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■ 69)明治新政府の神仏判然令(神仏分離令)で、福仙寺と合併した、長門二宮「忌ノ宮」別当神宮寺の、長府沖に浮かぶ神の島・【満珠・干珠】満珠・干珠は、別名「金の島」・「銀の島」古来から神の島【満珠(満ちる珠)】;【干珠(干る珠)】の一考察。2013.7.11

(画は【 click !】で拡大表示)

画は、水族館の東側;関門橋の方、オットセイ・ペンギン・フク・イルカ・クジラ等のイルミネーションのオブジェ。


      一番奥のイルカは、群れた三匹のイルミネーションオブジェ。
   ペンギンの向こうのオットセイは、
    ≪「黄金の玉」を、頭に載せて芸を披露しているオブジェ。≫

「金色の玉」を画のように頭に載せて芸をしているのと、右寄りの遠くに三匹のイルカが群れているオブジェがあります。それをみてこのイルカたちの方には、銀の玉を取り合って、三匹が遊んでいる姿をイメージしました。
銀の玉を取り合っているイルカのことは、このオットセイが「黄金の玉」を頭に載せているのを見てからの連想です。
(実際のイルカのイルミネーションには、銀の玉はありません。)

夏の眠れぬ夜、昔むかしの神話の時代の『満珠(金の珠):干珠(銀の珠)』に、自然と想いを馳せてしまったので、その話をここに載せます。
「干る海」;「満ちる海」の話なので、少し涼しさを感じられるかもしれません。

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関門橋の更に東、長府城下沖には、有名な神の島『満珠(まんじゅ)・干珠(かんじゅ)』が浮かんでいます。長府沖に浮かぶ珠(玉)のような【満珠・干珠】は、古来から神の島なのです。幕末までは、長門二ノ宮と、その別当寺「神宮寺」の飛び地境内でした。
明治政府の神仏分離令で、現在は長門二ノ宮「忌宮;いみのみや」だけの飛び地境内です。
幕末までは行宮である豊浦宮「忌宮」は永く「神宮寺」という別当寺が全てを仕切っていました。明治の神仏分離令により「神宮寺」は【*1.】当山=福仙寺と合併。当山が「神宮寺」の本尊・寺宝・什物を預かる事になります。
【*1.】この寺。当寺。すなわち福仙寺の事。(寺には山号が付けられているため)

当時預かった厨子入りの仏たちは、
*2.】本地垂迹説で仲哀天皇の本地仏の十一面観音
神功皇后本地仏の如意輪観音。他に「神宮寺大師像」・幕末まで神宮寺が管理していた長府:四王司山の本当のご本尊“毘沙門天像”等があります。今ではこの四王司山の本当のご本尊“毘沙門天像”が当山にあることを知る人はなくなりました。それらは野久留米峠を越えて、大八車で移され、当山に祀られています。
 他の古文書・寺宝等は全て境内外に保存。
*2.】本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、
仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで 、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えです。

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有名な伝説に由来する満珠・干珠の金銀の珠(たま)が、一時当山にあったと言われていましたが 、今は失われています。
それは、満つる珠・干る珠の金銀の玉が潮の干満に合わせて、濡れたり乾いたりしていたと当山の伝承にあります。

満珠・干珠は神功皇后にまつわる長府沖近くに寄り添うように浮かぶ、小さな二つの小島で、忌宮神社の飛び地境内。
島の名の由来は、神話時代外敵がこの地に襲ってきた時、初めに干る珠を投げ込んで船を足止めし、船を捨てて干上がった地に徒歩で渡って来る敵人に対して、今度は満ちる珠を投げて、海の水を元に戻し、水攻めで敗退させたという神話にまつわるものです。
潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)から生まれたという伝説の島なのです。

