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■ 71)足裏のくぼみを土踏まずと言います…よね〜!それでは手のひらの窪みを何と言うでしよう!…か?;礼拝は仏教においてのみ「らいはい」で、仏教以外は「レイハイ」。一番丁寧な礼拝方法が五体投地…です。東海道五十三次が定められた宿場の数の謂われは…?2014.9.23

それは、…たなごころ(掌)…です。

(画は【 click! 】で拡大表示)    

この画は「善財童子」が、伝巨勢金剛筆?と云われる「楊柳観音」を訪ねて、対岸から合掌して神妙に教えを請う姿。【28番目に歴訪した観音様を仰いで合掌する求道者。それは「*1.善財童子」。】
この画は純粋可憐な「善財童子」が、文殊菩薩の教導を受けて、仏の悟りを得るために発心して、文殊菩薩から始まって次々と五十三人の【*2.善知識(ぜんちしき)】を歴訪し、教えを請う途中、28番目に歴訪した観音様に逢えて合掌している姿です。
童子の頭は特異な髪形をしています。【*1.華厳経入法界品(にゅうほっかいぼん)に登場する菩薩(ぼさつ)の名。発心して53人の善知識(ぜんちしき)を歴訪し、最後に普賢(ふげん)菩薩に会って浄土往生を願ったという。仏法修業の段階を示したもの。【*2.善知識とは、善き友、真の友人の意で、仏教の正しい道理を教え、衆生を正しく導く者をいいます。悪知識とは、仏道修行を妨げ、悪法・邪法を説いて衆生を迷わせる者。「知識とは事物の認識や認知のことではなく、広く人々に知られている友人・知人や師匠等のことで、私たちに縁する者を意味します。】
【*1.華厳経は釈尊の悟りの世界をそのまま描いた経典。漢訳で80巻あり、唯識など大乗仏教のすべてを包含しているものです。中国で翻訳され、 後に華厳宗となる宝蔵大師がこれを広めた。終半の、40巻は:「入法界品」・・・善財童子(ざいぜんどうし)が、53人の師を訪ねての遍歴の物語です。】それは・・・文殊(もんじゅ)菩薩の励ましを受けて53人の師匠を訪ねる話で、その53人とは、「文殊菩薩をはじめとする優れた菩薩たちだけではなく、比丘(びく)、比丘尼、すなわち修行僧や女僧、あるいは少年少女,医師、長者、金持ち、商人、それから船子(船頭)、神々、仙人、外道(げどう)すなわち仏教外の人までいるのです。またバラモン、さらに遊女までも含まれています。道を求める心の前には、階級や職業の区別もない、宗教のちがいも問わないという、ひじょうに崇高な立場に基づいています。」
華厳経の教えとは、いろいろな場所に行き、様々な人に出会って善哉童子に負けないくらいの価値ある遍歴・遍路を目指すべきものだと思います。

「華厳」そのものの意は、
《仏になる修行を華にたとえ、その華で仏の位を飾る意》仏語。多くの修行・功徳 (くどく) を積んで徳果が円満にそなわり、仏になること。」なのです。 

東海道の五十三次(つぎ)は、善財童子が歴訪した善知識の数が語源(五十三人=五十三宿)となったと云われます。
調べたら五十三次は、今から400年程前の1601年(慶長6年)に、前年の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、幕藩体制確立のための諸施策のひとつとして制定した「伝馬制」に基づき、古代以来からあった「東海道」に53の宿場を設置し、街道筋でのいろいろな決めごとを制定したことから始まったと言われています。最初から五十三宿場あったわけでなく、江戸幕府の発展とともに数が増えていき、三代将軍家光のころに、最終的に五十三宿になったようです。芭蕉が言ったように、私たちの一生は旅に喩えられます。いろいろな場所へ行き、善哉童子にのように、様々な人に出会って、価値ある遍歴・遍路にしたいものです。尚、東海道は一般的に江戸と京を結ぶ品川宿〜大津宿の五十三次と呼ばれていますが、伏見・淀・枚方(当時は牧方と記した)・守口の四宿場を含め、五十七次で江戸〜大坂を結ぶ街道でした。しかし、京・大坂の二大都市を結ぶ区間は、人々が大坂から京へは京街道、京から大坂へは大坂街道と呼んでいたことや、安藤(歌川)広重や十返舎一九の作品で東海道五十三次の呼称が広まったため、東海道とは別の街道と思われるようになったということです。
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以下、日本大百科全書(ニッポニカ)の解説。
善財童子
ぜんざいどうじ

