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■ 75)下関市の古称“赤馬関(あかうまヶ関:あかまヶ関)”馬関≪ばかん(バクワン)≫の一考察。2016.4.10

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この置物は、或るお方がお寺に持って来て下さった“赤い馬”の置物です。寺には必要ありませんが、勿体ないので保存しております。
かなりの重量があります。何かの練り物で、彫刻ではない?ようです。
風水に使うインテリア用のグッズ(goods)なのでしよう…か?
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そこで、この“赤い馬”に因んで、下関の古称“穴門=穴戸→赤馬ヶ関→赤間ヶ関→馬関→関”のことを考察します。
この項、後日書き加えます?。訂正もします…?。
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これからの話は、以下の@.A.の謂れが正しいことが前提です。

@.【現在の赤間神宮(元の真言宗・阿弥陀寺)の在る処を、“紅石山(べにしやま)68.2b”と云いい、昔その紅石山の頂に、“馬の形”をした赤い石があったから、“赤馬”と云われたのだと聞いたことがあります。その真意のことは不明ですが、あの山を“紅石山”と云われるのも頷けます?】
或は、
【“紅石山”全体が、「赤褐色の硬い石?」で出来ていて、その山容を遠くから見ると、“馬の姿=馬の背”に似ていたのかもしれません?そんなことで、赤馬と云われ出した】とも考えられます。
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“馬関”とは、
・下関の古称…市制施行以前の古い呼称それが馬関。それよりも古い呼称が“赤馬ヶ関”です。
さらに古い呼称が、
・穴戸=穴門(あなと)…更に昔の呼称…それは関門海峡の形状から…“穴戸=穴門”はミナト(水門)の意で、関門海峡をさしたもののようです。7世紀に穴門(穴戸)国が設置され、7世紀後半に長門国に改称した。穴門→穴戸→長門。〔「あなど」とも〕 関門海峡の古名。また,長門国一帯の古名。長門国は 山口県の西半分。東半分が周防の国。周防・長門(長州)の二国で防長(毛利藩)です。
・穴門→穴戸(あなと)から長門(ながと)へと呼名が変化…律令制に基づく日本の行政区分、長門国、長州とも。
穴門を「あながと=穴ヶ門」と読んで“あ”を外して“(な)(が)(と)”=“ながと”=“長門”としたという説もあるようです。
【“赤馬ヶ関”】とは、
@“馬関”の呼称は“赤馬”のことから…それは現在の“赤間神宮を懐く紅石山(べにしやま)”から…
A“赤間ヶ関(あかまがせき)”のこと…それは最初の古称“赤馬ヶ関(あかまがせき)”から…それは“赤(あか)馬(うま)”⇒“赤(あ・か・)馬(うま・)”から、“あ・か・ま・)となり、赤“馬”が“赤間”に変遷・変化したもの…と考えられます?。
B“赤間ヶ関”からは“馬関”となる筈はなく、“赤馬ヶ関”から“馬関”となったもの…?。だから“赤馬ヶ関”と云う呼称が最初にあり、後に“赤間ヶ関”と呼ばれるようになった?もの!「赤間」の「間」の字に「馬」の字をあてて「赤馬関」、それが「馬関(ばかん)」となっているということではなくて、始まりが「赤馬関」なのだと想います。その後「赤馬関」・「赤間ヶ関」と表記され、一時「赤馬関」と「赤間ヶ関」が併記されるようになって行った?)”“赤(あ・か・)馬(うま・)から(う)を外して(あ・か・ま・)=(赤間)に…なったとも言えます?。穴門を「あながと=穴ヶ門」と読んで“あ”を外して“(な)(が)(と)”=“ながと”=“長門”としたという説もあるように!
C“赤馬関”から“赤”を外して“馬関”へ…
“赤馬ヶ関”という名称から…それはその“赤”の字をを外して“馬関”となったもの…山陽鉄道の終点となった現下関駅も、最初は“馬関駅”と称しました。
明治22年、山口県で唯一市制施行され、赤間関市(あかまがせきし)としてスタートします。明治22年市制施行時当初駅は“馬関駅”とし、「その後、明治35年に現市名の下関市となります。