日本書紀に出てくる「しおひのたま」「しおみちのたま」から取られた島名のようです。その金銀の珠の形は一般的な真丸の玉ではなく、仏教において様々な霊験を表すとされる宝の珠のことで、下部が球形で上部が円錐形に少し尖った形で表される【*ィ;】如意宝珠なのだと思います。
 【*ィ;】如意宝珠とは、
サンスクリットの[cintaamaNi]で、仏教において様々な霊験を表すとされる宝の珠のこと。サンスクリット語でチンターとは「思考」、マニは「珠」を指す言葉で「意のままに様々な願いをかなえる宝」という意味です。如意宝、如意珠、または単に宝珠(ほうゅ、ほうしゅ)とも呼ばれます。
如意宝、如意珠は、日本では一般的には、下部が球形で上部が円錐形に尖った形で表されます。

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海に物を投げて海が干上がる類いの伝説は他にもあります。
日本の中世の例として(新田義貞が要害・鎌倉を攻めた際、岬の西側から太刀を海に投げて神に祈ると、岬の前の海が干上がり、そこを海岸伝い東進して幕府を滅ぼしたという)伝説です。調べればもっとあるかもしれません。エジプトのファラオの軍勢に海辺へ追われたモーゼが、海の上に手を差し出すと水が分かれて道ができた。エジプトのファラオの軍勢に海辺へ追われたモーゼが、海の上に手を差し出すと水が分かれる、“海が割れた”という=「旧約聖書」=のエジプト記に記述されているこの有名なシーンも、これに似た類いかも知れません?。  
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長府の町は大化2年長門の国の国府と言うことで、長府と呼ばれるようになり、それ以前は豊浦(とよら)と呼ばれていた。西暦193年仲哀天皇・神功皇后により宮が築かれ、一時仲哀天皇が熊襲平定の際に滞在した7年間の【*3.】行宮である豊浦宮の跡都が在ったところ。

*3.】あん‐ぐう【行宮】とは、
《「あん(行)」は唐音》天皇の行幸のときに旅先に設けた仮宮=行在所(あんざいしょ)。》
【行】は「行燈(あんどん)」のあんのように、唐音読み。

ところが仲哀天皇がその最中亡くなり、その後宮の跡に神社が造立された。それゆえ古代の人は「忌;いみ」を感じて、「忌」を使った神社となったと考えられます?数多ある神社の中で「忌」の字を使った神社はここだけにしかありません。
仲哀天皇崩御のあと神功皇后が新羅を攻略して凱旋したことで知られる。
古来長門二ノ宮「忌宮神社」は戦勝祈願の宮(寺)となっていた。別当寺の「神宮寺」では、時の為政者の戦勝祈願として太元帥法の温座行(一時も座を冷まさないでする修法)が盛んに修せられていました。
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当山のある豊前田の町名は昔、豊前の国の飛び領地の田圃(細川家の領地)だったことからついたと云われ、寺がその中心で一丁目である。細川家の祈祷寺。幕末にその細川家が豊浦郡豊田町八道(やじ)から現地に移して現在に至る。八道も細川家の領地でした。
細川家は豊前小倉出であって、長府毛利藩の客家老。その細川家の奥方の打掛けで作った本堂内陣の柱掛けが今に一対保存されていて、その裏書きに本法院殿蓮乗妙華大姉・天明2年4月・神宮寺什物施主細川姓当山27世純照代とあります。

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   =・・・どちらが「満珠」?で、どちらが「干珠」?…なの!!・・・=

地図で調べたら、
@土地台帳では、沖の方が「干珠島」で、
A国土地理院の地図では、沖の方が「満珠島」となっていて、地図的には定説がないようです。
B今の「忌宮神社」の見解についは、国土地理院の地図と反対なのだ聞いたことがあります?
C元別当寺の「神宮寺」の寺伝では、どちらが「満珠」で、どちらが「干珠」と決めてはいなかったのです。

・二つで一つの「満珠・干珠」であり、切っても切り離せない「金銀の玉(珠)」=「満珠・干珠」その二つで神の島なのです。
所謂「金銀の玉(珠)」二つで、【満珠・干珠】の二島を「神の島」として象徴させているのです。

・「満珠・干珠」は不二と言えます。故にどちらが「満珠」で、どちらが「干珠」と決める必要はないのです。
それは潮が干る、満ちるで一つの自然現象だからなのでしよう!…か?。

