写真は元当山と明治に合併した。(長門二宮)忌ノ宮(いみのみや)別当『神宮寺』があった辺りです。
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古文書の地図を見ると、神宮寺は写真の鳥居に向かって、手前丁字路角左、今は骨董店がある所です。(神宮寺の隣が宮司さんの居る宮司坊でした。)現在マンションがある処辺りまでが寺域でした。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
神仏習合の時代は、【神宮寺】がお宮を含め、全ての実権を握っておりました。現存する当時の行事の古文書を見れば分かります。 明治政府の神仏分離令により、神宮寺は廃寺になり、当山と合併になります。 忌ノ宮は現在地に残り。神宮寺のご本尊・諸仏・什物は 馬車十数台で運び、当山に残したと言われています。 その時に神話で有名な「満珠・干珠」にまつわる、金銀の珠が当山に来たのです。その珠を先住さんは小僧さんの頃に目にしておられます。 その後当山に来て、失われておりますが・・・ そんな事で、この金銀の満珠・干珠の珠(たま)の事を知る人は今では無くなりました。
「満珠・干珠」の事は、この欄の項目25) 25)長府『忌宮』飛び地境内≒元『忌宮』別当神宮寺飛び地境内:神の島;満珠・干珠島は・・・ に写真をアップし、説明を詳しくしております。
神宮寺のご本尊・諸仏・宝物が 今に当山に残されたのは、神宮寺が廃仏毀釈の時、神職になるか、僧職を継ぐかと迫られ、当時の住職が僧職を選んだからです。 その時一つ、条件を呑まされたと言われます。 そうすればご本尊・諸仏・宝物等を持ち出せると言われて、それに従いました。 それは昔、神宮寺は神職と僧職を兼ねていたので、姓を名乗るとき、何か神社に繫がる(隠れ蓑的でもいいから神職に繋がる神を付け)て、神本(カミモト)姓を名乗るのが条件だったので、方便的に代々神の付く、神本姓を継ぐことを約したといいます。 (それまで僧侶には一般平民と同じく、姓は有りませんでした。《出家ですから。》 私の姓は違いますが、長男の後住は神本姓にしています。)
『当山と神宮寺が合併出来、本尊・諸仏・宝物等を持ち出せたというのも、福仙寺が長府毛利家客家老細川家の祈願寺で、しかも細川家の領地内に有ったことにより、細川家の力が強く働いたものと思われます。』 福仙寺は長門の旧豪族豊田氏の保護を受けていたが、長府客家老細川中務が幕末の頃細川家の祈祷寺として豊前田町に移したもの。 以上のことは所謂、明治政府の神仏分離令によるものです。
全国にあちこち有る、神宮寺に「神主を兼帯していた僧侶に対して、還俗して神主になるよう通達。」が出されました。全国の神社神職は神祇官の管理化に置かれたのです。神仏分離は当時の国家権力で強引にされましたものです。 ※参考・神宮寺※とは、 神宮寺の建立について、(以下数種の資料・事典を総合して) 日本人が仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに神と人間を同列に位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱が欲しているという認識がされるようになった。715年には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国家レベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始め、満願禅師らによる鹿島神宮・賀茂神社・伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設された。 また宇佐八幡神のように神体が菩薩形をとる神(僧形八幡神)も現れた。奈良時代後半になると伊勢桑名郡にある、現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依したいとの意思を示すようになった。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになった。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以下の「阿弥陀寺」については、神宮寺という制度とはかなり違います。