『華厳経(けごんきょう)』「入法界品(にゅうほっかいぼん)」の中心人物である求道(ぐどう)の菩薩(ぼさつ)。サンスクリット語のスダナ・シュレーシュティ・ダーラカSudhana-rehi-drakaの訳。福城長者の子であったが、発心(ほっしん)して、「愛着に執(とら)われ、疑いで智慧(ちえ)の目が曇り、苦しみ、煩悩(ぼんのう)の海に沈殿している私の目を覚ましてほしい」と文殊(もんじゅ)菩薩に願い、文殊の教えを受け、55か所・53人の善知識(ぜんちしき)(各自の道を究め、解脱(げだつ)への道を勧めるのにふさわしい人物)を歴訪して教えを受ける。53人のなかには、長者、医者、婆羅門(ばらもん)、外道(げどう)(仏教以外の宗教者)、また女性が20人もおり、先入観なしに謙虚に教えを受け、最後に弥勒(みろく)、文殊、普賢(ふげん)の三菩薩のところへ行き、真実の智慧を体得した。この故事より「東海道五十三次」が出たともいわれる。文学性の高い内容から、偈賛(げさん)、図説、文学の素材となり、『華厳五十五所絵巻』(東大寺蔵、国宝)、康円作文殊菩薩騎獅(きし)像(個人蔵)と安倍(あべ)文殊院の善財童子像(快慶作、国宝)はとくに著名。[石上善應]
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漢字源では掌は「手+音符尚」で、平らに広げた手のひらを表した会意兼形声文字です。広辞苑によれば、たなごころの「たな」は「ての」を意味するとあり、(タはテの古形。ナは助詞のノに同じ)手のひら(掌)。<手の中心の意>てのひら。手の裏。たなうら。とあります。
たなごころは「手の心」を意味します。
 掌(たなごころ=手の心)には、
@「こころ(心)は(中心)の意味、
A「うら(心)」と同源である「裏」の意味、
B中国の「掌」の意味の意訳の三通りの解釈があるようです。

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両手のたなごころを合すことを「合掌」と言います。他に手を「た」という言葉には「たむけ(手向け)」や「たおる(手折る)」などがあります。
掌(たなごころ=手の心)でなく、「手心(てごころ)」という言葉になれば、意味が全く別になりますよねー〜!。それは相手や事情に応じて適当に扱うこと。事情を考慮して普通よりゆるやかな扱いをすること。手加減。 「 −を加える」。手に受ける感じ。また,経験して覚えている具合や技術。身についたわざ=転じて事情に応じて物事を程よくあんばいすること。という具合になります。

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「たなごころ」を合すと、
・・・がっしょう【合掌(手と手を合わせてナ〜ム )】です。・・・
   
古歌に、
右仏 左は我と 合わす手の 仲ぞゆかしき 南無の一声 」
合掌と言うのは、仏と我等が一体となっていることを表しているのです。

左右の手のひらを胸または顔の前で合わせること。それは仏や菩薩などを礼拝するときの作法ですが、仏教徒の間では日常の挨拶にも用いられる。サンスクリットのアンジャリの訳。合掌は古くからインドで行われていた敬礼(きようらい)作法の一種で,それが仏教にも取り入れられたものです。即ち、インド人はものをつまんで食べる右手は清浄、左手は不浄を表すとみて、これら両手を使い分ける習慣があって、これが仏教でも取り入れられ右手を仏(聖なるもの)。左手は衆生(しゆじよう)を表すものとして、これらを合わせたところを、仏と衆生が合体した姿。すなわち成仏の相(そう)を表すものと考えます。
右手は仏の象徴で、清らかなものや知恵を表します。左手は衆生、つまり自分自身であり、不浄さを持ってはいる行動力の象徴。両手を合わせることにより、仏と一体になることや仏への帰依を示すものです。