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赤馬ヶ関(あかまがせき)は、平安時代頃から…昔、山口県の瀬戸内に設けられた「三ッある海の関」の一ッ、それは“赤馬ヶ関=(馬関=バクワン)”と書いたところから…地元では単に“関”とも言います。
「赤馬関→馬関=赤間関」「関→下関」と変遷して行ったのだと想います?
明治22年の市制施行当初、山口県で唯一「赤間関市(あかまがせきし)」としてスタートし、明治35年に現市名の下関市となります。「赤間」は「赤馬」からの変化したもの…
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現在の唐戸辺り・赤間神宮のある「紅石山(べにしやま)」辺りは、平安時代から“赤馬ヶ関”(あかうまがせき)」と、云われていたと云います。
関門海峡のことを、昔から関門海峡とは言わず、馬関海峡で知られていました。幕末に長州藩が英・仏・蘭・米の四ヶ国連合軍と戦ったのを馬関戦争と云うし、後に下関戦争とも言います。
一番古い関門海峡の呼称は、
“穴戸(あなと)海峡”“穴戸”そのものが“海峡”の意。
江戸時代には、赤馬関(アカマヶセキ)と呼ばれたことから、赤の字を省いて馬関(バクワン)と省略され、“馬関海峡”
“その後は、
“下関海峡”とも称されます。
その後、
近代になって下関の“関=カン”と、対岸門司の“門=モン”を取って“関門(カンモン)”として“関門海峡(カンモンカイキョウ)”と呼ばれるようになったのでしよう…。
・・‥‥…━━━:
“馬関”ということは、全国的にはあまり知られていません。古くは下関のことを“赤馬ヶ関”と云われていました。それで“赤馬ヶ関(あかまがせき)”の赤を省き、後に“馬関”と呼ばれるようになる?下関のことを“馬関”というそのことを、現在は地元以外はあまり知られていません。
山口県(防長)には、瀬戸内海側に“海(船)の関”が三ヶ所あります、下ノ関・中ノ関(防府市)・上ノ関(柳井市)という「防長三関」です。下関はその“船の関”の一つです。その三関の“都より遠いい西の端に位置する”関だから下関というのです。
上・中・下という関の名の付け方は、京の都に近い方から、上関・中関・下関と呼ばれたのです。(‥例えば備前・備中・備後、豊前・豊後、肥前・肥後・越前・越後というように京都に近い方は前・後となることもあります。‥)
それで全国的な呼び名は、下関と呼ばれることが多かったと想います。地元以外の人は昔からあまり馬関と呼ばずに、全国的には下関と呼んでいました。それは海の関ということで、千石船が多く寄港していたことから呼名が全国的になって行ったのでしよう?。地元では単に“関”と多く呼んでいました。
上方・江戸では赤間関と呼ばれ、地元近辺の人々は(赤馬関=ばかん)と呼び、北前船の航路が盛んになって行くと、船で働く人が多くなり、全国的に知られた海の関がある関係上、全国的には下関(下ノ関)と呼ぶのが広まっていった?のだと想います。
“赤馬関”と表記するよりも“赤間関”とする方が、垢抜けてみえます。“赤馬関”から“赤間関”への表記は、何時の時代から変わったのか分かりませんが…?。
「馬関(バクワン)」の読みは、難読と言うほどではありませんが、全国的にみたら珍しい響きの地名だと思います。とにかく田舎臭い地名なのです。
山口県の東部、周防地区には、歌にうたわれる難読地名がある地域があります。それは子供の頃、耳にした「富海(トノミ)の蚤が戸田(ヘタ)へた飛んで、・・・」と歌いだす山口県東部(周防)の地名に伝わる歌にうたいこまれています。
「富海のノミが戸田ヘタ飛んで」と言う一節しか頭に残ってなかったので、サーチしてみたら、「富海(トノミ)のノミが戸田(ヘタ)へた飛んで、夜市(ヤジ)かぶって、福川(フクガワ)でふくれて、富田(トンダ)でとられて、川崎川に流された」というのだと判りました。これは、あの高杉晋作が陸路騎兵隊を率いて倒幕に向かう時、難読地名が続く富海から富田までの地名を、面白く歌った“戯れ(ざれ)歌”のようです。最初駅名を覚えるための鉄道唱歌のようなものだと思っていました。
周防東部の難読地名である富海(トノミ)・戸田(ヘタ)・夜市(ヤジ)・富田(トンダ)の難読地織り込んで分かりやすく、騎兵隊の隊員に、晋作得意の三味線を弾いて、余興で教えようとしたのかも?
それは晋作のチャメッケや、知恵者ぶりを発揮したものです。