源平の壇ノ浦の戦いで、入水した安徳天皇を祀る。阿弥陀寺町の有名な赤間神宮は、幕末までは阿弥陀寺(勅願寺:真言宗の名刹)だったのです。 この阿弥陀寺も神宮寺と同じように、明治になり廃寺になり、廃寺のあと(赤間宮→赤間神宮)となりました。 今では町名だけが、阿弥陀寺町として残っているだけです。 阿弥陀寺が廃寺になり 寺の物として何一つ存続しなかったのは 仏式(真言宗)により祀られていた安徳天皇稜が在ったのが最大の理由です ある意味で 「神宮寺」より酷い状態だったと言えます(神宮寺は福仙寺と合併でき 寺の物として残りましたが・・・!) 幕末まで勅願寺(ちょくがんじ)でしたから 明治になり直ぐ 否応なく神仏分離令により「天皇社」と改称され 明治8年に「赤間宮」・昭和15年「赤間神宮」と改称し 官幣大社になる経緯があったからです 赤間神宮は歴史の古いお宮のように思えますが 以上のような経緯で 新生して歴史はまだ新しいのです 昔は寺だったという事を 別の観点から見てみましょう
お馴染みの怪談に 『むかし昔 法一という琵琶の名手である坊さんが居て ある時その法一は 和尚さんがいない時に 訪れてきた壇ノ浦で滅んだ 平家の怨霊武者に連れ出され その怨霊達の前で演奏する事になる 源氏への怨念のこもる平家の貴族達は 法一の演奏した「平曲」に涙し また夜毎演奏をしに来る事を法一に堅く約束させ そうしました 幾日か経ち 和尚さんが寺へ戻った時 法一は何者かに生気を吸われたように 訳分からなく萎えて疲れ果てていた 和尚さんは これは何か取り付かれているに違いないと 法一に訳を聞き 夜こっそりつけて行ってみると 法一は貴族の屋敷ではなく 寺の境内に有る戦に破れた平家の武者の眠る墓前で 平家の亡霊達を相手に夜ごと演奏していた事がわかったと言う」怖い話が有る様に これはお坊さん達の話で 謂わば真言宗の寺で起こった訳 それを防ぐ為に和尚さんが 有り難い般若心経を耳だけを書き忘れて 全身に書き込んだが その為に書き忘れた耳は引き千切られたが 身体だけは難を逃れて助かった』と言う怪談話 この怪談の元ネタは 中国の宗の時代に既に有ったと云われています それを日本的な話しにして伝承したのです そんな話からも 怪談が出来た頃にはお寺だったと言うのがよく分かります これがお宮の神主さんだったら どんな話に変わっていたでしようか?その事も興味深いです!
現在では赤間神宮・春汎楼が安徳天皇稜を挟んでいます 以下【 〜 】内は 市ホームペジより参考
【阿弥陀寺は、慶応4年3月の「神佛分離令」に伴う排佛棄釈によって廃寺となりましたが、その「方丈の跡」は近くの眼科医・藤野玄洋が買い取り、明治10年新たに月波楼医院を開業しました。 その後、妻のミチはこれを改造して割烹を兼ねた旅館を開業しました。三棟あったこの店は、向かって右から月波楼、春帆楼、風月楼と呼び分けていました。その中の春帆楼という名称を伊藤博文が名付けたものだそうです。 伊藤博文といえば初代総理大臣、あるいは、かつての千円札を連想しますが、春帆楼の「ふく」を公許してくれたことでも知られています。】と
阿弥陀寺があった時は 今の赤間神宮・春汎楼や安徳天皇稜全てお寺の境内だったのです 赤間神宮は昔から在った様に思えますが 幕末まで赤間神宮という名前は 存在していませんでした 神社があったのは阿弥陀寺の鎮守としての八幡宮です 当山にも紅葉稲荷があった様に! 昔は阿弥陀寺の辺りが赤間ヶ関と言っていたので その地名を取って「赤間宮」となり現在の「赤間神宮」に至っております その2代の宮司さんが 高杉晋作・久坂玄瑞等の勤皇志士や 騎兵隊に経済的に援助した有名な豪商白石正一郎です 今の宮司さんは白石姓ではありません 赤間神宮初代の宮司さんは 赤間神宮の前身の当時の阿弥陀寺住職が還俗して 大司氏となり初代宮司となっております その後の二代宮司:白石正一郎です それと同じように 当山と合併した長府「神宮寺」の住職が 還俗していれば神本氏で初代の長府[忌宮]宮司となっていたと言う事に成ります
