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■ 54)〓【:絵画素人“迷”鑑賞:】〓・・・「沈南蘋」シン(チン)ナンピンの画・・・「海鶴榴桃の図」・・・2012.4.4

重厚な二重箱の箱書きには、沈南蘋筆「海鶴榴桃之図」とありますが、旭日が印象深く目につくように描かれているので、画題としては、「旭日海鶴榴桃之図」のほ方が当たっているように想います。
(画はクリックで拡大)。(+)の時更にクリックで拡大。

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〓志摩国鳥羽・幕末最期の藩主・稲垣長敬から拝領。明治三年正月三日に、鳥羽藩旧家老・朝日奈氏から届けられたもの。〓
特に軸の縦が長く仕立てられております。鳥羽城内のどこかに掛けられていたものでしょう。
絹本で、南蘋沈銓(ナンピンシンセン)という落款があり、その下に篆刻・□印が二ツ押され、左下には□印が一ツ押されています。
以下「沈南蘋」でサーチ【search!】
沈銓 【しんせん】 〈ちんせん〉とも。中国,清代中期の画家。生没年不詳。浙江省呉興の人。字を衡之,号を南蘋(なんぴん)といった。中国本国では沈銓として知られるが、日本では「沈南蘋」…シン(チン)ナンピン…で知られています。
長崎に2年間ほど滞在しており、中国では時代遅れとなっていましたが、精緻な描写と濃密で、華麗な彩色が当時の日本の画家たちに、新しい気風をもたらした事はとても有名で、池大雅、与謝蕪村、円山応挙、伊藤若冲、曽我蕭白ら、個性豊かな画家たちが活躍する京都、大坂へ伝わり、多大な影響を与える。享保16(1731)年12月3日,長崎に渡来したのは,江戸幕府の要請と伝える。しかし幕府は長崎奉行に中国の名画やその模写の請来を求めていたのに,唐船主側の判断で南蘋の来航となったようで,幕府の思惑とずれていた。そのため南蘋は,約2年間の滞日中1度も江戸に招かれず,長崎にとどまって,18年9月18日帰国。南蘋の帰国後,その人気はますます高くなったが,南蘋は二度と来日せず,代わりに弟子の高乾,高鈞,鄭培らが来日。南蘋自身は中国から画を送り続けた。現存する南蘋画の多くは帰国後の制作のようです。
将軍吉宗は南蘋の濃彩画を気に入ったらしく、沈銓帰国後に南蘋画を輸入させた際、地味な薄色や墨の画を差し戻したという逸話が残っているようです。如何にも将軍好み?の画。

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〓明治三年正月三日に、鳥羽藩旧家老・朝日奈氏から届けられたもの。〓
二重箱の中箱の蓋裏には、
「拝領 鳥羽城主稲垣長敬公藩知事ニ任命之砌」とあり、“鳥羽藩旧家老・朝日奈氏が届けた”ことや、“明治三年正月三日”の日付のことは、二重箱の中箱内に有る書付に記されています。二重箱の内側の中箱の蓋裏には、「拝領 鳥羽城主稲垣長敬公藩知事ニ任命之砌」とあり、その二重箱の箱の底には、何故か大判の三つ葉葵紋を織り込んだ表装裂が貼られています。その葵紋がどうして貼られたかを考えてみました。
そのことは、
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:      ━━━:沈南蘋絵画素人“迷”鑑賞:━━━       :
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明治2年(1869年)6月の版籍奉還で、鳥羽藩知事に任じられたその翌年に、元城主稲垣長敬公から拝領したもの。この画幅を届けたのは、鳥羽藩旧家老(最後の家老・朝日奈氏)
志摩国鳥羽は、幕末最期の藩主が【*2.】稲垣長敬です。
以下、サーチ【search】
志摩国鳥羽藩は、鳥羽藩は江戸時代,志摩国 (三重県) 鳥羽地方を領有した藩。
秀吉を苦しめた九鬼氏(戦国時代日本で有数の海賊にして水軍)から初まり、家督争いが起き、それぞれが転封(てんぽう)=国替(くにがえ)されてしまい二代で終わる。次に内藤氏の三代で終わり、又短期間の幕府領となる。、さらに土井氏・松平氏・板倉氏が各一代と、最後に稲垣氏が八代続く。藩主が目まぐるしく変わった小藩です。
明治の版籍奉還で、長敬公は鳥羽藩知事を免官され、鳥羽藩は鳥羽県となり、その後三重県に編入されます。
【*2.稲垣 長敬(いながき ながひろ)は、志摩鳥羽藩の第8代(最後)の藩主。明治維新後は子爵。鳥羽藩稲垣家12代。】
以下、サーチ【search】
嘉永7年(1854年)7月12日、第6代藩主稲垣長明の次男として生まれる。明治元年(1868年)、兄で第7代藩主の長行が早世したため、その養子として家督を継いだ。明治2年(1869年)6月の版籍奉還により藩主を免官され、直ぐ鳥羽藩知事に任じられれる。後藩は鳥羽県となり、その後、【*3.】度会(わたらい)県を経て1876年三重県に編入された。 後に稲垣長敬公は、慶應義塾に入り大学部を卒業した。
【*3.度会・渡会(わたらい)】=【*3.三重県伊勢市を中心とした地域の旧地名。
古くから伊勢神宮の【*4.神郡(かみごおり)であった。1871年(明治4)に度会県となり,76年に三重県に合併。】
【*4. 神郡(しんぐん/かみのこおり)は、日本の律令制下において一郡全体が特定の神社の 所領・神域として定められた郡。社領(神領)の一種で、郡からの収入はその神社の修理 ・祭祀費用に充てられた。】

