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■ 52)下関市に「阿弥陀寺町」と言う町名が有りますが 寺は何処にあるのでしよう?か2010.5.12

元「阿弥陀寺」と言う寺が有りました。 
その寺は慶応4年3月の「神佛分離令」に伴う、明治政府の排佛棄釈によって廃寺となりましたが、今では「阿弥陀寺」と言う町名と、同境内の「安徳天皇阿弥陀寺陵」にその名を偲ぶだけです。
寺名が町名になっているのは、全国に彼方此方あります。 
所謂阿弥陀寺の門前町だったのです。

(写真クリックで拡大表示)

社の裏の丘は紅石山(ベニシヤマ)。関門海峡を望むこの丘に抱かれています。
幕末の頃までは、勅願寺であった「阿弥陀寺」と言う真言宗の寺が有ったのです。
以下「阿弥陀寺」と、「赤間神宮」「春帆楼」の関係をお話しします。
画の左が寺の庫裏の跡に出来た春汎楼(薄オレンジ色の屋根・元ここには三っの割烹旅館がありました)。この春帆楼の前にある黒い屋根が、日清講和条約(下関条約)が行われた日清講和条約記念館です。:中央の白い塀に囲まれているのは、安徳天皇稜(この位置は御陵だから、昔から位置は変わりません。・寺であった時代は、安徳天皇御影堂;現在は正式名「安徳天皇阿弥陀寺陵」。その上に平家七盛塚。):右には朱塗りの竜宮造りの水天門。赤間神宮は戦災にあい、昭和三十三年に新しく造営られたもの。

阿弥陀寺町の源平の壇ノ浦の戦いで、入水した安徳天皇を祀る。
但し安徳天皇は(壇ノ浦で入水されたのではなく、官女の按察局伊勢に守られ、生きて筑後(筑後河畔;今の水天宮総本宮辺り、鷺野原の千寿院という寺院)で皇子を儲け、27歳で崩ぜられたと言う伝説もあるようです。;このことは久留米の水天宮総本社にお参りした時のパンフレットに、そう説明されていました。
又『平家物語』に安徳天皇は、実は女帝であったのではないかという疑念を、起こさせるような記述があることをもとにして、浄瑠璃・歌舞伎の「義経千本桜」などでは、女子であったという筋立てを採用しているのだそうです。他に落人となって行ったと言う伝説もあるようです。
これは義経伝説に似ています。
義経は衣川で奥州藤原氏の襲撃を受けて、自害したことが史実になっていますが、実は生きのびて東北・北海道から、更に中国大陸に渡ってジンギスカンになったという伝説があることは、衆知のことです。そのことに似ているのでは!?

有名な赤間神宮は、 
幕末までは阿弥陀寺(勅願寺:真言宗の名刹)だったのです。この阿弥陀寺は、明治になり廃寺になりました。 
廃寺のあと(天皇社→赤間宮→赤間神宮)と変遷したのです。今では町名だけが、阿弥陀寺町として残りました。
現在でも先帝祭(せんていさい)がありますが、お寺であった時代は、先帝会(せんていえ)と言っていました。せんてい(さい)→せんてい(え) 
   
幕末まで勅願寺(ちょくがんじ)でしたから、明治になり直ぐ否応なく、国家の神仏分離令により直ぐ「天皇社」と改称され、明治8年に「赤間宮」・昭和15年「赤間神宮」と改称し、官幣大社になる経緯があったからです。
赤間神宮は、歴史のある古いお宮のように思えますが、以上のような経緯で、新生して歴史はまだ新しいのです。