参考:山陽鉄道唱歌歌詞は以下です。
二十七、
向(むかい)の岸は馬関にて (馬関:現 下関 )
海上わずか二十町
瀬戸内海(うちうみ)の咽首(のどくび)を
しめてあつむる船の数
二十八、
朝(あした)の帆影 夕烟(ゆうけむり)
西北(にしきた)さしてゆく船は
鳥も飛ばぬと音にきく
玄海灘やわたるらん
二十九、
満ち引く汐(しお)も早鞆(はやとも)の
瀬戸と呼ばるる此海(このうみ)は
源平両氏の古戦場
壇の浦とはこれぞかし
三十、
世界にその名いと高き
馬関条約結びたる
春帆楼(しゅんぱんろう)の跡といて
昔しのぶもおもしろや

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現在の赤間神宮(元の真言宗・阿弥陀寺)の在る処を、“紅石山(べにしやま)68.2b”と云います。昔その紅石山の頂に、“馬の形”をした赤い石があったから、“赤馬”と云われたのだと聞いたことがあります。その真意のことは不明ですが、あの山を“紅石山”と云われるのも頷けます?或は“紅石山”全体が、泥岩(シルト岩)「赤褐色の硯石層?」で出来ていて、その山容を遠くから見ると、“馬の姿=馬の背”に似ていたのかもしれません?そんなことで、赤馬と云われ出したとも考えられます。下関の地質は、広範囲に脆い泥岩の硯石層で出来ていると想います?
(‥余談だけど市内には、紅石(べにし)という商社があります。‥)

そのことを思わすのは、亀山神社(昔は島)近く現在の“唐戸”近くの稲荷町のマンション工事の時に、赤い色の岩盤が見えていたと聞きました。現在も通称「赤岸通り」と呼ばれている一帯が、赤いの岸で、波打ちで濡れるとより鮮やかに赤くなります。:キッと“紅石山”と同じ地層で、続いているのだと思います。
昔、島であった亀山神社の辺りは毛利藩が埋め立て開作したところです。大正期?でも亀山神社のすぐ下には「海月」という料亭があり、亀山神社の鳥居前あたりで、子供たちが海水浴をしたりしていました。当時の唐戸のこの辺りは「千舶萬舟」の様子でした。

:参考:…以下nhkぶらたもりより…

関門海峡はもともとは繋がってて花こう岩が削れて海峡になりたっているといわれます。

関門海峡を作り出すふたつの硬いホルンフェルスで出来た山。
ホルンフェルスの内部は風化によって流れだし、谷になりました。その谷の部分が見える砂浜に移動したタモリさん一行。
赤い風化した花崗岩が露出しています。花崗岩がボロボロになり真砂化(まさか)してできた砂が付近の砂浜を形作っていました。
真砂化した真砂は今も風化していてどんどん関門海峡の底に溜まるため、現在でも浚渫工事を止めることが出来ないようです。
一般的に「関門」といえば、「越えるのが難しい場所=難所」というイメージですが、関門海峡は名前の通りまさに難所だと

 関門海峡が如何に”関門”なのかは、世界の海峡と比べてみるとよくわかるそうです。
• ジブラルタル海峡 … 全長60km、最狭幅14km、1日の船数200隻
• マラッカ海峡 … 全長1000km、最狭幅37km、1日の船数350隻
• 関門海峡 … 全長27km、最狭幅0.7km、1日の船数500隻
 世界の大きな海峡に比べてもこの狭い海峡を通る船の数はダントツに多いのです。
 狭い関門海峡を利用する船が多いのはそのバツグンの立地。韓国や中国の船が大阪や東京に向かうときに関門海峡を抜け波の穏やかな瀬戸内海を通って行けば安全に航海することが可能です。
 さらに関門海峡は大昔「遣隋使」「遣唐使」も通った重要な国際航路なのでした――。