・『満潮・干潮を金銀に喩え「満珠・干珠」と、古代の人は崇めたのかも!?。』
それ故か、当山に伝来していた金銀の珠(玉)は、「満潮になると共に湿り、汗をかいた様に潤い、共に干潮になると乾いていた」と云う伝承が寺にはあります。
日本で最古の水晶玉(水晶球)は日本書紀にかかれているこの水晶玉のようです。この水晶玉は、神宮皇后が海中から拾いあげたものといわれており神社の宝物となっていた。
これが【干珠】=【銀の珠】とも考えられます?。

・昔は、この島が「忌宮」の境内から、東によく見えたことでしょう!!。
今では海岸線に高い建物が出来たりで、見ることができません。
ここら辺りから二つの島がよく観え、日の出を背に受けて、古代人には二つの島が綺麗に、あたかも二つ並んだ「金銀の島」に輝き、神々しく“神の島”としても輝いて観えたのでしよう…か?
将亦(はたまた) 、古代人は、天空を渡る太陽の影(金)が海に映じたのを「満珠島」として観て、天空を渡る月の影(銀)が海に映じたのを「干珠島」として観た…のかも!?
あたかも神話の中での古代人の詩的な世界!?。みたいに!!!?

 「満珠・干珠」は金の島、銀の島。それに加え、二つは太陽の島、月の島という神々しい“神の島”?。源平の壇ノ浦合戦の時、ここに源氏が陣を張った所で知られています。

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明治までは『神宮寺=忌宮』の両方の飛び地境内でした。
明治の神仏分離令により、今は「忌宮」神社の単独の境内です。
その後、 
神宮寺はどうなったかと言うと、神宮寺は神仏分離令により廃寺になり、当山福仙寺と合併したのです。

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明治以前の神仏習合の時代は、【神宮寺】がお宮「忌宮」を含め、全ての実権を握っておりました。「忌宮」の当時の行事の時は、現存する古文書には寺が上席として示されています。図面に示された当時の席順は、藩主(藩主の使い)が一番の上席で、次が神宮寺住職、次の席が宮司でした。当時の席順は厳しいものでした。

神仏分離以後の下関の神宮寺はどうなったかというと、明治初年福仙寺と合併します。だから神宮寺の仏たち、満珠・干珠に由来する金銀の珠の宝物や、什物は全て当山に来ています。長府から当時の山陽道、*1.野久留米峠を通って馬車拾数台連ねて移したと伝わっております。*1.現在の山陽道(国道)は、前田造船所の辺りから、海岸沿いに伸びていますが、幕末のころは前田造船所の辺りから、左の山側に入る旧街道(野久留米)の峠越えをして、功山寺の前を通って、長府の城下に入っていました。昔は前田から東・現在の海側の国道はなく、浪打ち寄せる崖だったのです。

当山に来てから失われたものが多くあるようです・・・!その際たるものが 満珠・干珠の金銀の珠(たま)でしよう! 

皆さん、この金銀の玉(珠)の事を知っていましたか!?
その金銀の珠は、「満潮になると湿って汗をかいた様に潤い、干潮になると乾いていたと云う。神宮寺の伝説となってあったことを!」
 その珠(玉)が満珠・干珠に例えた、金銀の珠だったと言うのです!。たぶん満珠が金で干珠が銀だったのでしょう?満珠・干珠の二つで「金の島」・「銀の島」です。
「満珠・干珠」は、別名「金の島」・「銀の島」と言えます。それは神宮寺から伝わる伝説です。

