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■ 69)昔、遣唐使船団は「第一船に(空海の乗った船)」と、「第ニ船の(最澄が乗った船)」と、続いて「第三船・第四船」の四艘が、関門海峡を通り、平戸から、空海は唐の長安に向い、最澄は天台山に赴いたのです。2014.8.15

海峡;あるかポートに寄港した帆船。当山(福仙寺)から、ここまで徒歩20分。
=手前が「海王丸」・その後ろ「日本丸」=
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海峡の真上にはトンビが舞って、二隻の接岸を歓迎していました。
海王丸と日本丸は姉妹船。海王丸は「海の貴婦人」で、日本丸は「太平洋の白鳥」と呼ばれています。
(画は【 click!】で拡大表示)
この日はあいにく雨で、岸壁に停泊したまま帆を張る訓練、「セイル・ドリル」や、航海訓練を行っている実習生全員が、離岸時に港や歓送者に対して感謝の意を表し、白い実習服・黄色高所作業帽子に身を包み、マストやヤード(帆を取り付ける横方向の桁)に登り、脱帽の上「ごきげんよう」を三声する練習帆船最高儀礼の登檣礼(とうしょうれい)は行われませんでした。残念…!!!晴天の蒼い海峡に、二艘とも純白に総帆展帆されると、さぞ優美な姿だったでしょ…!に…!!。
*1.・・・掲示板15)海峡ゆめタワー展望台(143b)からの ニュース 其のE(東)側
*2.「おしらせ」34)帆船『海王丸』が 帆をまんぱいに張って「セールドリル」(総帆展帆)・・・関門海峡に美しい姿・・・):関門橋が見える風景(その3)
*3.・・・掲示板77)関門海峡の<海の貴婦人・太平洋の白鳥>「日本丸」:「日本丸」の名を初めて使った船は九鬼水軍の海賊船。お大師さん(弘法大師・空海)も帆船の一種である遣唐使船で留学入唐。
以上*1.*2.*3.に、「日本丸」と「海王丸」の総帆展帆の写真をアップしています。*1.*2.からは、古代の人が「穴門(あなと)」呼んだ関門海峡の形状もよく分かります。
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山口県西部・北部の西半分が「長門」の国です…よね〜!ー
「長門」は関門海峡の古名=穴戸(あなと)からきています。また,昔の長門の国一帯の古名です。「あなと」が訛って「ながと」に…!なったのでしよう…!か?。
「穴(あナ・)が・門(ト・)」(ナ・が・ト・=ながと)と読んだという説もあります。長門国(ながとのくに)は、かつて古代日本の地方行政区分だった【*.4】令制国の一つです。
【*.4】令制国(りょうせいこく;りつりょうこく)は、7世紀後半から明治時代までの日本国内の地方行政区分、国(令制国)。令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。

調べてみたら「長門」のことは、最古は「穴門(あなと)」と呼ばれ、「穴戸(あなど)」と書くこともあり、『日本書紀』には、大化6年(650年)穴戸の国司が白雉を献上したとされ、天智4年(665年)には長門国が初見されることから、この間に穴門(あなと)から→長門(ながと)に変化してから改められたと考えられるのだそうです。
「穴門」とは「関門海峡」の地形からくる形状を指します。日本神話にも「穴戸神」の名が見えるようです。

