少し棚引き、凪いだ海峡の海面は漆黒で月の真下は、【※.】金波銀波のさゞ波に美しく耀いていました。 【※.】金波銀波の“金波”とは、 月光・落日に映っ て金色に見える波。「銀波金波(ぎん ぱきんぱ)」ともいいます。 「銀波」も、月光・落日に映って銀色に見える波。“銀波”は月光・落日に映っ て金色に見えると言われますが、日中の太陽の下のさざ波でも、銀波に輝くいているのを観た経験があります。 ・・‥‥…━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━…‥‥・・ =余話=【※.】バナナの叩き売りの口上には「金波銀波の波越えて・・・」が有名です。 「バナナの叩き売りの発祥の地は、九州の門司です。神戸港に陸揚げされるものが、熟れすぎて売り物にならないというので、門司におろし、そこで叩き売りしたのが発祥といわれています。」 その口上(こうじょう)の一部、「さあ 買うた、さあ買うた、バナちゃんの因縁聞かそうか。私の生まれは台湾で、親子もろとももぎとられ、かごに詰められ船に乗り、金波銀波の波越えて、着いたところが門司港。さあいくらで売ったろか。・・・」 ・・‥‥…━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━…‥‥・・ 「月の光の道が、天橋立のように、対岸門司港まで渡っていて幻想的でしたよ!。 初め関門橋の辺りから昇る名月を、撮ろうと思いましたが、 まだ関門橋のイルミネーションが点灯してなかったので、点るまで待っていたら、高く昇り過ぎてしまいました。 ・・‥‥…━・━・━ 「海峡ゆめタワー・関門橋・関門海峡を、この高さ・方向・角度で写した画。」は今まで出回っていなかったと思います。最近建った山口県で一番の高層マンション・ベルタワーが出来るまでは!?!。知人に入れてもらって、最上階の22階の東非常階段から撮ったものです。 そこから、 好きな西行法師の歌をいろいろ思い浮べました。そして簡単に『月輪観(がちりんかん)』を修しました。 (月輪観のことは、以下記しています。)
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<〓 好きな歌(西行法師) 〓> 『 影さえて まことに月の あかき夜は 心もそらに うかびてぞすむ 』 <月の光の冴えわたった明るい夜は、心も空に住むかのようになり、 月が澄むごとく、自分の心も澄みわたることであるよ!。>
“すむ”とは、 “月が澄む。”“心も澄む。”“心も空に住む。”で掛詞。 ≪西行の心には清浄な(月)が宿る。そして月と一体になって行く旅がある。≫・当に西行?!!!?。 西行の名は、「平安時代に盛んになった浄土思想の西方浄土に行くことに憧れて付けた」と云われています。 以下の歌もあります。 『山の端に 隠るる月を 眺むれば われと心の 西に入るかな』 訳せば、(西の山の端に沈んで隠れていく、月を眺めていれば、自ずと自分の心も西方の極楽浄土に、引き入れられていくことだ。)となる。 さらに更に、 『西へ行く 月をやよそに 思ふらむ 心にいらぬ 人のためには』 それを意訳すると、 <阿弥陀如来を信じて修行すれば、誰でもたやすく西方浄土に行けるのに、実際は信心せず、修行もしないので浄土に行く者は少ない。> となり、的もに「西に行く」という言葉を使っています。 【西へ行く月≒西行自身≒佐藤義清(出家前の名前)】 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「花と月の歌人」と評された西行は、平安時代の真言宗の僧侶だったのです。(高野山内にも住んでいました。多くは漂泊した歌人:高野聖?。)月を愛でて詠った歌が多いのは、真言宗の修行に〔月輪観・阿字観と言う瞑想法〕があるからでしようか?。
高野山【月】の西行:奈良吉野山【桜】の西行なのです。 〈 〓 もう一つ好きな歌があります 〓 〉 『 ゆくへなく 月に 心のすみすみて 果てはいかにか ならんとすらん 』 <どこまでも、月を見ているうちに心が澄んでいき、 ついには私の心は、どうなってしまうというのだろう!。> 西行にとって「澄んだ月の光」は、 恍惚を伴う覚りへのプロローグなのでしよう・・・!!!。 自らの悟りの心境を、月に喩えたのでは!?。それは即身成仏(阿字の世界)に入った境地なのだと思います!。