稲垣長敬は、大正9年(1920年)8月30日に死去。享年67。

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【 当山の〓仏画・小仏像・絵画・什物等〓は、全て境内外(寺外)に保管、保存しております。】
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 1. 輝く旭日。
 2. 旭日昇天。
 3. 種が多いことから、子孫繁栄、豊穣のシンボルとされる柘榴(ざくろ)。
 4. 古来邪気を祓う力があると云われる桃。
 5. 豊かなみず海。豊饒の海。
 6. 長寿(千年)の象徴とされている鶴。
 7. 極彩色の絵
 1.2.3.4.5.6.7.を描いた、目出度い図柄尽くしの吉祥絵。慶事用に掛ける画です。
沈南蘋のことを調べてみると、中国清代の画家で、長崎に二年間弱滞在し、写生的な花鳥画の技法を伝えた人。弟子の熊代熊斐らが南蘋派を形成。中国では沈詮と言われた。
円山応挙、伊藤若冲、与謝蕪村、渡辺崋山、司馬江漢など、後の大家の画風に大きな影響を及ぼしたようです。本国の中国よりも、日本で名がよく知られた画家と云われています。日本の花鳥画に大きな影響を与えた人。
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:余話:丹頂鶴の求愛は、
オスは嘴を空に向けて「クッ クッ」と鳴き、
メスも嘴を空に向けて「クァッ クァッ」と鳴き返す。
「クッ クッ」「クァッ クァッ」と大声で鳴き交わすそうです。 

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二重箱の内箱の表の蓋書きには、「海鶴榴桃之図」とありますが、印象的に日輪が描かれているので『日輪海鶴“柘榴(ざくろ)”桃之図』というべきです?
以下、サーチ【search】しながら鑑賞。
重複するとこらがあります。

・画の落款は南蘋沈銓です。

・日本では沈南蘋(ちんなんぴん・しんなんぴん)の名で広く親しまれる。

・将軍吉宗は南蘋の濃彩画を気に入ったらしく、沈銓帰国後に南蘋画を輸入させた際、地味な薄色や墨の画を差し戻したという逸話が残っているようです。如何にも将軍好み?の画。

・吉宗の頃、帰国した南蘋から輸入したものだと想います。

・桃や柘榴の画材で、中国的な雰囲気のある画ということがわかる。

・モモの“実”と“花”を同一に描いています。

・モモの渡来は古く、弥生時代といわれています。古来中国では災いを除き、福を招くとされてきました。古事記にもイザナギが黄泉の国から逃げ帰る時に、悪鬼にモモを投げ つけて、退散させたとあることから、伝説も古い時代に日本に伝えられた。すでに平安 時代には、3月3日の桃の節句が祝われるようになった。、“桃”という字は、“木”と“兆”からできています。“兆”とは“きざし”つまり未来にむけての予兆のことです。未来を知ることは災厄を防ぐことにつながります。故に古来より中国では、“兆”がたくさんなる“木”、“桃”は災厄を封じる果樹という意味を持つようです。