「他人に向かって合掌をすることは、その者への深い尊敬の念を表すものです。」

合掌の基本の形には、
@両手と指をぴったり合わせる堅実心合掌。
A蓮の蕾のように緩やかに両手を合わせる蓮華合掌。
B両手の掌(たなごころ)を合わせ、右が上になるように十指の頭を交差させる帰命(金剛)合掌。
があります。

以上何れかの型で合掌し、*1.礼拝(らいはい)する。
*1.礼拝と書いて、仏教では(らいはい)と読み(言い)、キリスト教では(れいはい)と読み(いい)。神道では「拝む(おろがむ)」となるようです。
仏教=礼拝所(ら・い・はいしょ)
仏教以外=(れ・い・はいしょ)

=余話=
合掌バナナというのがあります。バナナの房が、両手を合わせたようにペアになっていて、合わさったその姿が合掌している手のように見えます。野球のグローブを合わせた姿に似ています。日本では主に観賞用で、生で食べることはほとんどなく、食材として使うには天ぷらにするか、茹でるかです。調理すると粘りが出て美味しいそうです。熱を加えて食べる調理用です。ねっとり感があるようです。

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「礼拝」の「礼」の読みには、「呉音」の[ライ]と「漢音」の[レイ]があります。
以下サーチ【search】
このうち、「呉音」(中国・六朝時代の南方―呉の発音といわれる)は、「漢音」よりも先に日本に伝わったとされ、比較的古い時代のことばや仏教用語の読みに多く用いられています。「礼拝」の読みも、仏教では「呉音」の読みの[ライ]を用いて[ライハイ]と読みます。
キリスト教やイスラム教では同じ「礼拝」でも「漢音」の[レイ]を用いて[レイハイ]と読みます。

 [ライ(呉音)〜] ライサン *1.礼賛
ライハイ 礼拝[仏教用語]
[レイ(漢音)〜]
レイセツ 礼節 ・レイセツ 礼式 ・レイハイ 礼拝(キリスト教など) ・レイボーコー 礼奉公(お〜)
*1.「礼賛(らいさん)」は、今では一般に「偉業や偉大さをほめたたえたり、ありがたく思ったりする」意味とされていますが、本来は仏教からきた語です。仏教用語としては「三宝(さんぼう)(仏・法・僧)を礼拝して(拝んで)、その功徳を賛嘆すること」を意味になります。

〓礼拝(れいはい、らいはい)は、宗教において神や仏などを拝むこと。〓
 〓仏教においてのみ「らいはい」で、それ以外は「れいはい」です。〓
     

仏教において仏の両足に頭を付けるのを仏足頂礼(ぶっそくちょうらい)といい、両手両足すべてを地に付けて礼拝します。仏教で最も丁寧な礼拝方法の一つとされるのが*2.五体投地(ごたいとうち)です。
「五体」とは頭と両手・両足の意。全身のこと。五体投地を行う宗旨は、天台宗・真言宗・黄檗宗・チベット仏教です。

【*2.五体投地】とは、
最高の敬意を表す礼法。五体すなわち両手・両膝・両肘(ひじ)・頭を地に着け,手と頭で相手の足を頂くようにする。接足礼拝(せつそくらいはい)。接足礼。頂礼(ちようらい)。挙身(こしん)投地のことです。
日本の宗旨における基本的な方法は、
1.礼拝する対象を向き起立したまま蓮華合掌をする。
2.合掌したまま一礼する。
3.合掌を続けたまま両膝をつく。
4.合掌を崩しながら手の指同士をつけたまま手のひらを上へ向け両手を体と垂直方向に前へ出す。
5.額を地へ付ける。
6.両手を耳の横の高さ程度まで上げた後に元に戻す。
7.起立して合掌を行い直る。

高野山真言宗では、上記 3. および 4. において、右膝・右ひじから、先に出す。4. の手の平を突き出す際、両手の親指と人差し指の先をつなげ、輪を作る。阿字観瞑想を行う前は、大日如来への帰依を示すために三礼します。