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以下、寺であった事がよく分かる話をします。
昔は寺だったという事を、支点にして、別の観点から見てみましょう。 
それを「耳無し法一」の怪談が書かれた経緯から・・・。
あの有名なお馴染みの(ギリシャ、レフカダ島の出身:ラフカディオ・ハーン;日本名=小泉八雲)の名作怪談の一つお馴染みの、「耳無し法一」(昔から伝わっていた民話を元にして書いた怪談話。)
『むかし昔、 
法一という琵琶の名手である寺僧が居て、ある時その法一は、阿弥陀寺の和尚さんがいない時に、訪れてきた壇ノ浦で滅んだ怨霊達に、平家の戦死者の墓の前に連れ出され、その怨霊達の前で演奏する事になる。源氏への怨念のこもる平家の貴族達は、法一の演奏した琵琶のもの悲しい音色・感情あふれる巧妙な語り口の「平曲」に涙する。それでまた夜毎演奏をしに来る事を、法一に堅く約束させました。幾日か経ち、和尚さんが寺へ戻った時法一は何者かに生気を吸われたように、訳分からなく萎えて疲れ果てていた。和尚さんはこれは何か取り付かれているに違いないと、法一に訳を聞き、夜こっそりつけて行ってみると、法一は貴族の屋敷ではなく、寺の境内に有る戦に破れた平家の武者の眠る墓前(実際に安徳天皇塚・平家七盛塚等がある)で、平家の亡霊達を相手に夜ごと演奏していた事がわかったと言う。」怖い話としてつくられている様に、これは寺内での話で、謂わば真言宗の寺で起こった話しとなっています。 
法一を救う為に、和尚さんが有り難い般若心経を、全身に書き込んだ。(しかし耳だけを書き忘れる。)その為に書き忘れた耳は引き千切られるのです。しかし身体だけは難を逃れて助かった。』と言うストーリー。(これはお経に偉大な功徳があることを、強調して教えた話しなのではないでしようか!ひよっとしたら、法一と言う実名の僧はいたかもしれませんね!)
この怪談の元ネタは、中国の宗の時代に既に有ったと云われています。それを何時の頃か日本的な民話にしたのです。そんな話からも、怪談の舞台はお寺だったと言うのが、よく分かります。これがお宮で、神主さんだったらどんな民話が出来、八雲はどんな話にしていたのでしようか?その事も興味深いです!そもそもこの類いの怪談話が出来なかったでしよう!

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現在では赤間神宮・春汎楼が安徳天皇稜を挟んでいます。
以下【  〜  】内は 市ホームペジや諸資料の参考。

【阿弥陀寺は、慶応4年3月の「神佛分離令」に伴う廃仏棄釈によって廃寺となりましたが、その「庫裏(クリ;住職が住んでいる)の跡」は、近くの眼科医・藤野玄洋が買い取り、明治10年新たに月波楼医院を開業しました。
その後、妻のミチはこれを改造して、割烹を兼ねた旅館を開業しました。三棟あったこの店は、向かって右から月波楼・春帆楼・風月楼と呼び分けていました。その中の春帆楼という名称を伊藤博文が名付けたものだそうです。】

阿弥陀寺があった時は、今の赤間神宮・春汎楼や安徳天皇稜全て、お寺の境内だったのです。
赤間神宮は昔から在った様に思えますが、 
幕末まで赤間神宮という名前は、存在していませんでした。神社があったのは阿弥陀寺の鎮守としての鎮守八幡宮なのでは? 当山:福仙寺にも紅葉稲荷があった様に!
昔は阿弥陀寺の辺りが、赤間ヶ関と言っていたので、その地名を取って「赤間宮」となり現在の「赤間神宮」に至っております。
その2代の宮司さんが、高杉晋作・久坂玄瑞等の勤皇志士や、騎兵隊に経済的に援助した有名な豪商白石正一郎です。初代の宮司さんは、赤間神宮の前身の当時の阿弥陀寺住職が還俗して、大司氏と名乗り初代宮司となっております。その後の二代宮司が白石正一郎です。
赤石山(べにしやま)には、白石正一郎の墓があります。幕末までは、真言宗で阿弥陀寺だったのです。赤間神宮の裏の丘は紅石山(ベニシヤマ)です。その関門海峡を望むこの丘(70b未満)に抱かれています。初代の宮司さんは、赤間神宮の前身の当時の阿弥陀寺住職が僧侶を辞めて還俗し、大司氏と名乗り初代宮司となり、その後の二代宮司が白石正一郎です。しかし、二代宮司の白石正一郎の墓は、紅石山にありますが、最後の阿弥陀寺の住職をしていて還俗し、初代宮司になった墓は、この紅石山にはないようです?やはり神仏分離令で、軽んじられたことが窺えます?