古代人は「自然の地形が迫った狭い関門海峡の形状から穴門」と呼び、後に「広範囲な地域山口県の西半分を指して訛って長門」と呼ぶように変化して行ったのでしよう…?。それで長門の国と呼ばれ出した。東半分が周防です。
「陸奥」とともに本州の端に位置し、戦艦の名前ともなっています。
地図を観たり、実際に海峡に立ってこの関門の地形を見れば、古代の人が穴門と呼んだのも頷けます。
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   〓804年、空海・最澄を乗せた第十六次遣唐使は難波から出航しました。〓
その遣唐使船団には、第一船に(空海=弘法大師の乗った船)と、第ニ船の(天台宗=最澄が乗った船)とが、この関門海峡(当時は穴門“アナト海峡”と言った)を同じ船団で通り唐に向かいました。
第一船、第二船、第三船、第四船。四艘船団を編成して、【*1.難波津】を出立して瀬戸内海を航行して、この関門海峡を通り、船団は804年7月、【*2.肥前国田浦(現在の平戸・田浦港)】から四隻の遣唐使船が出航し、風待ちをして一気に、長江の河口に向けて西進し、中国の古都長安 (現在の西安の古名)を目指しました。
その年のこの船団は、唐に着くまで第三船は嵐に耐え兼ねられず、日本にひき返し、第四船は遭難して、海の藻屑となり消えてゆきました。遣唐使当時、四艘船団を組み、どれか一船でも辿り着けたらいいという覚悟で船団を出していたようです。
『(空海=弘法大師)の乗った第一船』は嵐のなか更に南へ逸れて流され、現在の福建省霞浦県赤岸村に漂着します。四艘の内、『(天台宗の最澄)が乗った第二船』だけが辛うじて、ほぼ予定地に到着します。それほど遣唐使時代は、命がけの渡海だったのです。
【*1.上代、難波江にあった港。また、大阪港の古名。】上代は大阪城辺りまで海が入り込んでいたので、瀬戸内海に出る港としていた。
(津=港のこと)難波津(なにわつ)は、現在の大阪難波駅・天王寺・通天閣辺りです。
【*2.】804年7月、肥前国田浦(現在の平戸・田浦港)から四隻の遣唐使船が出航し、その船で渡唐したという記録が残っているようです。
「肥前田ノ浦」を出港した四船遭難の様子を録した空海の「性霊集」の文があります。。『性霊集』に残る有名な「大使、福州ノ観察使ニ与フル為ノ書」です。
その全文は以下サーチして、
賀能啓ス。高山澹黙ナレドモ、禽獣労ヲ告ゲズシテ投リ帰キ、
深水言ハザレドモ、魚龍倦ムコトヲ憚ラズシテ逐ヒ赴ク。
故ニ能ク西羌、険シキニ梯シテ垂衣ノ君ニ貢シ、
南裔、深キニ航シテ刑ノ帝ニ献ズ。
誠ニ是レ明ラカニ艱難ノ身ヲ亡ボスコトヲ知レドモ、
然レドモ猶命ヲ徳化ノ遠ク及ブニ忘ルルナリ。
伏シテ惟レバ大唐ノ聖朝、霜露ノ均シキ攸、皇王宜シク宅トスベシ。
明王武ヲ継ギ、聖帝重ネテ興ル。九野ヲ掩頓シ、八紘ヲ牢籠ス。
是ヲ以テ我ガ日本国、常ニ風雨ノ和順ナルヲ見テ定ンデ知リヌ、中国ニ聖有スコトヲ。