最期には究極の、 〓「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」〓 実際に桜の時節、しかも望月:満月の頃に死んだんだと言われます。 =(願いが叶うならば、何とか桜の下で春に死にたいものだ。しかも草木の萌え出ずる如月(陰暦二月)の満月の頃がいい。)=という、辞世の歌を残した西行は、実際にその頃に死んだとい言います。そんな「桜」と「月」に囲まれて、実際に死ねたのは本望であり、その事が西行にとっては、究極の望み≒即身成仏の完成だったかもしれません!?。「月」を多く詠んでいます。 月は、自らの悟った宗教心の象徴なのだと思います!。
〓この「西行」に憧れたのが、長州の勤皇の志士:高杉晋作です。〓 晋作の自分の号は、最初「暢夫」でしたが、後『東行』としたぐらいです。 <東行⇔西行とは反対に、東に向かって倒幕に行く?!。> 高杉晋作の歌=「西へ行く人を慕うて東行く 我が心をば神や知るらむ」 ここでいう西へ行く人とは、他ならぬ西行のことです。 西行に敬意を払いつつ、晋作自身の心は、 「東にある将軍、江戸幕府討伐を目指す。」そのことを、神に誓った決意なのでしよう。
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真言宗の瞑想法に【月輪観(がちりんかん;がちりんくわん)】と言うのがあります。 一口で言えば月輪観は、 真言宗のの代表的瞑想法で、阿字本不生(あじほんぷしよう)を観ずるもの。一般には蓮華と月輪(がちりん)に阿字()を描いた画の前に座り、蓮華や月輪と自分が一体となり、そこに阿字を生じせしめる瞑想法。 自然の中で、天空の満月を観想してもいいと思います。 中秋の満月のように、欠けることなく、真ん丸で澄みきっていて、清らかで明るく光り輝いている「満月:月輪」を自分の心中に描き観じて、次に阿()字を観想する阿字観瞑想に移行させてゆく修行法(瞑想法)です。 阿字は、梵語(ぼんご)字母の第一になります。 真言宗ではこの字に特殊な意義を認め、宇宙万有を含むと説きます。 「阿字観(あじかん)とは、真言密教の瞑想法の一つです。瞑想により「宇宙と自分はひとつである」ことを実感する修行です。 真言宗の根本教義の一、阿字は宇宙の根源であり、本来不生不滅。すなわち永遠に存在するということ、この真理を体得する時。人は大日如来と一体化すると説かれる。 *********************************************************************** ところで、「中秋」・「仲秋」と書く場合があるので、区別を調べてみました。 「仲秋の名月」という表記もあるが、これだと「旧暦8月の月」を意味し、十五夜の月に限定されなくなる。 「仲秋」とは秋を初秋(旧暦7月)・仲秋(同8月)・晩秋(同9月)の3つに区分したときの言葉で、旧暦8月の全体を指すのに対し、「中秋」はそれだけで旧暦8月15日という特定の日付を指すようです。だから本来の漢字は、仲でなく中 が正しいようです。 しかし広辞苑を引いたら、現在どちらの漢字を使ってもいいとありました。 ===================================== :最初に書いたように、真言宗に【月輪観】と言う禅宗の座禅に似た瞑想法があります。: その事を以下、▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼説明します。 〓【月輪観】の瞑想法には、正式な作法があります。〓 が、 言葉で簡単に言えば、月輪(満月)を思い浮かべて、呼吸は浅くなく、深くなく、何より大切なのは意識して、宇宙に満ちた力を吸い込み、体内の汚れを押し出すがごとく、そして息が苦しくならないよう大事に呼吸する。呼吸が落ちついたらそれを維持しながら瞑想に入る事です。 その方法は、 第一の段階は月輪を心に留め置き、目を閉じていても、見えるかのごとくになるまで意識を集中する。 