・鶴は千年=長寿・中国の古い言い伝えから、生まれたことば。これも中国的。

・全体は中国の伝統的な絵画様式。

・中国伝来の(日輪・みずうみ・鶴・桃、柘榴)の吉祥モチ―フ。鶴の羽の描写は写実的で緻密。見事に描かれている。羽の描き方を観察するにはルーペが必要です。

・精緻な描写と濃密で華麗な彩色です。

・調べてみたらこの画のように、南蘋は金彩等の雲を棚引かす画法をよく使うようです。

・金彩の瑞雲の雲書きが効果的です。雲書きは「「沈南蘋」がよくする技法のよう…?

・浪の大きなうねりには、更にその中に数本の波状の層を 数本入れています。

・この画は明るく、かなり派手で、目を引く彩色花鳥画で濃彩。

・極彩色の絵。

・装飾的な画。精密な写生風描写であり、濃彩で重厚な画風の花鳥画で写実的です。細密な彩色花鳥画に特長があるようです。当にこの画は緻密で濃厚な色彩の作品に相当しま す。如何にも派手好みの吉宗好み?。

・掛軸の全体は縦≒245a :横≒73.5の大きさなので、特に軸の縦が長く仕立ててあるので、一般家庭の床の間には合わず掛けられません。城内の大きな床に合う軸として制作されたものと想います。

・※1、重厚な桐の二重箱の中箱の内側底面には、何故か左側の箱底(写真)には、三つ葉葵紋の大判の裂が貼られています。調べたら稲垣家は古くからの徳川家臣でした。

・丹頂鶴の羽毛・浪の飛沫は微細に描き込まれ、実に写実的な描写。特に鶴の羽は微細に 描きこんでいて脅威です。

・少し長めでくねらせた丹頂の首は、沈南蘋の主観に基づいて少し異形(デホルメ?)さ せて描いているように見えます。

・鶴の描き方をみると沈南蘋の影響を受けた後の日本の画家・伊藤若冲の鶏図の描き方に 類似しているところがあります。

・飛散る浪の飛沫は微細・波のうねり・波頭は沈南蘋特有の描き方?。

・二重箱に納められていたので、シミも汚れもなく色あせず、極最近描かれたように綺麗で、極めて保存が良好。(外箱・中箱は共に桐箱。外箱は特に重厚)

・※2、稲垣氏の家紋をサーチ【search】したら、抱き茗荷でした。茗荷紋系について、 茗荷は冥加通じ神仏の加護を願う。摩多羅神の神紋。二宮氏が初見。江戸期の大名では、稲垣氏が用いる。

・※3、この軸の表装裂(ぎれ)には、稲垣家専用の家紋を織り込んだのを使っています。このことは、稲垣家が鳥羽城内で大切にしていたことを想わせます。

・※4、茗荷の花を象ったもの。茗荷は、ショウガ科の多年生草本。調べたら、杏葉紋の形に酷似 しているところから、それを改めて茗荷紋ができたといわれる。また、名称が 「冥加」と同じ発音であるため縁起がよ いとされ、用いられたともいう。戦国期 以後、天台宗の摩多羅神の神紋として用いられている。この紋を初めて用いたの は、二宮氏といわれる。江戸特代になる と、志摩の鳥羽氏、近江山下の稲垣氏ら が家紋とした。旗本で家紋にしたものは比較的多く、七十余家にのぼり、人気があったよう。

・※5、城の瓦は稲垣氏の家紋。抱き茗荷が城跡から発掘されています。

・※6、この表装裂(ひょうそうぎれ)には、その家紋が織り込まれています。それだけ稲垣家 が大切にしていた画だったということが判ります。城内で掛けられていたものだと想います。

・※7.将軍吉宗は南蘋の濃彩画を気に入って、沈銓帰国後に南蘋画を輸入させた際、地味な薄色や墨の画を差し戻したという逸話が残っているようですから、将軍吉宗が輸入したものと想えます。