巨棆を蒼嶺ニ刳メテ、皇華ヲ丹ニ摘ム。蓬莱ノヲ執リ、崑岳ノ玉ヲ献ズ。
昔ヨリ起テ今ニ迄ルマデ、相続ヒテ絶ヘズ。
故ニ今、我ガ国主、先祖ノ貽謀ヲ顧ミテ今帝ノ徳化ヲ慕フ。
謹ンデ太政官右大弁正三品兼行越前国ノ太守、藤原朝臣賀能等を差シテ、
使ニ充テテ国信別貢等ノ物ヲ奉献ス。
賀能等、身ヲ忘レ命ヲ銜ミ、死ヲ冒シテ海ニ入ル。
既ニ本涯ヲ辞シ、中途ニ及ブ比ニ、暴雨帆ヲ穿チ、風柁ヲ折ル。
高波漢ニ沃ギ、短舟裔々タリ。
凱風朝ニ扇ゲバ、肝ヲ耽羅ノ狼心ニ摧ク。北気夕ニ発レバ、胆ヲ留求ノ虎性ニ失フ。
猛風ニ頻蹙シテ、葬ヲ鼈口ニ待ツ。驚汰ニ攅眉シテ、宅ヲ鯨腹ニ占ム。
浪ニ随テ昇沈シ、風ニ任セテ南北ス。
但ダ天水ノ碧色ノミヲ見ル。豈ニ山谷ノ白霧ヲ視ンヤ。
波上ニ掣々タルコト、二月有余。水尽キ人疲レ、海長ク陸遠シ。
虚ヲ飛ブニ翼ヲ脱シ、水ヲ泳グニ鰭ヲ殺ス、何ゾ喩ト為スニ足ラン哉。
僅カニ八月ノ初日ニ、乍チニ雲峯ヲ見テ欣悦極罔ス。
赤子ノ母ヲ得タルニ過ギ、早苗ノ霖ニ遇ヘルニ越エタリ。
賀能等万タビ死波ヲ冒シテ、再ビ生日ヲ見ル。
是レ則チ聖徳ノ致ス所ニシテ、我ガ力ノ能クスル所ニ非ズ。
又大唐ノ日本ニ遇スルコト、八狄雲ノゴトクニ会ヒテ高台ニ膝歩シ、
七戎霧ノゴトクニ合ヒテ魏闕ニ稽スト云フト雖モ、而モ我ガ国ノ使ニ於テハ、
殊私曲ゲ成シテ待スルニ上客ヲ以テス。
面リ龍顔ニ対シテ自ラ鸞綸ヲ承ル。佳問栄寵已ニ望ノ外ニ過ギタリ。
夫ノ璅々タル諸蕃ト豈ニ同日ニシテ論ズベケンヤ。
又竹符銅契ハ本姧詐ニ備フ。世淳ク、人質ナルトキハ文契何ゾ用イン。
是ノ故ニ我ガ国淳樸ヨリ已降、常ニ好隣ヲ事トス。
献ズル所ノ信物、印書ヲ用イズ。遣スル所ノ使人、偽有ルコト無シ。
其ノ風ヲ相襲イデ今ニ盡クルコト無シ。
加以ズ使乎ノ人ハ必ズ腹心ヲ択ブ。任ズルニ腹心ヲ以テスレバ、何ゾ更ニ契ヲ用イン。
載籍ノ伝フル所、東方ニ国有リ、其ノ人懇直ニシテ礼義ノ郷、
君子ノ国トイフハ蓋シ此ガ為カ。
然ルニ今、州使責ムルニ文書ヲ以テシ、彼ノ腹心ヲ疑フ。
船ノ上ヲ撿括シテ公私ヲ計ヘ数フ。斯レ乃チ、理、法令ニ合ヒ、事、道理ヲ得タリ。
官吏ノ道、実ニ是レ然ルベシ。
然リト雖モ遠人乍チニ到テ途ニ触レテ憂多シ。
海中ノ愁猶胸臆ニ委レリ。徳酒ノ味未ダ心腹ニ飽カズ。
率然タル禁制、手足厝キドコロ無シ。
又建中以往ノ入朝ノ使ノ船ハ、直ニ楊蘇ニ着ヒテ漂蕩ノ苦シミ無シ。
州県ノ諸司、慰労スルコト慇懃ナリ。左右、使ニ任セテ船ノ物ヲベズ。
今ハ則チ、事、昔ト異ナリ、遇スルコト望ト疎ソカナリ。底下ノ愚人、竊ニ驚恨ヲ懐ク。
伏シテ願ハクハ遠キヲ柔クルノ恵ヲ垂レ、隣ヲ好スルノ義ヲ顧ミテ、
其ノ習俗ヲ縦ニシテ常ノ風ヲ怪マザレ。
然レバ則チ涓々タル百蛮、流水ト与ンジテ舜海ニ朝宗シ、
々タル万服、葵ト将ンジテ以テ堯日ニ引領セン。
風ニ順フ人ハ甘心シテ逼湊シ、腥キヲ逐フ蟻ハ意ニ悦ンデ駢羅タラン。
今、常習ノ小願ニ任ヘズ。
奉啓不宣。謹ンデ言ス。