現在の通称「赤岸通り」は、昔、田中川の東側の岸の岩が、赤かったからついた呼び名だとも聞いています?浪打側で濡れると岸の赤い岩は、より鮮やかになります。古くはこのあたりまで海が入り込んだ入江で、赤い色をした岩があったため赤岸という地名が付けられたといいます。幸町の法福寺は小山だったのそうです。その辺り昔は城山公園(市役所)、昔の法福寺の小山近辺は、入江の中に大小の山が連なっていたのだと思います?。
中世頃?には、【*.】赤岸(あかし)通り」に沿って、唐戸から、海峡からの“細長い入江”があり、海水が深く入り込んでいたのだと思います。その面影が現在の田中川(川の両側に柳の植栽がある)です。
【*.幕末の頃まではこの赤岸通りの道が、観音崎;永福寺下から山陽道・山陰道と分岐する北浦道筋だったのです。以前永福寺下にあった山陽道の道標は、亀山神社鳥居前に移されています。亀山神社から海峡通りに東に延びるのが旧山陽道。亀山神社から赤間町(元稲荷町)・幸町を通り赤岸通りの方へ北に行くと旧山陰道の北浦街道です。】
この田中川と海峡と繋がる辺りは、現在、川口には 暗渠があって、潜り込むように田中川は、一部隠れて見えません。現在でも満潮の時、わずかに潮が入り込むため、市役所に近い所に海の小魚が泳いでいることがあります。潮が入り込むので、川底がアオサで緑になっています。
今の海門寺というお寺は、貴船町・関山ガーデン入口の山側にあります。そこのご住職にお聞きした話ですが、昔は今のところからかなり下方にあったと聞いたことがあります。昔の海門寺が在った辺りは、“海の門”といった名前の通りの形状に相応しい処に在ったと想像できます。寺の移転理由は分かりませんが、キット潮が入り込んで、度々台風等の時に被害を受けていたので、何時か移転したとも想像します。どのあたりに海門寺が在ったかをお聞きするのを忘れましたが、想像するに、海門(海の門)寺と書くからには、海水が深く入り込んでいた処、現在の山口県下関総合庁舎近く?なのでしようか?そこは昔“海の門”に相応しい場所?と想えるのですが…何処に昔の境内があったのかを、何時か詳しくお聞きしておきたいと想います。
日本本土の西端の沿岸は、入江の多い複雑な沈水海岸となっています。
現在の田中川は綺麗に整備されて、氾濫することはありません。今でも細長い入り江を想わす両脇に柳が植えてある田中川です。 古代まで潮は、現在の赤岸通りが尽きる辺りまで、深く入り込んでいたのでは?と想われます。昔赤岸通りには魚屋が多くあったと聞いたことがあるので、昔は漁船が並ぶ漁師町だったのかもしれません?。更に東駅辺りからこの入江に流れ込む小川(谷川)が在ったのかも知れません。ガス会社の辺りからも田中川に流れ込む溝(小さい川)が現在でも残っています。更に文関小学校への道、丸山(バス高尾線)は現在の地形から見ても谷川があり、この入江に雨水を流す谷川(他にも多くの谷筋)があったのだと思います。(現在は貴船町四丁目辺りから緩やかな坂を上りになり、東駅・金毘羅方面に繋ぐ跨線橋辺りから、東駅までまた下り坂になっていて、今では想像できません…現在もガス会社辺りに田中側に流れ込む溝が残っています。)
昭和五十年初め頃まで田中川の両脇には、東駅まで「山陽電気軌道」(山電)の下関市内で軌道線(路面電車)が運行されていて、山陽電鉄の電車が通っていました。だから現在のように上り下りのアップ・ダウンはありませんでした。田中川が整備されるまでは、大雨と満潮が重なれば、田中川は氾濫していました。現在は整備されて大雨が降っても、水に浸かることはなくなりました。昔はウナギが遡る川でした。ウナギがのぼるということは、海峡と繋がっていたのです。
元来下関市の西ノ端の多くの地層は、赤い粘土が泥岩状?になったような地盤のように思います。(事実、当山の周辺も、脆い赤みのある泥岩状?です。)
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200年ころ - 日本書紀によれば、このころ仲哀天皇が現在の下関市長府に穴門豊浦宮(あなととよらぐう)を設置したとされる。
7世紀 - 長門国国府を現在の長府に設置。
  長門(ながと)の名称は、穴門(あなと)の音から変化したもの。
 991年(正暦2年) - 大宰府赴任途中の藤原佐理が長門赤馬泊にてと「離洛帖」に記 す。
この「離洛帖」の表記によれば、赤間関の古称が長門赤馬。長門(ながと=あなと)赤馬が、最初の下関の呼称となるのでは?   あなと≒関門海峡の形状から…
下関市が明治22年の市制施行当初「赤間関市(あかまがせきし)」としてスタートしました。
一説によると、江戸時代の詩人などが「赤馬関」と書く事が多くなったからとも言われています。
司馬遼太郎氏の『街道をゆくシリーズ・甲州街道、長州路』に、
「下関は、正しくは赤間関といった。しゃれて赤馬関とも書き、転じて儒者好みに馬関とよばれたのが、この港町のよび名になった。この町の海岸は幕末では海峡を漁場とする一本釣りの漁師の家がならび、魚が新鮮なために料理屋が多く(いまは旅館しかないが)、長州をはじめ諸国の志士で下関にやってくる者はかならずこの阿弥陀寺の魚屋の座敷を借りて酒を飲み、会合した。そのあとは稲荷町や裏町へ出かけて行って妓を買う。この点、京の祇園以上に彼らにとって縁の深い町だが、いまは下関のさびれとともにさびれている。」と書いているようです。
司馬遼太郎の謂う様に、“赤間”が“赤馬”に替わり、洒落て「赤馬関」となったのではなくて、最初の名称「赤馬関」から“赤”を外して儒者好み?に“馬関”となったと言えるのでは?その方が自然のように想えます?
「赤間」の「間」の字に「馬」の字をあてて「赤馬関」、それが「馬関(ばかん)」となっているということではなくて、始まりが「赤馬関」なのだと想います。その後「赤馬関」が「赤間ヶ関」と表記され、次第に「赤馬関」と「赤間ヶ関」が併記されるようになって行った?
その後、自然と(赤馬)“あかうま”が→(赤間)“あかま”と、発音が変化してゆく…
“赤間”は“赤馬”の発音から変化したものだと想います。
・「赤間」の「間」の字に「馬」の字をあてて「赤馬関」、それが「馬関(ばかん)」となっているということではなくて、始まりが「赤馬関」なのだと想います。その後「赤馬関」が「赤間ヶ関」と表記され、次第に「赤馬関」と「赤間ヶ関」が併記されるようになって行った?