その一段階がうまくいったら、 第2段階の広観へ移る。広観は目を閉じても見えるように、強く意識を集中させた月輪を自分の心の中に引き寄せる。さらに精神中に引き寄せた月輪を立体の白い淡い光を放つ球に変化させ、この球をどんどん大きくしてゆきます。自分の体の大きさに、そして家の大きさ、町の大きさ、地球の大きさ、最後に宇宙全体を覆うぐらいの大きさの球になるようにイマジネーションを膨らませて、月輪を広げて宇宙と一体になって行くのです。 次の段階は、 広観を何度も修することによって、意識を限界まで広げる事が可能になるのです。広観に成功したならば、 次に、 第三段階の斂観を行う。 斂観とは広観を行い、極限まで拡大した月輪を少しの間維持する。 月輪を安定した状態で維持させることができたら、次にこの月輪を、徐々に小さくして最初の大きさに戻していくのです。広観と斂観によって月輪観の基礎【月輪観】を終了します。 次に進むのが、阿字観と言う瞑想法です。先程の月輪の中に、蓮華の花の上に梵字の阿()が画かれているものを瞑想します 此の『阿()』は、密教(真言宗)の御本尊の大日如来を表しています。 『阿()』字のことを、誰にでもわかりやすく言えば、大日如来(宇宙神≒大宇宙)なのです。『宇宙と自分自身が一つになる』と観じるように瞑想します。 これが阿字観です。 これらの【月輪観】;【阿字観】の前に入る準備段階の瞑想法に、【阿息観】というのもあります。その【阿息観】は出たり入ったりする息に「阿」の真言を感じる瞑想法です。 この阿息観は真言僧侶が、臨終の時に行うものとして相伝されているものでもあります。 さらにこれらの初期段階に、比較的簡単な数息観(すそくかん)と呼ばれる呼吸を観じる瞑想法があります。 これは呼吸に意識を集中することによって、精神を安定させる瞑想法であり、一般のヨーガや禅宗の座禅とあまり変わることははありません。 ************************************* ||||||||||||||||||||||||||||||||||||| 「禅宗の座禅」と「真言禅:月輪観・阿字観」との大きな違いは、 真言宗の【月輪観・阿字観(真言禅≒密教禅)】は、満月をイメージする瞑想法です。禅宗の座禅の瞑想法は、何のイメージを持たず、何も考えないで無となり、無心無想となることが大きく異なっています。 (禅宗の禅⇔真言禅:密教禅)
≪分け入ればやがてさとりぞあらはるる月のかげしく雪の白山≫ =西行『聞書集』=
|||||||||||||||||||||||||||||||||||| ************************************ 以下 辞書・事典・高野山資料より 「西行は鳥羽上皇に仕えた、官位のあった北面の武士(上級武士)。 無常を感じて23歳の時出家し(動機は諸説ある)、高野山で修行するようになる。その後、自然と宗教的境地と一致した自由な歌を詠んだことで知られ、新古今和歌集に94首の最多歌数採録される。平安時代から鎌倉時代(1118−1190)の漂泊の歌人であり、諸国を遊行(ゆぎょう)する高野聖であったとも謂われる。花と月を愛でた著名な歌詠み人:歌僧 歌集に山家集(さんがしゅう)がある。 漂泊の歌人と称され、生涯を旅の中に送った。西行の生きた時代は、平安から鎌倉への動乱期。まさに平家の台頭から源平の争乱期に当たる。その中で彼は世の無常を感じつつ、自然と仏法とに心を寄せ、自由な心でその研ぎ澄まされた歌風を造り上げたとされる。」 西行が後世に与えた影響は、後鳥羽院(中世屈指の歌人)をはじめとして、宗祇・芭蕉のようです。 それは、 西行の和歌;宗祇(そうぎ)の連歌;芭蕉の俳句に繋がって行くものなのです。
西行の辞世の歌と言われて、多くの人が知る。 〓「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」〓で古来有名 実際に桜の時節(望月:満月の頃)に死んだんだと言われます(辞世の歌を詠んだ歳と 死んだ実際の歳は違います)