・※8.吉宗後徳川家が何らかの意味で稲垣家に下付たのだと想います。或は吉宗本人が稲垣家に直接下付したものかも知れません?。下付された理由は分かりません。

上記の・※1、※2、※3、※4、※5、※6、※7.※8.を総合してみると、
・この画は徳川家から稲垣家に下付されてから、稲垣家の家紋を表装裂に仕立て替えた際、その葵紋・表装裂を外し、二重箱の中箱の内側全面に、恐れ多いいとして三つ葉葵紋の大判の裂を外して貼て残したのでは…?。とも考えられます。

もしそうなら、
・この箱の底に貼られた徳川家の焦げ茶色の三つ葉葵の裂(きれ)から、稲垣家の手に渡って、この色の稲垣家の家紋(抱き茗荷の小紋)の裂となったことによって、葵の紋がごげちゃ色なのと大きいのとで、画の印象は大きく変ったと想います。
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以下沈南銓の情報、サーチ【search】しました。
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生年: 清国・康煕21 (1682)
没年: 没年不詳
江戸中期に来日した清の画家。名は銓。字は衡斎。南蘋と号した。浙江省呉興の人。学者沈徳潜の一族で,商盤,袁枚などの文人とも交友した。享保16(1731)年12月3日,長崎に渡来したのは,江戸幕府の要請と伝える。しかし幕府は長崎奉行に中国の名画やその模写の請来を求めていたのに,唐船主側の判断で南蘋の来航となったようで,幕府の思惑とずれていた。そのため南蘋は,約2年間の滞日中1度も江戸に招かれず,長崎にとどまって,18年9月18日帰国。その間,南蘋から直接画技を教授された日本人は,唐館に出入りできた訳官の熊斐など,ごく少数であった。南蘋画は,精密な写生風描写と濃彩を特色とする重厚な画風の花鳥画で,写実的な描写を西洋画の影響とみる説もあるが,現実にはむしろ中国の保守的な様式といえる。しかし,当時の日本の絵画界は狩野派の不振によって停滞していたので,南蘋画は中国渡来の新様式として歓迎された。その画風は,熊斐から熊斐の弟子の鶴亭や宋紫石に伝えられ,やがて全国的に流行した。南蘋の帰国後,その人気はますます高くなったが,南蘋は二度と来日せず,代わりに弟子の高乾,高鈞,鄭培らが来日。南蘋自身は中国から画を送り続けた。現存する南蘋画の多くは帰国後の制作である。代表作に「雪梅群兎図」(橋本コレクション蔵),「秋渓群馬図」(大和文華館蔵)。

〓・参考=サーチ【search】から〓
【*1.】鳥羽藩は、
熊野で勢力を伸ばしていた九鬼氏。初は九鬼氏(毛利を破った日本でも有数の海賊にして水軍)が二代続き、次に内藤氏の三代で、次に短期間の幕府領となる。さらに土井氏・松平氏・板倉氏が各一代と、最後に稲垣氏が八代続く、藩主が目まぐるしく変わった小藩。
中世には九鬼(くき)氏など、海を舞台に活躍する豪族・水軍が勢力をはった。リアス式海岸特有の地形・志摩の多島海は、瀬戸内の水軍と並んで水軍の絶好の活躍場所でした。
九鬼氏の後、二番目に鳥羽藩主となった内藤氏は、三代目の忠勝のときに御家断絶となり、幕府領になる。忠勝は、承応三年(一六五四)に内藤飛騨守忠政の次男として生まれ、兄の忠次が病により世継ぎを辞退していたため、嫡子となった。
その断絶までの動きは『徳川実紀』に、延宝元年(一六七三)九月十一日「志摩国鳥羽城主内藤飛騨守忠政遺領三万五千二百石を分て、長子和泉守忠勝に三万三千二百石、二子虎之助忠知に二千石たまふ」、十月二日「内藤和泉守忠勝雁間詰命ぜらる」とあります。
【*1.志摩鳥羽は、秀吉に仕えた戦国時代の初代築城主・九鬼嘉隆が水軍の根拠地としたところ。】
関ヶ原で九鬼家は【*3.】向背が別れ、留守を預かる父九鬼嘉隆は西軍に、上杉北伐軍にあった子の守隆は東軍に付き、父子相戦うこととなった。
【*3.向背 - 《「きょうばい」とも》 1 従うことと背くこと。こうはい。 2 背き合うこと。仲たがい。】

