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■ 25) 海峡ゆめタワーが見える風景(その13))※対岸:門司レトロ展望室から見る2009.3.25

対岸;門司港レトロ展望室から見た。海峡ゆめタワー。

当山はタワーより、4、500bの北の丘にあります。
下関は、東に周防灘(瀬戸内海)があり、東に周防灘(瀬戸内海)があり、三方が海です。
関門海峡・響灘(日本海)が在り、周防灘(瀬戸内海)囲まれるようになっています。だから比較的温暖で、あまり雪は降りません。
此方から見て、対岸;下関唐戸(写真ほぼ中央)〜門司港は渡船があります。
下関→門司・門司←下関間五分。

下関側からこちらに向かう、短い航跡は、唐戸から門司へ渡る関門汽船の渡船です。
手前長い航跡は、門司から出る海峡観光船。

(画はクリックで拡大)

門司港はバナナ叩き売り発祥です。
バナナの叩き売りの口上の一つに、「バナちゃんの因縁を聞かそうか、生まれは台湾台中の、阿里山麓の片田舎。土人の娘に見染められ、ボーッと色気のさすうちに、国定忠治じゃないけれど・・・〜・・・。
 
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以下「バナナ叩き売り発祥の地碑」より。

バナナが日本に輸入されたのは明治36年頃で、当時、基隆(キールン)[台湾]の商人が神戸に持ち込んだのが始まりです。それが大量輸入されるようになったのは、明治41年以降で終戦の4、5年前までです。
その頃、台湾は日本の領土であったことと、門司港が産地台湾と最も地理的に近い関係もあって、大量荷揚げされ、市場が設けられたのでした。
このバナナ入荷は、青いままのバナナで、3〜40人の仲買人[室(むろ)を持つ問屋]により競(せ)リ売りが行われました。そして、引き取られた青いバナナは、地下室で蒸されて、黄色のバナナとなって、市場に売り出されたものでした。
ところが、輸送中に蒸れた[俗に籠熟(かごうれ)バナナと言う]ものや、加工中に生じた一部不良品等で輸送困難なものは、出来るだけ早く換金する手段として、露天商等の手を経て、口上よろしく客を集め売りさばかれたのが「バナナの叩き売り」の始まりです。
 現在でも、JR門司港駅を出て右手に行ったところにある旅館「群芳閣」(門司区港町1-7)の玄関横に『バナナの叩き売り発祥の地』の記念碑が建っています。
また、「バナナの叩き売り」は、今では年齢の高い人にはなつかしい響き、若い人には新鮮な響きと受け取られ、人気を呼んでいます。
そこで後継者育成のねらいから、「門司港バナナの叩き売り保存会」の協力を得て、平成9年から『バナちゃん道場』が開かれています。
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