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■ 54)〓【:絵画鑑賞:】〓・・・「土田麦僊の下絵」・・・≪:桃山時代小袖:≫(下図)・・・2012.4.1

土田麦僊の下絵(下図)です。



(画はクリックで拡大)の時には更にクリックで拡大。




…ー…ー…ー…この下絵から窺える情報は、…ー…ー…ー…

・本紙の大きさ:(78.5×66.5)。 
・昭和八年 下潤@麦僊 と書かれている。
・画の右下に「桃山時代小袖」と記されている。
・京都から麦僊研究家が、この絵を見に来られました。
・麦僊という落款の右は薄れていて、最初判読出来できませんでした。
もしかしたら、朱で何か書き込まれていたのかと思っていたら、麦僊を研究されておられる或るお方【*1.】が、この下絵を京都から見に来られて、落款印は縦書きで「佐渡之人」(朱文長方印)と教えて下さいました。その落款印は、晩年よく使っていたそうで、朱の書き込みではなくて“佐渡の人”と彫られた落款印だったのです。想うに!落款“麦僊”のすぐ右に“落款印:縦書きで「佐渡之人」(朱文長方印)”という落款印なので、“佐渡の人、麦僊”となります。そんな意味を強調させた落款印なのだと想います。
【*1.京都工芸繊維大学、美術工芸資料館研究員】
・想うにひょっとしたら、“佐渡之人”を使用したことは、本人が晩年病気を患い、更には弟の哲学者・評論家の土田杏村が、わずか43歳で死去したこともあって、麦僊の故郷佐渡へと想いを馳せる郷愁が“佐渡之人”「麦僊」とさせたのかも知れません…?…ね!?
・右下に襟元の重ね(四重襟)が、墨で落書きのように書かれている。
・左下に「平安成観?之」と、墨で書かれている。それが胡粉の顔料で、消されていて透けて見えている。
・帯の前一部は胡粉を塗らず、アイと黒で薄く書き込んでいる。帯は藍色にする予定だった。
・向かって右の袖の花は、金と書き入れている。金彩にするつもりだった。
・鼓を打つ側の右袖には、丈ホキウ(丈補給?)と書き入れている。袖丈が短いと思ったのか、長くするつもりでいた?。そういえば少し短い気がする。
・小袖は花柄。(鼓を打つ側の右袖の花柄は菫と蝶。)全体的に春の花。
・画面下が同質の紙で、少し貼りあわされている。下絵の場合、麦僊はこのような貼りあわせをよくしていたと、京都の麦僊研究家のお方に教えて頂きました。
・下絵でなければ紙の貼り合わせは、普通やらないと思います。

…ー…ー…ー…以上、下絵からの情報…ー…ー…ー…

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【 当山の〓仏画・小仏像・絵画・什物等〓は、全て境内外(寺外)に保管、保存しております。】
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  ・・‥‥…━━: 土田麦僊の下絵(下図)素人“迷”鑑賞 :━━…‥‥・・

重複するところがあります。

麦僊は昭和十一年で、享年五十歳(満49)ですから、この下絵には昭和八年と自筆で書ているので、これは死の二年前、四十七歳(46歳)の下絵ということになります。
絵の原点は線です。この下絵には、非の打ちどころが無いように想います。
以下のように、あちこち訂正しているので、間違いなく何らかの意図を持った下絵(下図)です。
筆力に驚かされます。フォルムは細部までしっかりと捉え、モデルの感触をリアルに伝えています。モチーフは客観的な描写に留まらず、女性の存在に画家のイメージが入り込み、味わい深い人物画に仕上がっています。
実際の画面に描く前に、絵師が別の紙に下絵を描いて、構図や配色を練るのが下絵であると思います。それをこんなに手を抜かないで、描き込むものなのでしようか?
下絵を見ると、構想の変化の過程や、苦心・工夫のあとがよくわかり、大変興味深いものがあります。また、生き生きとした自由な筆遣いで描かれた下絵には、完成画にない迫力を発揮していて、その絵師の力量を改めて見直すことができます。
この下絵は死の二年前というのが気になります。下絵ですから完成画がどこかに存在しているはずだし、大作の一部にしているはずです。
それで死の間際の病名を【search】してみたら、1936年(昭和11年) 6月10日、膵臓癌のため死去、享年50歳(満49歳)とありました。想像するに、ひょっとしたら、徐々に癌で臥しています。この画は下絵です。未完成画で終わったのだと思います?。
麦僊の絶筆として知られているのが、未完成に終つた大作は「妓生の家」のようです。