〇〓(願いが叶うならば、何とか桜の下で春に死にたいものだ。しかも草木の萌え出ずる如月の望月(陰暦二月十五日;釈迦入滅の時期。:満月の頃がいい)〓という (辞世の歌)と言うより“願望”を残しました。 と言っても、実際の死の歳と、歌を読んだ時期は違うようです。
西行は奥吉野の金峯神社の近くに庵を結んで、三年位桜の園の中に埋もれるように暮らしたとも言われます。西行庵が在ったその辺りは、桜の名所の吉野でも一番最後に、桜が開花する場所のようです。
この歌(桜と望月)の他に、桜と月を同時に歌ったものがあります。 山家集 に ○ 〓雪と見てかげに桜の乱るれば 花の笠着る春の夜の月 〓 ≪雪が降っているのかと思ってみれば、夜桜が風に吹かれて舞っている。桜の彼方には、春の月が花の笠を着ているように見えた。≫というのも有ります。 他に、 〇 〓ひきかへてはなみる春はよるはなく 月見るあきはひるなからなむ〓 (桜の花を見る春には夜がなく、月を見る秋には昼がなければよいのに、という実現不可能な願望を詠む。)「桜も月も、日がな一日中見たい。」と言うのです!!。さすがに、「花と月の歌人」と評された西行ですね!!。 更に、 〇 〓花ちらで月はくもらぬよなりせば 物をおもはぬわが身ならまし〓 (花が散らず、月が曇らない世の中であれば、思い悩むこともない我身であったろう。) と嘆いています。 花も月も西行を魅了して止まなかったのです。 以上のように、西行にとって花(桜)と月は、特別な意味を持つものです。 そんな「桜」と「月」に囲まれて、先の辞世の歌のように、実際に死ねたのは本懐だったでしよう!。
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高野山に三昧堂と言うのがあります。 このお堂を修復したのが、西行法師だと伝えられていて、三昧堂の前の桜は、西行法師手植えの桜。「西行桜」と呼ばれていています。自身がこのお堂を修造した記念に植えられたそうで、この三昧堂は西行の修行道場であり高野山での住居だと言われています。 西行は32歳のころから、約30年間高野山に住んでいたようで、住むというより高野山の庵を基点にして、あちこち旅をする(遊行僧≒高野聖?)していたのでしよう。 高野山伽藍のそのお堂の前に『西行法師が大会堂(三昧堂)建立の奉行として、登山された折に植えられた桜』と言う表示があります。西行には「西住」と言う弟子(歌僧)がいたそうです。 西行の歌集「山家集」に次の歌が載っております。高野山の歌も沢山歌集に載っております。その一つ、 〔高野にこもりたりけるころ 草のいほりに花のちりつみければ〕と言う詞書(ことばがき)が添えられている。 「ちる花の いほりのほうへ ふくならば かぜいるまじく めぐりかこはん」 =〜=〜=〜=〜=〜=〜=〜=〜=〜=〜=〜=〜=〜=〜=〜=〜=〜=〜= 亦、 〔美福門院の御骨 高野の菩提心院へわたされけるを見たてまつりて〕と題して、 「今日や君 おほふ五つの雲はれて 心の月をみがき出づらむ」 と詠んでいます。
以下、▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼ ▼少し美福門院の事を・・・。 *=*=*=*=*美福門院(びふくもんいん)*=*=*=*=* 1117年から1160年 11月23日没 44歳 藤原長実の娘得子として知られる。 (得子は、なりこ・とくこ・とくしとも読むようです。) その美福門院の遺言により(永暦元年:1160)その年の12月に遺骨は、高野山の菩提心院に納められました。この遺骨の移送の時 西行は高野山で、美福門院の遺骨を迎えたことになります。この日高野山は、大雪に見舞われていたとも伝わっております。美福門院の遺骨を納めるために、遺骨を首に掛けて馬に乗り(その姿は高野風土記の挿絵で見ました)高野に登って来たのは備後守時通と言われておるので、それを西行が迎えたと言うことになります。
鳥羽天皇の菩提の為に、美福門院は高野山に六角経堂(荒川堂)を建立し、紺紙に金字で書かれた平安後期写経:重文の「一切経:五千巻」の「荒川経」を納めています。