先々代の住職さんの頃には存在していました。先代さんからお寺に在ったと、言われていたのを度々聞かされました。
やはり戦中・戦後のどさくさ?(当山には戦時中、大陸に物資を運ぶ、関東軍暁部隊が駐屯していた。先代の住職さんは招集されて戦地で留守)が原因なのでは…!!?と思っています。それ故現在では、この金銀の満珠・干珠にまつわる珠(たま)が在ったと言うことすら知る人は無くなりました。
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当山保存の古文書の地図を見ると、神宮寺は鳥居に向かって、手前丁字路角左、今は骨董店がある所です。(神宮寺の隣が宮司さんの居る宮司坊でした。)現在マンションがある処辺りまでが寺域でした。
現在の「忌宮」の境内はほぼそのままで、境内の外に「神宮寺」・「宮司坊」がありました。寺と宮司の掃除の担当区域が古文書の地図に示されています。
現在の正面鳥居(南向きの正面参道鳥居)前の丁字路角左が「神宮寺」・丁字路角右が「宮司坊」。道を挟んで鳥居前に隣り合わせにありました。ということは住職の住む寺も、宮司さんの住む住坊も、共に現在の忌ノ宮の境内の外にあったと言うことになります。

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『当山と神宮寺が合併出来、本尊・諸仏・宝物等を持ち出せたというのも、福仙寺が長府毛利家客家老細川家の祈願寺で、しかも細川家の領地内に有ったことにより、細川家の力が強く働いたものと思われます。』以上のことは所謂、明治政府の神仏分離令によるものです。全国にあちこち有る、神宮寺に「神主を兼帯していた僧侶に対して、還俗して神主になるよう通達。」が出されました。全国の神社神職は神祇官の管理化に置かれたのです。神仏分離は当時の国家権力で強引にされたものです。

■□■□■□■□■□■「神宮寺とは、」■□■□■□■□■□■
 
神宮寺の建立について、(以下数種の資料・事典を総合して) 
日本人が仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに神と人間を同列に位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱が欲しているという認識がされるようになった。715年には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国家レベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始め、満願禅師らによる鹿島神宮・賀茂神社・伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設された。また宇佐八幡神のように神体が菩薩形をとる神(僧形八幡神)も現れた。奈良時代後半になると伊勢桑名郡にある、現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依したいとの意思を示すようになった。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになった。

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下関で「神仏分離」により、大きく変貌した有名な真言宗の寺がニヶ寺あります。「阿弥陀寺」と「神宮寺」です。共に明治になり廃寺になりました。

以下の「阿弥陀寺」については、神宮寺という制度とはかなり違います。源平の壇ノ浦の戦いで、入水した安徳天皇を祀る。阿弥陀寺町の有名な赤間神宮は、幕末までは阿弥陀寺(勅願寺:真言宗の名刹)だったのです。この阿弥陀寺も神宮寺と同じように、明治になり廃寺になり、廃寺のあと、この阿弥陀寺は、明治になり廃寺になりました。廃寺のあと(天皇社→赤間宮→赤間神宮)と変遷したのです。今では町名だけが、阿弥陀寺町として残りました。 

有名な赤間神宮は、幕末まで勅願寺(ちょくがんじ)でしたから、明治になり直ぐ否応なく、国家の神仏分離令により直ぐ「天皇社」と改称され、明治8年に「赤間宮」・昭和15年「赤間神宮」と改称し、官幣大社になる経緯があったからです。
赤間神宮は、歴史のある古いお宮のように思えますが、以上のような経緯で、新生して歴史はまだ新しいのです。
 阿弥陀寺が廃寺になり 寺の物として何一つ存続しなかったのは、仏式(真言宗)により祀られていた安徳天皇稜が在ったのが最大の理由です。ある意味で、「神宮寺」より酷い状態だったと言えます。(神宮寺は福仙寺と合併でき 寺の物として残りまししたが…!)
「阿弥陀寺」の本尊や諸仏はどこに行ったのかはわかりません。寺宝等は今の「赤間宮」に受け継がれているようです?。幕末まで*.勅願寺(ちょくがんじ)でしたから 明治になり直ぐ 否応なく神仏分離令により「天皇社」と改称され 明治8年に「赤間宮」・昭和15年「赤間神宮」と改称し、官幣大社になる経緯があったからです。
 【*.勅願寺】とは、(以下数種の資料・事典を総合して)
現当二世(現世と来世)の安楽を祈願したり、特別に帰依した寺院を祈願所といいます。初めは薬師寺や国分寺のように、朝廷の勅命によって建立された官寺に限られていましたが、後に貴族・将軍・大名が祈願のために新たに創建したり、既在の寺院を指定したり、あるいは貴族・僧侶が建立した後に奏上された寺院もこのように呼ばれ、多くの祈願所が生まれました。これら祈願所のうち、天皇の勅令によって玉体安穏・鎮護国家を祈る寺院を御願寺(ごがんじ)・勅願寺といいます。この呼称は鎌倉時代以降、幕府建立の祈願所と区別する意味で起こったもののようです。
勅願寺の多くは、天皇宸筆の寺額(勅額)を掲げ、創建した当時、天皇の在世中は「今上皇帝聖躬万歳」などと書かれた。天皇の長寿を祈る位牌を崩御後は、冥福を祈る位牌(霊牌)が祀られます。

