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■ 20)【「関門海峡とゆめタワー」そして「満月に花火」】海峡ゆめタワーが見える風景 (その7)※(8/13海峡花火大会)2008.9.23

毎年8月13日;午後7:50分から『海峡花火大会』開催。
月光の冴えわたる海峡で、花火の競演。この写真の撮り位置からは、あまり好位置ではありません。
(画はクリックで拡大)

=秋の月には、三ッあります。=
=新暦八月のお盆の月・同じく九月の中秋の名月(芋名月)。又、十月の後の月。=
旧暦では、七月、八月、九月が秋。
新暦では8月上旬から立秋。新暦お盆月の満月は、すでに暦の上では秋の名月。

「海峡ゆめタワー・関門橋・関門海峡を この高さ・角度・方角で写した花火大会の画」は今まで出回っていなかったと思います。最近建った山口県で一番の高層マンション・ベルタワーが出来るまでは!?!知人に入れてもらって、最上階の22階の東非常階段から撮ったものです。

海峡を挟んで下関・対岸の門司両側・海上の台船から13.000発の花火が上がります。ここからの花火見物はあまりよくありません。花火にがぎっては一等地とは言えません。
毎年花火見学に、海峡に豪華クルーズ客船が寄港します。

見どころは、関門の100万ドルの夜景。ライトアップされた「ゆめタワー;関門海峡の夜景と、青い月と、花火」のコラボレーションです。

月光の冴えた明るい夜

写真は下関駅近くの、 
タワーマンションの東非常階段踊り場からです。
知人にマンションに入れて貰いました。
青い月の光の下、(青い花火)
門司側は、
一尺玉・五寸玉120連発。
下関側は、
一尺五寸玉の直径450bでした。

 
=余話=以下、サーチ【search】
文化7年(1810)鍵屋の腕の良い番頭清七(『鍵屋伝書』)には新八とある)が暖簾を分けてもらい両国広小路吉川町に分家する。鍵屋は鍵屋稲荷を守護神としていた。その祠の前の狐の一方が鍵を、一方が擬宝珠(ぎぼし)の玉を持っていた。鍵屋は清七を分家させるときに、この玉を与えた。
そのため清七は玉屋を名乗り、名前も市郎兵衛と改める。鍵屋・玉屋両国橋を挟んで花火の競演「玉屋の人気絶大」 そこから「玉屋」・「鍵屋」という掛け声がうまれたのだそうです。
鍵屋・玉屋の時代になって、両国の川開き花火は、両国橋をはさんで上流を玉屋が下流を鍵屋が受け持つようになった。玉屋の人気は鍵屋をしのぐほど高かった。この頃から浮世絵の画題としても花火が多く登場するようになるが、もっぱら描かれているのは玉屋であり、このことからも玉屋のほうに人気があったことが察せられる。花火技術も優れていたのだろう。その証として、「橋の上、玉や玉やの声ばかりなぜに鍵やといわぬ情けなし」といった歌も残っている。
「玉屋」火事を起こし江戸払いとなる。

 ところが、いいことはばかりは続かない。天保14年(1843)4月17日玉屋は失火によって全焼、町並を半丁ほども類焼させてしまった。当時、出火は重罪であり、しかも将軍家慶が日光へ参拝に出かける前日であったため、玉屋は江戸払いの罪を科せられ、追放処分となってしまった。江戸庶民の絶大な人気を集めた玉屋も一代限りでその家名を断絶したのである。結局、鍵屋・玉屋の時代は、32年間で幕を閉じたが、玉屋の名は江戸庶民の間に語り継がれ其の後の花火大会でも江戸っ子達は「かぎやぁ〜」「たまやぁ〜」と歓声を上げて見物した。現代では「ワー」という歓声に変わり「かぎやぁ〜、たまやぁ〜」と叫べば場違いと思われる。