・「赤馬関」から、“赤”を外して“馬関”と、時代と共に自然に変化して行く…
・最初の名称である「赤馬関」から、“赤”が外れて“馬関”と自然になって行く…
そんなことから“馬関”となり“ばかん(バクワン)”と、音変化し、呼び習わされたもの?そのことが儒者好みかどうかは分からないけど…?“バカン”ではなくて“バクワン”と発音することが儒者好み?かも…。
・【明治三十二年の関門略図という古地図を見ると、東南部(市役所・昔の城山公園)から西の新地辺りの海峡側が“赤間ヶ関”と明確に斜線を引いて区別しています。だから早鞆の瀬戸(壇ノ浦)を「赤馬関」とし、東南部(市役所・昔の城山公園)から西の新地辺りの海峡側が“赤間ヶ関”として区別していた?のかもしれません。】早鞆の瀬戸(壇ノ浦)その地図で以外だったのは、「養冶小学校(仮校舎)」が「春汎楼」のすぐ前、海峡側に記されています。さらに隣接して「養冶小学校」の海峡側に「寺」と表記しています。
(中心部の下関港周辺は、古くは赤間関(あかまがせき)と呼ばれており、これを赤馬関(あかまがせき,せきばかん)とも書いたことから、これを略した馬関(ばかん)という別名も用いられた。)というのが一般的です。
一番古くは“赤馬ヶ関”で、“赤馬ヶ関”だと如何にも田舎臭いので“赤間ヶ関”と自然に変わったのかも…?。
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(明治22年)4月1日の市制施行時に、日本で最初に市制を施行された31市の1つとして赤間関市発足(山口県で唯一)。1902年(明治35年)6月1日に現市名の下関市となる。2005年(平成17年)2月13日、下関市、菊川町、豊田町、豊浦町、豊北町が合併(新設合併)して、新たに下関市が発足。
1878年(明治11年)郡区町村編制法により、東京15区、大阪4区、京都2区、以下1区ずつで名古屋、横浜、堺などと共に赤間関区が置かれた。
1889年(明治22年)4月1日の市制施行時に、日本で最初に市制を施行された31市の1つとして赤間関市発足(山口県で唯一)。1902年(明治35年)6月1日に現市名の下関市となる
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幕末までは阿弥陀寺は、境内に安徳天皇稜を持ち、「梅の坊」・「青蓮坊」・「多聞坊」・「西福院」・「教順院」などの支院を持つ大寺院でした。
その始まりは、源平合戦・壇ノ浦の戦いで、海峡に沈んだ安徳帝御陵に、朝廷が御影堂を建立したことによります。所謂勅願寺:(真言宗の名刹)なのです。
この阿弥陀寺も、当山と合併した長府二宮の別当、神宮寺と同じように、明治になり廃寺となります。廃寺のあと(赤間宮→赤間神宮)となりました。 今では町名だけが、阿弥陀寺町として残っているだけです。
【阿弥陀寺は、慶応4年3月の「神佛分離令」に伴う廃仏棄釈によって廃寺となりましたが、その「庫裏(クリ;住職が住んでいる)の跡」は、近くの眼科医・藤野玄洋が買い取り、明治十年新たに月波楼医院を開業しました。
その後、妻のミチはこれを改造して、割烹を兼ねた旅館を開業しました。三棟あったこの店は、向かって右から月波楼・春帆楼・風月楼と呼び分けていました。その中の春帆楼という名称を伊藤博文が名付けたものだそうです。】
阿弥陀寺があった時は、今の赤間神宮・春汎楼や安徳天皇稜全て、お寺の境内だったのです。
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阿弥陀寺が廃寺になり 寺の物として何一つ存続しなかったのは 仏式(真言宗)により祀られていた安徳天皇稜が在ったのが最大の理由です
幕末まで勅願寺(ちょくがんじ)でしたから 明治になり直ぐ 否応なく神仏分離令により「天皇社」と改称され 明治8年に「赤間宮」・昭和15年「赤間神宮」と改称し 官幣大社になる経緯があったからです。
赤間神宮は歴史の古いお宮のように思えますが、以上のような経緯で、新生して歴史はまだ新しいのです。
この阿弥陀寺は、明治になり廃寺になりました。 
廃寺のあと(天皇社→赤間宮→赤間神宮)と変遷したのです。今では町名だけが、阿弥陀寺町として、町名に残っています。現在の赤間神宮は水天門形式で、大洋漁業の中部家が、クジラ二頭分を寄付して出来た?と聞いたことがあります。 
幕末まで勅願寺(ちょくがんじ)でしたから、明治になり否応なく国家の神仏分離令により直ぐ「天皇社」と改称され、明治8年に「赤間宮」→昭和15年「赤間神宮」と改称し、官幣大社になる経緯があったからです。赤間神宮は、歴史のある古いお宮のように思えますが、以上のような経緯で、新生して歴史はまだ新しいのです。
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亀山神社階段上り前に、山陽道西の端の道標が移転されています。実際は、少し西の永福寺前に山陽道の起点の標識がありました。この近辺が“山陽道の端=山陽道起点”なのです。
現在の赤間町・唐戸町・田中町の町名はありますが、昔あった西之端の町名は消えて、西之端バス停に旧名をとどめています。この近辺が所謂本州の西之端“山陽道の端=山陽道起点”なのです。本州の西の端だから“西之端”となった?
赤石山(べにしやま)には、幕末の志士を助けたことでよく知られている、赤間神宮二代目宮司白石正一郎の墓があります。初代の宮司さんは、赤間神宮の前身の当時の阿弥陀寺住職が僧侶を辞めて還俗し、大司氏と名乗り初代宮司となります。その後が二代宮司目白石正一郎なのです。しかし、二代宮司の白石正一郎の墓は、この紅石山の境内にあり当然なことですが、最後の阿弥陀寺の住職をしていて還俗して初代宮司になった墓は、この紅石山にも、現在の境内にも赤間神宮側は造ってないようです?初代の宮司の墓を造らないことは普通では考えられないことです。やはり神仏分離令で、軽んじられたことが窺えます?更に「阿弥陀寺」は平安時代から続いた寺院です。歴代の住職の墓があった筈です。これらの墓は一切見当たりません?どこに処分されたのか不明です。そのことも残念に想います。