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重複するとこらがあります。

・帯にアイと書き込んでいるので、帯色は藍にする予定だった。

・袖の花を金と書き入れているので、金彩にするつもりだった。

・鼓を肩に乗せた打つ側の右袖には、丈ホキウ(補給)と書き入れているので、
 袖丈が短いと思って、少し長くしたいと思ったのは、間違いありません。
 やはり鼓を右肩に乗せてた右の袖丈より、
 鼓を打つ側の左の袖丈の方が、少し短め?です。

・左右の袖丈の違いに気付き、これを訂正しようとしています。

・小袖は花柄です。胡粉の下から、いろんな草花が透けて見えている。

・未完だけど、生き生きとしたこの下絵には、完成画に近い迫力・力量を感じます。

・下盾ナあっても、このままで充分鑑賞に堪えます。

・筆力に驚かされます。

・麦僊の真髄を知ることができる下絵。

・フォルムは細部をしっかりと捉え、モデルの感触をリアルに描いています。

・創作の動機となる思想や題材は、客観的な描写に留まらず、
 女性の存在に麦僊のイメージが入り込み、味わい深い人物画に仕上がっている。

・このまま完成されていたら、凛とした高い品格が漂った画になっていた。

・凛とした中にも、女性の優しさを描いている。態度・容姿など、きりりとひきしまった完成画になっていたと想えます。

・この下絵を観て、いろいろ想像できて楽しめます。

・【search】していたら、「舞妓:土田鏡子」という、鼓を持った麦僊の長女の絵を見けました。(それはこの下絵とは、画風が違ていました。)

以上いろいろ想像できます。

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つちだばくせん【土田麦僊】は、「舞子の麦僊」と言われた日本画家。
17歳で京都の真言宗の名刹(めいさつ)智積院(ちしゃくいん:有名な障壁画を多蔵)に預けられたが、得度式の前日、画家への志を抱き、僧侶にはならず画家を目指して、寺を出たようです。もともと絵心を持っていて、この寺の有名な絵画等に刺激され、画家への道に火がついて行ったのかも…
切手になっている絵には、「舞妓林泉図」と「けしの花」があります。
東京国立近代美術館所蔵には、有名な「湯女図(ゆなず)(1918)」があり、重要文化財です。

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以下サーチ【search】しました。

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1887‐1936(明治20‐昭和11)
本名金二。新潟県佐渡に生まれ、17歳で京都の智積院に預けられたが、得度式(僧になる式)の前日、画家への志を抱き、得度式を止めて寺を出る,
鈴木松年の門に入り,間もなく竹内栖鳳の門に転じた。1908年写生画を推し進める栖鳳が中心となった第2回文展に《罰》を出品,三等賞をうけ,また翌年創立された京都絵画専門学校別科に入学した。11年の卒業制作《髪》は第5回文展で注目された。以後ルノアール,ゴーギャンらの画風をとり入れると同時に,智積院の長谷川等伯など桃山障屛画の装飾性に着目し,12年から17年にかけ《島の女》《海女》や《大原女》(四曲一双),《春禽趁晴図》などを発表,清新な作風で嘱目された。・・・

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土田 麦僊 (つちだ ばくせん)  :日本画家:

略歴、 以下サーチ【search】
1887年 佐渡ヶ島の農家の三男として生まれる。本名は金二。
哲学者の土田杏村は弟(茂)。

竹内栖鳳に弟子入り。
文展「罰」初入選。
京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業。
同年の小野竹喬らとともに前衛的な絵画運動の会である仮面会(ル・マスク)を結成。
黒猫会に参加。文展には在学中の明治41年から出品していた。
この頃の作品にはゴーギャンの影響が見られる。
京都市立絵画専門学校出身の同士であった
村上華岳、榊原紫峰、小野竹喬、野長瀬晩花とともに国画創作協会を旗揚げす。
1921年 小野竹喬・野長瀬晩花・黒田重太郎らと渡欧。
1924年 国画創作協会展「舞妓林泉図」。
1925年 国画創作協会洋画部創立。国画創作協会展「芥子」出品。
1926年 国画創作協会展「大原女」出品。
1927年 国画創作協会展「朝顔」出品。
1928年 国画創作協会第1部(日本画)解散。

      帝国美術院展覧会審査員に任命される。

1933年 清光会に参加。
1934年 帝国美術院会員。
1936年 享年50歳。

山南塾を主催し、小松均・福田豊四郎・北沢映月らが育った。

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土田 麦僊 代表作

舞妓林泉図
大原女
湯女図(ゆなず)(1918)(東京国立近代美術館)(重要文化財)
海女(1913)
罰(1908)

以下サーチ【search】
鼓(つづみ)は日本特有の伝統的な楽器のひとつで、もっとも狭義には小鼓を指す。砂時計型、またはドラム缶型の胴の両面に革を張ってこれを緒で強く張る。緒は、能楽の世界では調緒(しらべお)または「調べ」という。この緒を締めたり緩めたりすることで音色を調節しながら、一方もしくは両方の革を手または桴で打って演奏する。その形態によって小鼓、大鼓、太鼓、羯鼓などがある。発音については、古代インドの打楽器 dudubhi または dundubhi から出たという説と、中国の都曇鼓(つどんこ)の音から出たという説がある。

鼓の起源は以下サーチ【search】

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西アフリカのナイジェリアのトーキングドラムが→インド→中国→朝鮮→日本に伝来。

西アフリカ(奴隷貿易港)のナイジェリアのトーキングドラムから鼓はインドで発生し、その後、中国で腰鼓(ようこ)、一鼓(壱鼓)(いつこ)、二鼓、三鼓(三ノ鼓)(さんのつづみ)、四鼓、杖鼓(じようこ)等と多数の種類が発生した。これらは総じて細腰鼓(さいようこ)と呼ばれる。腰鼓は腰に下げる細腰鼓で、日本には7世紀初めに伝わり、呉鼓(くれのつづみ)として伎楽に用いられた。一鼓、二鼓、三鼓、四鼓は奈良時代の日本に、唐楽(とうがく)用として伝わった。後に腰鼓、二鼓、四鼓は絶えたが、壱鼓は舞楽に残り、三ノ鼓は高麗楽(こまがく)で使われている。また中国から日本に伝わった民間芸能である散楽(さんがく)にも鼓が使われており、正倉院蔵の「弾弓散楽図」には、鼓を桴や手で打つ様子が描かれている。こうしたさまざまな鼓が中国から伝来し、やがて小鼓、大鼓(おおつづみ)が日本で成立した。

杖(桴)を使って演奏する杖鼓は、両面の革に異種の材を用いるのが特徴で、胴端の径と革面径ともに大小がある。後に朝鮮半島に伝わってからは大型となった。

トーキングドラム(talking drum)は、トーンとプロソディーを模倣して遠距離の通信を行なう太鼓です。トーキングドラムの本場は西アフリカ(奴隷貿易港)のナイジェリアです。
西アフリカ一帯では、音程を自在に替えられるトーキングドラムが、舞踊伴奏や宗教行事だけでなく「遠距離通信の道具」として活発に用いられてきた。これは、数キロ離れた先の仲間にまで細かいメッセージを伝えることができるものである。トーキングドラムは英語による名称であり、国や民族によって異なった名称がああります。