これを読んだ福州の刺史兼観察使(巡察使)の閻済美は、書風・修辞・内容ともにずばぬけた異国の僧空海の文章力に驚嘆し、すぐさま州吏に命じ先ず船の封印を解き全員を船のなかに保護した。さらに宿舎を13棟も建ててそこに住まわせ、充分な食糧を提供した。同時に使いを長安に急行させ、事の次第を報告するとともに取扱いの指示を仰いだ。
使いは39日後に帰ってきて、一行を国賓として鄭重に遇せよとの勅命が下った。閻済美はじめ州官吏の態度と待遇は一変したと言います。

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      ┏現在の進化した下関に寄港した帆船写真を撮りに行った時、
   上記の【昔の「遣唐使時代の遣唐使帆船]のこと】を想起しました┓

 以下、サーチ【search】しながら、
初期の遣唐使船は、朝鮮半島の西岸沿いを北上する北路をとっていたようで、比較的安全だったようです。その時のコースは、対馬経由で行ったのでしようか?
しかし新羅との関係が悪化した8世紀からは、東シナ海を横断する南路が取られるようになります。これは北路に比べ、外海を突っ切ることから遭難する事が多かったようです。
遣唐使船は、この日本丸と海王丸が接岸している「関門海峡」を、二艘の帆船の舳先の方(西)に進んだはずです。(関門橋が見える方が東=瀬戸内海方面)
そのころの遣唐使船は、大阪・住吉大社で海の安全を祈り、【難波津】を出立して瀬戸内海を航行して、関門海峡を通り、船団は延暦23年(804)平戸島の田浦で風待ちをして、五島福江島から最後の飲料水を積んで、一気に東シナ海を横断し、長江の河口に向けて西進し、中国の古都長安 を目指す東シナ海に出るコースに設定されていました。 

         ┏━[奈良・平安朝の遣唐使船も帆船。]━┓

 以下、サーチ【search】帆船の進化(遣唐使船と現在の帆船)
遣唐使船の帆は、「網代帆(あじろほ)」と呼ばれるもの。マストは二本で、竹や葦を薄く削ったものを平に編んで繋ぎあわせています。布製と比べても性能はあまり劣りませんが、ただ風が網目から抜けてしまうのと、重いのが欠点なのだそうです
当時は18回出港したが、無事任務を果たして帰ってきたのは、たったの8回だと言われています。当時は無事帰国の保障も無く命がけの渡航です。帆船と言っても、当時はジャンク船型。船底いっぱいに幅の広い厚い板を横に使ったもので、不安定でした。遣唐使船が四隻なのは、どれか一隻でも中国に着くためだったといわれます。1隻に120人ほど乗っていて、はじめのころは、1隻か2隻の帆船で渡海したが、8世紀にはいると4隻となり、多い時は船団一行全員で500〜600人にもなった。だから経費は莫大でした。
藤原道真の頃、道真の進言により、遣唐使は廃止されます。
理由は、以下【search】
@唐の争乱・唐の国力の衰退していたから…。
A航海の危険性。財政の困難、遣唐使の派遣にもお金がかかったから…。
さらには、
B唐の文化をすでに吸収し、大陸からもはや学ぶものが無くなって、完全に日本化できていたから…?。
C航海の危険性が大きいことに加えて、新羅の海賊がばっこしていること。危険な航海によって優秀な人材が失われることは国家の損失であるとしたこと。
また、
D道真はすでに民間貿易によって大陸文化が豊富に輸入されていたことから、危険を冒してまで、衰退期にある唐に行って学ぶべきことがないことや、国内における深刻な財政難を考慮したのが主な理由で中止したといわれます
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遣唐使船の大きさは長さが30m、幅7〜9m、帆柱2本で平底箱型。箱型船で竜骨の無い船なので海が荒れると破砕されやすかったようです。
平安時代もずっと終わりに近い時代まで、そのジャンク船型が日本の大型船として国外と交流を行っていたようです。こうした多くの危険があるにもかかわらず、派遣される人物には、貴族の子弟のすぐれた人物が選ばれ、留学生や学問僧も、傑出した人材が選ばれた。そのため入唐経験者のなかには、帰国後にわが国の政治や文化に、かけがえのない役割をはたした山上憶良・吉備真備・最澄・空海といった人物が多くみられます。
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遣唐使が帰国の際に伴ってきた鑑真をはじめとする多くのすぐれた渡来人や文物は、わが国の政治や文化の発達に大きく貢献します。現在まで伝えられている日本文化の基底は、この遣唐使船に乗っていった人々や、その人々がもたらした文物によって築かれたといっても、言いすぎではないようです。3〜5世紀には、日本でもすでに簡単な帆が使用されていたようですが、本格的に帆が用いられるようになったのは、7〜9世紀(奈良時代〜平安時代)にかけて中国へ渡った「遣唐使船」からです。中国のジャンクに似た120〜150人乗りの船でした。ただ、遣唐使船は構造的に未完成なもので、また航海に際して季節風を知らなかったりといった航海術も未熟だったため、多くの遭難船を出したことで知られます。

