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■ 23)海峡ゆめタワーが見える風景(その11):関門橋が見える風景(その1):※門司側から2009.3.8

門司側(布刈公園):早春の関門橋手前から下関側を見る。 
対岸下関側橋脚辺りが「壇ノ浦」。
この辺りが、源平合戦で二位ノ尼;平清盛の妻が、安徳天皇を抱いて「浪の下にも都のそふらふぞ・・・“平家物語”」と、船から入水した所((早鞆の関)です。
この辺りにも昔はイルカがいたのでしよう。(現在も居るかどうかは 分かりません)
海峡の東側;瀬戸内には、鯨の仲間で一番小さいスナメリが居るようです。
「下関市長府宮崎町櫛崎城(くしざきじょう)近くの、三軒屋の沖合でよく見かけるようです。現在そこの海岸に、そのことを示す看板が掲げられています。」
源平・壇ノ浦の合戦で、イルカの大群が源氏から、平氏の側に泳いで行くのを見た陰陽師の阿部晴信は、平氏の滅亡を予言したと平家物語は伝えています。


(橋の架かるところが、海峡で一番狭い所)両岸の橋脚辺りから、エレベータで人道トンネル(780b)に入れ、徒歩15分で対岸に渡れます。 

(画はクリックで拡大) 
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以下;市の広報や各報道より。
一番狭い所で約650b。 水深約47b。
大瀬戸の幅が約600mまで狭まる壇ノ浦。 — 和布刈間は早鞆の瀬戸(はやとも の せと)といい。一般には「大瀬戸≒下関⇔北九州市門司区の間」を広い範囲で、関門海峡と呼ぶそうです。
橋の下あたりが早鞆の瀬戸、潮の流れが速い難所「最も危険な海域」です。
この辺りの流れは、秋の大潮時で、最大10ノット(時速18`)の年=(大潮と重なり、月が地球に一番近づいた日)もありました。普段は7.8ノットです。
その最近の最大潮流≒(h23/10:28)

下関の旧名は「馬関」とも言いいました。

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      雨雲のみだれ移るを
         車房より
        わが見つつ
           居り馬関の海
                
              斎藤茂吉
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「馬関」とは、下関市の昔の名前。下関市は明治22年の市制施行当初「赤間関市(あかまがせきし)」としてスタートし、「赤間」の「間」の字に「馬」の字をあてて「赤馬関」。 それが「馬関」となっているようです。
(万葉の頃は関門のことを穴門(あなと)と云ったようですよ!)
海峡は日に6〜700隻前後の、大型船が往来します。
編集の時に気付いたのですが、この写真には、船影はありません。 
この日だけは、小船の影すらありませんでした。何時見ても、船の影があるのですが!
船のラッシュが終った時間帯なのでしようか!?
海峡での大型船の航行速度は、h23年までは3ノットでしたが、現在では海峡の混雑を緩和するために、速度を速めて4ノットで航行させるようです。

カメラを向けて、船が写らない海峡は珍しい事です。

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現在の唐戸辺り・赤間神宮の有る「紅石山」辺りは、平安時代から「赤間(赤馬)関」と言われていました。昔「紅石山」の山頂に、馬に似た赤い岩(石)があったので、真実かどうか分かりませんが、“赤馬ヶ関”と云われだしたのだと聞いたことがあります。それんなことから“赤馬”→“赤間”(赤間ヶ関)となり、それから“馬関”となり、「赤間関市(あかまがせきし)」としてスタートし、「赤間」の「間」の字を「馬」の字にあてて「赤馬関」。 それが「馬関」となっているようです。「赤間」の「間」の字に「馬」の字をあてて「赤馬関」、それが「馬関」となっているものです。
「馬関」とは、下関市の昔の名前。下関市は明治22年の市制施行当初「赤間関市(あかまがせきし)」としてスタートし、「赤間」の「間」の字に「馬」の字をあてて「赤馬関」。 それが「馬関」となっているようです。
さらに、
(明治22年)4月1日の市制施行時に、日本で最初に市制を施行された31市の1つとして赤間関市発足(山口県で唯一)。1902年(明治35年)6月1日に現市名の下関市となる。2005年(平成17年)2月13日、下関市、菊川町、豊田町、豊浦町、豊北町が合併(新設合併)して、新たに下関市が発足した。