赤間神宮境内の水天門左横に、昭和五十年。 
高野山管長大原智乗大僧正揮毫による、
 「高野山無量寿院 阿弥陀寺跡」の碑が、建立されています 。
だから昔は、 
今の高野山本山以上に、格式のあった無量寿院(寿門)の直轄寺院だったのです。

無量寿院(寿門)の歴史は、 
宥快や長覚など高野山の歴史を代表する著名な学僧を輩出し、教学の興隆をもたらした高野山の二大門主寺院であった宝性院(宝門)と、無量寿院(寿門)が大正2年(1913)に合併し、旧無量寿院の境内に発足した学問寺院。
新寺号は、宝性院から宝の字を取り、無量寿院から寿の字を取り、
併せて宝寿院。
(それぞれの門流から一字ずつを当てた宝寿院となりました。) 
宝寿院は中世以来の両門の貴重な教書を多数所蔵し、境内には僧侶の教育指導機関である専修学院が設置されている。旧宝性院跡地は現在の大師教会です。(以上高野山Hpより。)
幕末までは阿弥陀寺は、境内に安徳天皇稜を持ち、
梅の坊・青蓮坊・多聞坊・西福院・教順院・真竜院などの支院を持つ大寺院でした。
その始まりは、源平合戦・壇ノ浦の戦いで、海峡に沈んだ安徳帝御陵に、朝廷が御影堂を建立したことによります。所謂勅願寺なのです。
今でも先帝祭が行われていますが、お寺だった時代は、「先帝祭(さ・い・)」→「先帝会(せんていえ・)と言っていました。

下関には廃仏稀釈で姿を消した。有名な寺が2ヵ寺有ります。
この「阿弥陀寺」と、長府二宮別当「神宮寺」です。この神宮寺は当山・福仙寺と合併し神宮寺のご本尊・什物は当山に来ています。
神宮寺のことは、当「ホームページ」の中のコンテンツ掲示板4)」の中に【4)長門二宮[忌ノ宮]の別当[神宮寺」(福仙寺と合併) & [赤間神宮]の前身「廃寺の阿弥陀寺」の事】として詳しくUPしています。

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=余話=
赤間神宮が現在の「水天門」形式で新しく建立されたのは、大洋漁業の創業者・中部家が、当時のクジラ二頭分の費用を寄付して、建立されたのだという話を聞いたことがあります?。よく分かりません。単なる噂さかもしれません?

=余聞=
安徳天皇は、(壇ノ浦で入水されたのではなく、官女の按察局伊勢に守られ、生きて筑後(筑後河畔;今の水天宮総本宮辺り)鷺野原の千寿院という寺院で、地の姫と皇子を儲け27歳で崩ぜられたと言うのがあります;このことは久留米の水天宮総本社にお参りした時のパンフレットに、そう説明されていました。)
そうすると、以下のように推測できます。
@下関の小瀬戸(小戸海峡)で、一般に云われている安徳帝は、当時の漁師(中島家)に拾われたと言うことは、どうなるのでしようか?それは「幼い安徳天皇に似た年頃の入水姿の替え玉なの?」!?!?
A「平家側と地元の漁師と組んで、入水姿を拾い上げたと言う作り話!?」だったのかも!?。
更に、
『平家物語』に安徳天皇は、女帝であったのではないかという疑念を起こさせるような記述があることをもとにして、浄瑠璃・歌舞伎の「義経千本桜」などでは、女子であったという筋立てを採用しているのだそうです。
他に落人となって行ったと言う伝説もあるようです。それが前述の官女;按察局伊勢に守られ、生きて筑後(筑後河畔;今の水天宮総本宮辺り)鷺野原の千寿院という寺院まで落ちのびたと云う伝説へ?。

※参考※(以下数種の資料・事典を総合して) 
《明治維新のおこなった、宗教政策の大転換………》
●王政復古をもとに明治政府は、祭政一致を目指し神社を国家統合の機関にしようと意図した。天皇の政治支配を正当化する根拠を「記紀神話」に求めたのである。神道だけが、ただひとつの国教として正当化した「日本は神の国」であったのである。

幼い天皇(当時15才)を補弼(ほしつ)している人々が、政治を壟断(ろうだん)しているという批判に対抗するため、天皇みずからが政治をするという体制を整える必要があったのである。そのため「王政復古」「祭政一致」の実現をめざした。