高野山納骨の時の歌。 『今日や君おほふ五つの雲はれて 心の月をみがき出づらむ』とは <雪に覆われて月耀く納骨の日に、一般女人の持つ五障の雲が晴れて、菩提(悟り)を得られるだろうというのが歌意。:(五つの雲とは五障の事)それは≒五善根の障りとなる、欺・怠・瞋(しん)・恨・怨(おん)のこと。そのような五つつの障りが、清浄な月の如く、無くなった美福門院のことを詠んでいます。> 得子は弘法大師に帰依厚く、天皇崩御の後、高野山を遥拝出来る紀ノ川(荒川荘)に尼僧寺を建てて鳥羽院の菩提を祈ります。 美福門院得子死後、高野山に納骨を遺言しますが、当時は厳格な女人禁制で、美福門院と言えども女性の遺骨と言うことで、中々すんなりとは行かなかったようです。 そんな事やいろんなことがあり、ようやく納骨が叶えられたので、西行が喜んで出迎え 「今日や君・・・・」の歌を詠んだのでは!?。
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西行の「山家集(サンガ集)」に『八葉白蓮一肘間の心を』と題して、次のような歌もあります。 『雲おおふ ふたかみ山の月かげは 心にすむやみるにはあるらむ』
「二上山の上にかかる月の光は、雲に覆われてみる事が出来ないが、その代わり、心に澄み切った月が住まっているのを、観ることになるのであろう!。」
詞書(ことばがき)の『八葉白蓮一肘間』(はちようのびゃくれんいっちゅうのかん)とは、 真言宗所依の経典の一つ『菩提心論』「著書・龍樹」の中に、 『八葉の白蓮一肘の間 阿字素光の色を炳現 (炳≒明るく照り映えること) 禅智倶に金剛縛に入 如来の寂静地を召入』とあるものです 読みは、 「 はちようのびゃくれんいっちゅうのかんに あじそこうのしきをへいげんす ぜんちともにこんごうばくにいれて にょらいのじゃくじょうちをしょうにゅうす」 : この意味は、▽▽▽▽▽ : 八つの花びらを持つ白い蓮華の上に、一肘間の大きさの月輪を置いて、 (一肘=いっちゅうとは人の手のひじの長さ) その月の輪の中に、阿字(梵字の)を画き、外縛印を結んび、両方の親指をその中に入れる印を結んび禅定に入り、行者はその阿字()を眺めながら、仏のさとりの智慧を自らの心に招きいれると言う。すなわち阿字を観想し、如来の悟りの知恵を自身の心に召しいれると観想すること。となります そのような修行をする事により、たちまち悟りの境地が開かれる事が解かれています。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 阿字()とは密教の根本教義のひとつで、阿字は大宇宙の根源を表し、本来不生不滅 すなわち永遠に存在するということ、この真理を体得する時、人は大日如来と一体化すると説く教えです。それを修法する手立てになるのが【月輪観・阿字観(真言禅)】なのです。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 西行は、一見夜空に浮かんだ月をただ単に、詠んだように見えますが、実は『菩提心論』の中で説かれている「月輪観」の修法を収得し、深めた結果の歌なのです。 真言密教の瞑想方法を西行は、繰り返し修法し、西行なりの悟りの世界に到達した。その到達点を歌によって表現したというのが、西行の歌なのでしょう。
だから最初に紹介したように、
『 ゆくへなく 月に 心のすみすみて 果てはいかにか ならんとすらん 』
と言うような、恍惚に近い境地の歌が読めたのでしょう!!か?。 西行にとって、月は悟りへの心境のプロローグなのです。 ====================================== 以下、▽ ▽ ▽ ▽ ▽落語の話。 (頭を休めましようか!。) 〓落語の中の「西行とタンポポ」〓
西行が旅の途中であばらやに宿をとり、近くの滝を 『伝え聞く 鼓ヶ滝へ来てみれば 沢辺に咲きし たんぽぽの花』 と詠んだ。 すると爺さんが、鼓とたんぽぽは(タンポポの名前の起源からの縁語)なので「伝え聞く」よりも「音に聞く」の方が良いと手直しをする。続いて婆さんが「来てみれば」を同じ理由で「打ち見れば」に、さらに孫娘が「沢辺」を鼓の皮に掛けて「川辺」に直す。 『音に聞く鼓ヶ滝を打ちみれば川辺に咲きしたんぽぽの花』 という秀句に生まれ変わった。 西行がハッと気がつくと、これが夢であった。 そのことから、さては和歌三神の(住吉大明神・人丸大明神・玉津島明神)が自分の慢心を戒めたのであろうと考え、更に修行に励むのだった』と言う落語があるそうです。