     ┏━[弘法大師:空海も留学僧(るがくそう)として、
            遣唐使船で入唐(にっとう)されました]━┓
 
空海は私費留学。最澄は官費留学でした。

以下、サーチ【search】
当時の遣唐使船は、「四つの船」といわれ、四艘の船団からなっていました。
当時、、【難波津】を出立して瀬戸内海を航行して、関門海峡を通り、船団は遣唐使船の九州本土の寄港地・平戸港まで行き、平戸→五島福江から風待ちをして一気に、長江の河口に向けて西進し、中国の古都長安(現在の西安) を目指す東シナ海に出るコースに設定されていて、これはいったん天候が悪くなると影響を強く被る難路でした。その年のこの船団は三船・四船は遭難し、海の藻屑となりましたが、第ニ船の「最澄」が乗った船は、無事上陸地:明州(又は揚州)に到着します。遣唐使節の乗る第一船の「空海」の乗った船は、嵐のなか更に南へ流されて、漂着したのは福州長渓県赤岸鎮(現在の福建省霞浦県赤岸村)でした。
暦は8月10日になっていました。事情を説明するため大使の葛野麻呂は、福州の長官に嘆願書を出しました。『御遺告[48]』によれば、大使の文章では、かえってますます密輸業者・海賊の嫌疑をかけられました。唐では文章によって相手がいかなる人物であるかを量る習慣がありました。困り果てた大使は、空海という無名の留学僧(るがくそう)が名文家であることを教えられ、空海に代筆させたところ、その名文、名筆に驚いた福州の長官は、即座に遣唐使船の遭難を長安に知らせたとい謂います。このときの空海の文章は『性霊集』に遺っています。弘法大師の嘆願書で嫌疑が晴れ上陸が可能になりました。。

司馬遼太郎は『空海の風景』の中で、「この文章は、空海という類を絶した名文家の一代の文章のなかでも、とくにすぐれている。六朝以来の装飾の過剰な文体でありながら、論理の骨格があざやかで説得力に富む。それだけでなく、読む者の情感に訴える修辞は、装飾というより肉声の音楽化のように思える。」と記しています。

入唐時最澄には弟子の通訳がついていたようですが、空海は通訳がなくとも自分で充分話が通じていたようです。

天平宝字3年(759)の第13回から最後の第19回までは、平戸から五島列島へ渡り、五島(福江島)から、一気に東シナ海を西に向かう航路(南路)を取るようになります。この航路の航海も、島が無い大洋を渡る危険なものでしたが、遣唐使船の作りが脆弱だった事もあり、航海の安全性を低下させました。それでも中国に渡って進んだ文化を学ぼうという者は後を絶たず、その中には天台宗を開いた最澄や真言宗を開いた空海(弘法大師)も居ました。二人が乗り込んだ第18回遣唐使船は、延暦23年(804)平戸島の田浦を発し、五島福江島から東シナ海を横断し、華南の福州や明州(寧波)に到着し、帰途も明州から出港しています。

  ┏━━━━━[日本丸と最初に命名されたのは九鬼水軍の海賊船]━━━━━┓

以下、サーチ【search】
日本では船の名前に、よく「・・丸」と付けられます。
日本丸 (九鬼水軍)という最初の命名について、サーチ【search】してみました。
古くは文禄の役に参加した*1.安宅船の九鬼水軍「日本丸」があるようです。当時の九鬼水軍当主九鬼嘉隆自らが設計にあたり、元の名は「鬼宿(きしゅく)丸」と呼ばれていたが、その偉容に感じ入った豊臣秀吉により「日本丸」と命名されたといわれます。志摩国鳥羽藩は、九鬼氏(戦国時代日本で有数の海賊にして水軍)から初まる鳥羽藩は、
最初は九鬼氏(毛利を破った日本でも有数の海賊にして水軍)が二代続き、二代で終わる。兄弟船に「波切丸」(なきりまる)など同型艦が数隻有った。異説では、九鬼嘉隆は織田信長の命により、世界最初の鉄甲船を数隻作っており、その中の1隻がこの日本丸であるともされるが、この説では信長による命名となる。
*1.安宅船(あたけぶね)は、室町時代の後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた軍船の種別。大きさは全長は151.5尺(約46m)、全幅29尺(約9m弱)、千五百石積み、百挺櫓で将士・水主(かこ)を合わせて180人が乗り組んだとい謂われ、大きさについては全長十五間(約27m)、幅五間(約9m)との異説もある。甲板上に三層の楼閣を設け、大筒を三門備えた当時としては類を見ない巨船であった。帆は順風の時のみに使用し、漕走を主とした。

文禄の役では九鬼水軍の旗艦として数度の海戦に参加しており、『志摩軍記』には朝鮮勢の攻撃を寄せ付けないその偉容ぶりが記されている。同役では多数の船舶が失われたが、日本丸は生き残り日本に帰還している。のち鳥羽に回航され、九鬼氏の後に鳥羽城主となった内藤伊賀守忠重によって500石積み60挺立の船に縮小改造の上「大龍丸」と改名された。