幕末の頃までは、勅願寺であった「阿弥陀寺」と言う真言宗の寺が有ったのです。「赤間神宮」「春帆楼」日清講和条約(下関条約)が行われた日清講和条約記念館です。寺であった時代は、安徳天皇御影堂;現在は正式名「安徳天皇阿弥陀寺陵(宮内庁管理)」。その上に平家七盛塚。):右には朱塗りの竜宮造りの水天門。赤間神宮は戦災にあい、昭和三十三年に新しく造営られたもの。「阿弥陀寺」の面影は何処にもありません。あるのは安徳天皇御影堂でしようか…
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有名な赤間神宮は、幕末までは阿弥陀寺(勅願寺:真言宗の名刹)だったのです。この阿弥陀寺は、明治になり廃寺になりました。 
廃寺のあと(天皇社→赤間宮→赤間神宮)と変遷したのです。今では町名だけが、阿弥陀寺町として残りました。 
   
幕末まで勅願寺(ちょくがんじ)でしたから、明治になり直ぐ否応なく、国家の神仏分離令により直ぐ「天皇社」と改称され、明治8年に「赤間宮」・昭和15年「赤間神宮」と改称し、官幣大社になる経緯があったからです。
赤間神宮は、歴史のある古いお宮のように思えますが、以上のような経緯で、新生して歴史はまだ新しいのです。
阿弥陀寺があった時は、今の赤間神宮・春汎楼や安徳天皇稜全て、お寺の境内だったのです。
赤間神宮は昔から在った様に思えますが、幕末まで赤間神宮という名前は、存在していませんでした。神社があったのは阿弥陀寺の鎮守としての鎮守八幡宮なのでは? 当山:福仙寺にも紅葉稲荷があった様に!
昔は阿弥陀寺の辺りが、赤間ヶ関と言っていたので、その地名を取って「赤間宮」となり現在の「赤間神宮」に至っております。
その2代の宮司さんが、高杉晋作・久坂玄瑞等の勤皇志士や、騎兵隊に経済的に援助した有名な豪商白石正一郎です。初代の宮司さんは、赤間神宮の前身の当時の阿弥陀寺住職が還俗して、大司氏と名乗り初代宮司となっております。その後の二代宮司が白石正一郎です。
赤間神宮境内の水天門左横に、昭和五十年。 
高野山管長大原智乗大僧正揮毫による、
 「高野山無量寿院 阿弥陀寺跡」の碑が、建立されています 。
だから昔は、 
今の高野山本山以上に、格式のあった無量寿院(寿門)の直轄寺院だったのです。