赤間神宮境内の水天門左横に 昭和五十年 高野山管長大原智乗大僧正揮毫による 「高野山無量寿院 阿弥陀寺跡」の碑が 建立されています だから昔は 今の高野山本山以上に格式のあった無量寿院(寿門)の直轄寺院だったのです
無量寿院(寿門)の歴史は 宥快や長覚など高野山の歴史を代表する著名な学僧を輩出し 教学の興隆をもたらした高野山の二大門主寺院であった宝性院(宝門)と無量寿院(寿門)が大正2年(1913)に合併し 旧無量寿院の境内に発足した学問寺院 新寺号は 宝性院から宝の字を取り 無量寿院から寿の字を取り 併せて宝寿院 (それぞれの門流から一字ずつを当てた宝寿院となりました) 宝寿院は中世以来の両門の貴重な教書を多数所蔵し 境内には僧侶の教育指導機関である専修学院が設置されている 旧宝性院跡地は現在の大師教会です(以上高野山Hpより) 幕末頃には阿弥陀寺は 梅の坊、青蓮坊、多聞坊、西福院、教順院などの支院を持つ大寺院となっていました。
※参考※(以下数種の資料・事典を総合して) 《明治維新のおこなった、宗教政策の大転換………》 ●王政復古をもとに明治政府は 祭政一致を目指し神社を国家統合の機関にしようと意図した 天皇の政治支配を正当化する根拠を「記紀神話」に求めたのである 神道だけがただひとつの国教として正当化した「日本は神の国」であったのである
幼い天皇(当時15才)を補弼(ほしつ)している人々が 政治を壟断(ろうだん)しているという批判に対抗するため 天皇みずからが政治をするという体制を整える必要があったのである そのため「王政復古」「祭政一致」の実現をめざした
《神祇官(じんぎかん)を再興と神仏判然の沙汰…… 》 ●明治元年(1868)3月13日「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が出された 全国の神社神職は神祇官の管理化に置かれたのである 神社が国民の戸籍を扱う国家機関のひとつとなったのである
明治政府は祭政一致を実現するためにも 諸社と諸祭奠の調査を行うことになった 明治元年(1868)12月20日「延喜式神名帳所載諸国大小神社」の取り調べを府藩県に命じ「式外ニテモ大社之分旦即今府藩県側近等ニテ崇敬之神社」についても同様に申し出ることを命じた
明治2年6月10日の「神職神葬祭」「神職継目」など主要神社精査に関する通達 その後15項目に渡る調査票につながるのである 慶応4年3月以降出された「神仏分離」の諸布告である
※勅願寺※とは(以下数種の資料・事典を総合して) 現当二世(現世と来世)の安楽を祈願したり 特別に帰依した寺院を祈願所といいます 初めは薬師寺や国分寺のように 朝廷の勅命によって建立された官寺に限られていましたが後に貴族・将軍・大名が祈願のために新たに創建したり 既在の寺院を指定したり あるいは貴族・僧侶が建立した後に奏上された寺院もこのように呼ばれ 多くの祈願所が生まれました これら祈願所のうち 天皇の勅令によって玉体安穏・鎮護国家を祈る寺院を御願寺(ごがんじ)・勅願寺といいます この呼称は鎌倉時代以降 幕府建立の祈願所と区別する意味で起こったもののようです 勅願寺の多くは天皇宸筆の寺額(勅額)を掲げ 創建当時した天皇の在世中は「今上皇帝聖躬万歳」などと書かれた 天皇の長寿を祈る位牌を崩御後は 冥福を祈る位牌(霊牌)が祀られます
=余聞= 安徳天皇は(壇ノ浦で入水されたのではなく 官女の按察局伊勢に守られ 生きて筑後(筑後河畔;今の水天宮総本宮辺り)鷺野原の千寿院という寺院で皇子を儲け 27歳で崩ぜられたと言う伝説もあるようです;このことは久留米の水天宮総本社にお参りした時のパンフレットに そう説明されていました) 又『平家物語』に安徳天皇は 実は女帝であったのではないかという疑念を起こさせるような記述があることをもとにして 浄瑠璃・歌舞伎の「義経千本桜」などでは 女子であったという筋立てを採用しているのだそうです 他に落人となって行ったと言う伝説もあるようです
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