それにより東軍に着いた九鬼守隆は、旧領に加増を受け志摩鳥羽5万6千石となる。
藩祖は織田信長水軍の名将・九鬼嘉隆(毛利水軍をわずか数隻の【*.】鉄甲船で撃破したことで有名)。毛利と九鬼は敵同士。
【*.鉄甲船(てっこうせん)は、戦国時代において織田信長が九鬼嘉隆に命じて、毛利水軍・村上水軍に対抗するために建造させた大型の安宅船。】
伊勢志摩の英虞(あご)湾内は、リアス式海岸で大小50余りの島が浮かび、現在その中には賢島と間崎島が有人島で、賢島には鉄道駅(賢島駅)が存在し、本州と橋でも繋がっている。無人島は主なもので天童島、土井ケ原島、横山島、多徳島などが挙げられる。瀬戸内海以上に多島域です。それで瀬戸内海の村上水軍と同じように九鬼水軍が生まれたのでしよう?。
鳥羽城は、志摩国答志郡鳥羽にあった日本の城。鳥羽藩の藩庁が置かれた。
水軍の城で、大手門が海側へ突出して築かれたため、鳥羽の浮城、また、城の海側が黒色、山側が白色に塗られていたため、二色城、錦城とも呼ばれる。
鳥羽城があった桶の山(志摩国答志郡鳥羽)の鳥羽湾に突出した部分には中世、橘氏の居館があった。それを文禄3年(1594年)当時、豊臣秀吉の家臣であった九鬼嘉隆がその跡地に築城する。鳥羽城は水軍の城で、大手門が海側へ突出して築かれたため、鳥羽の浮城と言われる。海に浮かぶ海城に中世城跡があった処に、内藤氏の時代に近世城郭として整備されたといわれる。旧鳥羽小学校の運動場が本丸で、ここには三重の天守が聳えていた。二の丸・三の丸・大手門も東の海側であった。安政元年(1854年)安政の大地震による津波などの影響で城は大破し修復もままならなかったようである。
現在は城山児童公園となっている。旧鳥羽小学校の運動場であった本丸の周囲と家老屋敷、家臣屋敷であった旧鳥羽幼稚園の付近に石垣が残っている。

伊勢志摩サミット(平成28年5月26日〜27日)が開催されます。
志摩市が選定された理由として、会場となる賢島が風光明媚なこともさることながら、四方を水に囲まれた狭隘な島であり、人の出入制限が容易に可能なこと、陸伝いの侵入攻撃を避けられること、三重県警察が伊勢神宮を参拝する要人警護の経験が豊富なことなどが挙げられており、警備面を重視した選定となったようです。また伊勢神宮が近いからでもあると想います。伊勢神宮に要人が多く訪れて、普段警備に慣れているとも言えます。

=サミット余話=以下サーチ。
サミットとは「山頂」という意味だそうです。
G8サミットとは、日、米、英、仏、独、伊、加、露8か国の首脳並びに欧州理事会議長及び欧州委員会委員長が参加して開催される首脳会議です。ウクライナ情勢を受けたロシアのG8への参加停止により,2014年以降はG7サミットとなっています。

英虞湾は外洋と隔離されていて波が穏やかだし、山が近いので山からの養分豊富で、阿古屋貝の養殖に適していている処です。真珠の産地で知られています。ミコモト・タサキ真珠です。

御食つ国(みけつくに) 志摩「御食つ国(みけつくに)」の魅力を古きも新しきも存分に堪能してください。

「御食つ国(みけつくに)」とは、古くから朝廷や神宮に海産物などを貢進することのできた国のことです。

御食国(みけつくに)と云われるのは、日本古代から平安時代まで、贄(にえ)の貢進国、すなわち皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料(穀類以外の副食物)を貢いだと推定される国を指す言葉。律令制のもと租・庸・調の税が各国に課せられた。