無量寿院(寿門)の歴史は、 
宥快や長覚など高野山の歴史を代表する著名な学僧を輩出し、教学の興隆をもたらした高野山の二大門主寺院であった宝性院(宝門)と、無量寿院(寿門)が大正2年(1913)に合併し、旧無量寿院の境内に発足した学問寺院。
新寺号は、宝性院から宝の字を取り、無量寿院から寿の字を取り、
併せて宝寿院。
(それぞれの門流から一字ずつを当てた宝寿院となりました。) 
宝寿院は中世以来の両門の貴重な教書を多数所蔵し、境内には僧侶の教育指導機関である専修学院が設置されている。旧宝性院跡地は現在の大師教会です。(以上高野山Hpより。)
幕末までは阿弥陀寺は、境内に安徳天皇稜を持ち、
梅の坊・青蓮坊・多聞坊・西福院・教順院・真竜院などの支院を持つ大寺院でした。
その始まりは、源平合戦・壇ノ浦の戦いで、海峡に沈んだ安徳帝御陵に、朝廷が御影堂を建立したことによります。所謂勅願寺なのです。

下関には廃仏稀釈で姿を消した。有名な寺が2ヵ寺有ります。
この「阿弥陀寺」と、長府二宮別当「神宮寺」です。この神宮寺は当山・福仙寺と合併し神宮寺のご本尊・什物は当山に来ています。
神宮寺のことは、当「ホームページ」の中のコンテンツ掲示板4)」の中に【4)長門二宮[忌ノ宮]の別当[神宮寺」(福仙寺と合併) & [赤間神宮]の前身「廃寺の阿弥陀寺」の事】として詳しくUPしています。

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=余話=
赤間神宮が現在の「水天門」形式で新しく建立されたのは、大洋漁業の創業者・中部家が、当時の鯨二頭分の費用を寄付して、建立されたのだという話を聞いたことがあります?。単なる噂さかもしれません?よく分かりません。