古い呼び名の起こりは、
「赤い泥岩盤?」の地層で出来ていたからと、個人的に想像します?
 亀山神社(昔は島)近くのマンション工事の時には、赤い色の岩盤が見えていたと聞きました。この神社の下から山陽道西の基点で、この近辺は所謂山陽道の西之端なのです。(今でも通称:西之端通り)と言われている処です。 
この西之端辺から、現在も通称「赤岸通り」と呼ばれている一帯が(赤い泥岩盤?:紅石山)と同じ地層で、続いていると思います。 
(「赤岸通り」とは、昔の海岸線の岩が、赤かったから付いた呼び名だそうです。)
昔は「赤岸通り」に沿って、海峡からの長い入り川状。(細長い入り江状:現在両脇に柳が植えてある田中川川下)だったのです。 
元来下関市の西端の多くの地層は、赤い粘土が泥岩状?になったような地盤のように思います。(事実、日和山の寺の近辺も、脆い赤みのある泥岩状?です。)

橋から手前;右側が、周防灘(瀬戸内海)。
橋より向こうが、桜には少し早い。早春の関門海峡(大瀬戸)。
下関は三方を海に囲まれております。
この辺り、
赤間関の稲荷町(亀山神社辺り)は、(現下関市赤間町)≒江戸時代から屈指の遊郭があった町。
高杉晋作はここで愛妾「うの」と出会い、伊藤博文は後妻になる「梅子」とめぐり会う場所です。 

坂本竜馬もお龍さんと、この町の伊藤家を借りて「自然堂」と名づけ一時住んでいました。
竜馬のエピソード。(竜馬が使っていた茶碗が、長府博物館に所蔵されています。)
二人は舟島(巌流島)に小舟で渡り、こっそり花火をしたと言うことです。
晋作が上海から持ち帰ったピストルを、お土産に貰っています。
ある日、遊郭から朝帰りした竜馬は「こい(恋)わ志はん(思案)のほか(外)とやら、あなと(穴外)の、せと(瀬戸)のいなりまち(稲荷町)・・・」と即興の俚謡を作って、お龍さんの怒りを鎮めた?と伝わっています。ここのあなと(穴外)とは関門海峡の古い言い方。
他に「猫も杓子も面白う、遊ぶ廓の春景色」とも謡っていますので、相当出入りしていたのでしよう!晋作も竜馬も!また伊藤博文も!
晋作の「おもしろき、こともなき世に、おもしろく」と言うのが辞世の句です。

この赤間町稲荷町は有名な廓街。 江戸時代屈指の海港都市として栄えた為、北前船などの回船が下関に入ると、問屋の主人が船頭衆をこの町へ案内し、接待した為です。
この街の遊郭で働く太夫は、平家の女官に起源を持ち、格式・教養ともに高く、それ故に全国的に知名度も高かった為、船の入港が重なった時は、奪い合いになるほどだったと伝わっておるそうです!
幕末になると、勤皇の志士達が遊び仲間と密議を交わす為、この町に出入りします。 町内で大きかったのは「大阪屋」「油屋」「宮屋」だったそうです。
     
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   汽笛(フネ)と ならんで歩く
               早春の白波   
            
             山頭火(山口:防府市大道の出身)

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現在の船は船足が速く、船と一緒んに並んで歩く事は無理です。 この句のようなのぞかな情景は、山頭火の生きた頃の、瀬戸内の昔の船のスピードでしかありません。

南に関門海峡。(大瀬戸≒北九州市・下関の間)
東に周防灘。(瀬戸内海)
西に響灘・北に続く日本海の三方が海です。
言うまでもなく、
関門海峡は源平の決戦で、貴族社会から武家社会に変わり、武家社会から近代社会に変わった。(幕末から明治維新のさきがけ)と言う歴史上、大きな転換期になった舞台です。
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以下、国土交通省、九州地方整備局関門航路事務所広報より。

関門航路は、関門海峡を縦貫する全長約45km航路幅500〜2,200m。航路水深ー12mの狭くて細長い水路で、響灘海域と周防灘海域で生じる潮位差により、関門海峡で最も狭い早鞆瀬戸では、10ノット(約18.5km/h)にも達する潮流が発生し、海上交通の難所となっている。