現在では赤間神宮・春汎楼が安徳天皇稜を挟んでいます。

以下【  〜  】内は 市ホームペジや諸資料の参考。
【阿弥陀寺は、「神佛分離令」に伴う廃仏棄釈によって廃寺となりましたが、その「庫裏(クリ;住職が住んでいる)の跡」は、近くの眼科医・藤野玄洋が買い取り、明治10年新たに月波楼医院を開業しました。
その後、妻のミチはこれを改造して、割烹を兼ねた旅館を開業しました。三棟あったこの店は、向かって右から月波楼・春帆楼・風月楼と呼び分けていました。その中の春帆楼という名称を伊藤博文が名付けたものだそうです。】 阿弥陀寺があった時は、今の赤間神宮・春汎楼や安徳天皇稜全て、お寺の境内だったのです。
赤間神宮は昔から在った様に思えますが、幕末まで赤間神宮という名前は、存在していませんでした。神社があったのは阿弥陀寺の鎮守としての鎮守八幡宮なのでは? 当山:福仙寺にも紅葉稲荷があった様に!昔は阿弥陀寺の辺りが、赤間ヶ関と言っていたので、その地名を取って「赤間宮」となり現在の「赤間神宮」に至っております。その2代の宮司さんが、高杉晋作・久坂玄瑞等の勤皇志士や、騎兵隊に経済的に援助した有名な豪商白石正一郎です。初代の宮司さんは、赤間神宮の前身の当時の阿弥陀寺住職が還俗して、大司氏と名乗り初代宮司となっております。その後の二代宮司が白石正一郎です。

赤間神宮境内の水天門左横に、
昭和五十年。 
高野山管長大原智乗大僧正揮毫による、
 「高野山無量寿院 阿弥陀寺跡」の碑が、建立されています 。
だから昔は、 
今の高野山本山以上に、格式のあった無量寿院(寿門)の直轄寺院だったのです。

無量寿院(寿門)の歴史は、 
宥快や長覚など高野山の歴史を代表する著名な学僧を輩出し、教学の興隆をもたらした高野山の二大門主寺院であった宝性院(宝門)と、無量寿院(寿門)が大正2年(1913)に合併し、旧無量寿院の境内に発足した学問寺院。新寺号は、宝性院から宝の字を取り、無量寿院から寿の字を取り、併せて宝寿院。(それぞれの門流から一字ずつを当てた宝寿院となりました。) 
 宝寿院は中世以来の両門の貴重な教書を多数所蔵し、境内には僧侶の教育指導機関である専修学院が設置されている。旧宝性院跡地は現在の大師教会です。(以上高野山Hpより。)
幕末までは阿弥陀寺は、境内に安徳天皇稜を持ち、梅の坊・青蓮坊・多聞坊・西福院・教順院などの支院を持つ大寺院でした。その始まりは、源平合戦・壇ノ浦の戦いで、海峡に沈んだ安徳帝御陵に朝廷が御影堂を建立したことによります。所謂勅願寺なのです。

赤間神宮が寺でなく昔から神宮であったなら、有名な「耳なし芳一」の怪談話はあり得ないことになります。