=余聞=
安徳天皇は、(壇ノ浦で入水されたのではなく、官女の按察局伊勢に守られ、生きて筑後(筑後河畔;今の水天宮総本宮辺り)鷺野原の千寿院という寺院で、地の姫と皇子を儲け27歳で崩ぜられたと言うのがあります;このことは久留米の水天宮総本社にお参りした時のパンフレットに、そう説明されていました。)
そうすると、以下のように推測できます。
@下関の小瀬戸(小戸海峡)で、一般に云われている安徳帝は、当時の漁師(中島家)に拾われたと言うことは、どうなるのでしようか?それは「幼い安徳天皇に似た年頃の入水姿の替え玉なの?」!?!?
A「平家側と地元の漁師と組んで、入水姿を拾い上げたと言う作り話!?」だったのかも!?。
更に、
『平家物語』に安徳天皇は、女帝であったのではないかという疑念を起こさせるような記述があることをもとにして、浄瑠璃・歌舞伎の「義経千本桜」などでは、女子であったという筋立てを採用しているのだそうです。
他に落人となって行ったと言う伝説もあるようです。それが前述の官女;按察局伊勢に守られ、生きて筑後(筑後河畔;今の水天宮総本宮辺り)鷺野原の千寿院という寺院まで落ちのびたと云う伝説へ?。

※参考※(以下数種の資料・事典を総合して) 
《明治維新のおこなった、宗教政策の大転換………》
●王政復古をもとに明治政府は、祭政一致を目指し神社を国家統合の機関にしようと意図した。天皇の政治支配を正当化する根拠を「記紀神話」に求めたのである。神道だけが、ただひとつの国教として正当化した「日本は神の国」であったのである。

幼い天皇(当時15才)を補弼(ほしつ)している人々が、政治を壟断(ろうだん)しているという批判に対抗するため、天皇みずからが政治をするという体制を整える必要があったのである。そのため「王政復古」「祭政一致」の実現をめざした。

《神祇官(じんぎかん)を再興と神仏判然の沙汰…… 》
●明治元年(1868)3月13日「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が出された。全国の神社神職は神祇官の管理化に置かれたのである。神社が国民の戸籍を扱う国家機関のひとつとなったのである。

明治政府は祭政一致を実現するためにも、諸社と諸祭奠の調査を行うことになった。明治元年(1868)12月20日。「延喜式神名帳所載諸国大小神社」の取り調べを府藩県に命じ、「式外ニテモ大社之分旦即今府藩県側近等ニテ崇敬之神社」についても同様に申し出ることを命じた。

明治2年6月10日の「神職神葬祭」「神職継目」など主要神社精査に関する通達。
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福仙寺には、版木本の「長州赤間関聖衆山阿弥陀寺略縁起」が保存されています。
その内容は、
それ当寺ハ行教和尚貞観元年宇佐八幡宮此地にあとをされ西海を鎮護すべしとの信託をこうむりて草創したもうところの霊場なり是によって弥陀の三尊を本尊とし八幡を鎮守とす…云々=最後に【※.㋑.】什寶目録が記されています。
【※.㋑安徳天皇木造―作者詳なら須。平家一族画像十帳ー狩野法眼元信筆。源平合戦画図八帳ー土佐時監光信。十一面観音―安徳天皇御守本尊運慶作。建礼門院持尊佛ー定朝作。同三尊ー清盛持尊佛恵心僧都作。釈迦如来重盛持尊佛ー毘首羯磨作。安徳天皇御釼御入水の後御座より・・・。能登守教津経太刀上に同じ。古筆平家物語諸人之筆長門本阿弥陀寺本。後土御門院論旨二通。後奈良院論旨一通。正親町院論旨二通。鎌倉六波羅御教書六三通。尊氏将軍御教書二通。太閤秀吉公御短冊。同御羽織紐。同御杯。吉田卜部二位殿御澄文一通。大内家澄文三通。毛利元就公隆元公吉川元春公小早川隆景公外毛利家御代々御書御澄文数十通当山懐古詩数十首親王公卿諸大名外唐人朝鮮人の作者なり。庭に雪舟築山あり。】
と記されています。特に現在ここに記された什物(十一面観音―安徳天皇御守本尊運慶作。建礼門院持尊佛ー定朝作。同三尊ー清盛持尊佛恵心僧都作。釈迦如来重盛持尊佛ー毘首羯磨作。安徳天皇御釼御入水の後御座より・・・。能登守教津経太刀上に同じ。)はどうなっているのでしようか?

他に何故か自筆の達筆な、真竜院のA安徳天皇絵説本があります。(真竜院は阿弥陀寺の一支院なのかも知れません。)

@Aがが伝わっています