《神祇官(じんぎかん)を再興と神仏判然の沙汰…… 》
●明治元年(1868)3月13日「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が出された。全国の神社神職は神祇官の管理化に置かれたのである。神社が国民の戸籍を扱う国家機関のひとつとなったのである。

明治政府は祭政一致を実現するためにも、諸社と諸祭奠の調査を行うことになった。明治元年(1868)12月20日。「延喜式神名帳所載諸国大小神社」の取り調べを府藩県に命じ、「式外ニテモ大社之分旦即今府藩県側近等ニテ崇敬之神社」についても同様に申し出ることを命じた。

明治2年6月10日の「神職神葬祭」「神職継目」など主要神社精査に関する通達。その後15項目に渡る調査票につながるのである。慶応4年3月以降出された「神仏分離」の諸布告である。

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※勅願寺※とは、(以下数種の資料・事典を総合して)
現当二世(現世と来世)の安楽を祈願したり、特別に帰依した寺院を祈願所といいます。初めは薬師寺や国分寺のように、朝廷の勅命によって建立された官寺に限られていましたが、後に貴族・将軍・大名が祈願のために新たに創建したり、既在の寺院を指定したり、あるいは貴族・僧侶が建立した後に奏上された寺院もこのように呼ばれ、多くの祈願所が生まれました。これら祈願所のうち、天皇の勅令によって玉体安穏・鎮護国家を祈る寺院を御願寺(ごがんじ)・勅願寺といいます。この呼称は鎌倉時代以降、幕府建立の祈願所と区別する意味で起こったもののようです。
勅願寺の多くは、天皇宸筆の寺額(勅額)を掲げ、創建した当時、天皇の在世中は「今上皇帝聖躬万歳」などと書かれた。天皇の長寿を祈る位牌を崩御後は、冥福を祈る位牌(霊牌)が祀られます。

=参考=

「平家物語」は、
鎌倉時代に成立した、平家の栄華と没落を描いた軍記物語。

「平曲」とは、
琵琶法師が琵琶を奏で『平家物語』の詩章に節をつけて、語るのが平曲と呼ばれるものです。平曲は鎌倉時代に、仏性と言う盲人の法師が歌い始めたものと伝えられ、室町時代に全盛期を迎えますが、明治に入ると衰えた。
盲目の琵琶法師によって、琵琶を弾きながら語られ伝承された。これを「平曲」と呼ぶ。

福仙寺には版木本の「長州赤間関聖衆山阿弥陀寺略縁起」が保存されています。
@=それ当寺ハ行教和尚貞観元年宇佐八幡宮此地にあとをされ西海を鎮護すべしとの信託をこうむりて草創したもうところの霊場なり是によって弥陀の三尊を本尊とし八幡を鎮守とす…云々=最後に【※.㋑.】什寶目録が記されています。
【※.㋑安徳天皇木造―作者詳なら須。平家一族画像十帳ー狩野法眼元信筆。源平合戦画図八帳ー土佐時監光信。十一面観音―安徳天皇御守本尊運慶作。建礼門院持尊佛ー定朝作。同三尊ー清盛持尊佛恵心僧都作。釈迦如来重盛持尊佛ー毘首羯磨作。安徳天皇御釼御入水の後御座より・・・。能登守教津経太刀上に同じ。古筆平家物語諸人之筆長門本阿弥陀寺本。後土御門院論旨二通。後奈良院論旨一通。正親町院論旨二通。鎌倉六波羅御教書六三通。尊氏将軍御教書二通。太閤秀吉公御短冊。同御羽織紐。同御杯。吉田卜部二位殿御澄文一通。大内家澄文三通。毛利元就公隆元公吉川元春公小早川隆景公外毛利家御代々御書御澄文数十通当山懐古詩数十首親王公卿諸大名外唐人朝鮮人の作者なり。庭に雪舟築山あり。】
と記されています。現在この什物はどうなっているのでしようか?

A自筆の達筆な、真竜院のA安徳天皇絵説本があります。(真竜院は阿弥陀寺の一院なのかも知れません。)

@Aがが伝わっています