“参考” 西行の無常・哀傷歌。
七月十五夜 月明かりけるに 船岡にまかりて 「いかでわれ 今宵の月を身にそへて 死出の山路の 人を照らさむ」 (何とかして、私は今宵のこの明るい月を身に添えて、死出の山路に旅立つ人々の闇を照らしたい。)
月前述懐「山家集」 「月を見て いづれの年の秋までか この世にわれが 契りあるらむ」 (月をながめつつ思う。いつの年の秋までか、このように月をながめて過ごすことができるのだろう。この世にいるのがいつまでと、定まっているのでろうか?。 美しい月をながめていられるのも限りある。)
西行には、西住という終生の友がいました。西行と同じく、鳥羽院の北面武士で出家する。その西住は、西行よりも早くに没することになる。 下記の詞書にある上人とは、この西住をさす。また詞書の「例ならぬ事」とは、病気をさし、 (大事に侍りける)とは、危篤になったという意味。 同行に侍りける上人 例ならぬ事大事に侍りけるに 月のあかくてあはれなりければよみける 「もろともに ながめながめて 秋の月 ひとりにならむことぞ かなしき」 (今までいつも共に、眺めてきた秋の月であったが、その君がもし、いなくなったら これからはひとりで眺めなければならない。そのことがたまらなくかなしい。) 他に、 「いつかわれこの世の空を隔たらむあはれあはれと月におもひて」
「風さそふ花の行方は知らねども惜しむ心は身にとまりけり」
・・・「いかでわれ清く曇らぬ身になりて 心の月の影にみがかん」・・・
・・・「澄むといいし 心の月し現れば この世の闇のはれざらめやも」・・・
「闇はれて 心の空に すむ月は 西の山べや 近くなるらむ」 「迷いの闇もすっかり晴れて、空に澄む月は、そろそろ西の山の端に届く頃であろうか、わが心もようやく迷いから晴れて、西方浄土に往生するのも近いことであろう。」
月を愛でた室町将軍がいます。 室町幕府8代将軍足利義政は隠居の為に、山荘「銀閣寺」を造ったことで知られます。最近の調査ではこの銀閣寺は月を観賞する為に建立されたようです。 以前は銀白が貼られていたとか、そうではなかったとかいろいろ謂われていましたが、保存修理の為の最近の調査では、黒漆の上に(銀白色に見える明礬)をかけていたようだと言われるようになりました。
西行:古希の時に、 ≪たけ馬をつえにもけふは頼哉(たのむかな)わらはあそびをおもいでつつ≫ 西行が老いの嘆きと、幼い頃の懐かしさを詠み、感慨に浸った歌。
余話= 中秋の名月は、必ず<仏滅>だそうです。 仏滅は六曜の一つです。この六曜は旧暦の日付によって自動的に決まります。旧暦の月と日をたして6で割り、割り切れれば大安、余りが1なら赤口、2なら先勝、3なら友引、4は先負、5なら仏滅です。したがって旧暦8月15日は、8と15を足して23.それを6で割ると余りが5ですから<仏滅>ということになるようです。
月の歌
「月見ばと契りおきてしふるさとの ひともやこよひ袖ぬらすらむ 」
「ともすれば月澄む空にあくがるる 心のはてを知るよしもがな」
「あはれとも 見る人あらば 思ひなん 月のおもてに やどる心は」 「おもかげの 忘らるまじき 別れかな 名残の人の 月にとどめて」
「弓はりの月にはづれて見しかげのやさしかりしはいつか忘れむ」
・・・「いかでわれ清く曇らぬ身になりて 心の月の影にみがかん」 ・・・「澄むといいし 心の月し現れば この世の闇のはれざらめやも」 『新後撰和歌集』に、 心月輪の心を いさぎよく 月は心に すむものと しるこそやみの はるるなりけれ 『新拾遺和歌集』には、 心月輪の心を 身をさらぬ 心の月の わくらばに 住むぞ悟りの はじめなりける 『続拾遺和歌集』には、 心月輪のこころをよみて心海上人につかはしける 胸のうちの 曇らぬ月に うつしてぞ 深きみのりを 心とは知る
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