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■ 48)8/18:施餓鬼会の夜;法会の後、静寂が戻った境内2010.8.19

只今書き込み中・・・。
(写真クリックで拡大)
:毎年八月十八日;施餓鬼会が終り、静寂の戻った消灯前の境内:



施餓鬼本堂内の様子は、この欄の項目。
18)今年の施餓鬼会(施餓鬼とは・・・)にあります。

当山では参拝者全員による、本堂内の灯明(ロウソク)による万灯供養を行ないます。
境内ではロウソク・LED灯・レーザ光線・提灯等による万灯供養。
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以下よくある文献より・・・(以下数種の資料・事典を総合して)
お施餓鬼(せがき)の由来は、『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経(ぶつせつぐばつえんくがきだらにきょう)』に説かれています。お釈迦さまの弟子の阿難(あなん)尊者が主人公です。阿難尊者はお釈迦さまの身の回りの世話をし、一番多くの教えを聞いたので多聞(たもん)第一といわれ、十大弟子の一人にも数えられている方です。
阿難尊者が一人で静かな場所に座り、学修している時のことでした。夜も更けた丑三刻(うしみつどき)「焔口(えんく)」という名の餓鬼があらわれました。その姿は身は醜く枯れ細り 口からは火を吹き 喉は針の先のように細く見るのも恐ろしい形相でした
餓鬼は阿難の前にじっと座り、そして言いました
「阿難よお前の寿命はあと三日で尽きる。死んだ後は餓鬼となり、私と同じような醜い恐ろしい姿になるだろう。」
びっくりした阿難は餓鬼に「どうしたらその苦をのがれることができますか」と尋ねました。
「明日の朝、無数の餓鬼とバラモン(司祭者)に、多くの飯食(おんじき)を用意しろ。そうすればその功徳によってお前の寿命は延び、私は餓鬼の苦を離れ、天上に生まれることができるだろう。」
阿難尊者は恐れに震えながら、お釈迦さまにどうしたら、それほどたくさんの食物を用意できるか助けを求めました。するとお釈迦さまは、「限りない功徳があり、勝れて巧妙な思うがままの妙力をそなえる陀羅尼(だらに)」を示し、「心配しなくてよい。この呪文を唱えながら餓鬼に食物を布施しなさい。そうすれば僅かな一食でも、たちまちにたくさんのおいしい食べ物になり、無数の餓鬼を満足させることができるだろう。またバラモンにも心のこもった食べ物を、布施することになるだろう。」と教えました。

餓鬼とは地獄・餓鬼・畜生という三悪趣(さんあくしゅ)の一つで、飢えと渇きに苦しむものをいい、地下深いところに住むといわれています。餓鬼は水を見つけても血の膿みとなって飲むことができない。喉が針のように細いので食べ物を腹一杯食べることができない。食べた物が口の中で火となって燃え、結局食べることができないと、苦しんでいるものです。
阿難尊者の目の前に現れた餓鬼とは、何を意味しているのでしょうか?その醜い姿は私たちに何を教えてくれるのでしょうか?
子供は目で食べるといわれています。食事が済んだばかりでも、お菓子を見つけると食べたがります。大人からみれば十分食べて満腹のはずなのに、本人は目の前の食べ物に心を奪われ、自分の腹具合を考えません。つまり満腹を知りません、このような限りない物欲(ぶつよく)が餓鬼なのです。
阿難尊者が見たものは、自分の心の中にある物欲にほかなりません。物欲に支配されていると、自分本位に走り人を差別したり、傷つけたりします。そこでお釈迦さまは、物欲に支配された醜い心を洗い、清らかにしていく手だてとして、布施の修行を示し三宝(さんぽう)の供養を教えたものです。
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自分だけ腹一杯になれば、それは幸せでしょうか?
それではどこまでいっても物欲に支配され、自分で自分を縛ることになります。 
他人の腹具合を考え、ものを分かち合う時に、初めて自分に縛られない、もっと大きな安らぎがあることに気がつく筈です。
私たちが生きていく上で、避けて通れない「食欲」を喩えにして、人間らしく生きていく道を、教えてくれるのが施餓鬼会です。 
ものを分け与えること、いいかえれば、回りの人々の役にたっていくことが、布施の修行の意味なのです。