戻る
■ 44)長府:四王司山の本当のご本尊“毘沙門天像”とU〓U四神相応の思想で出来た“長府の町の成り立ち”の一考察◇&◇“忌ノ宮の社名”の謂われの一考察2010.5.6

今は殆ど知られていませんが、
この毘沙門天像が、 
長府四王司山に、昔から祀られていた『毘沙門さんの本当のご本尊』です。

(画はクリックで拡大)の時更にクリックで拡大。

明治の神仏分離までは、長門二宮「忌宮」別当。『神宮寺』は四王司山「毘沙門さん」まで祭祀管轄でした。 
故に、
神宮寺は明治初期、神仏分離の嵐のなか当山と合併したので、明治以前の“毘沙門天像”は福仙寺に在ります。

毘沙門天はインドの神。
仏像の四天王の1つで,北方の守護神。四天王がそろっているときは多聞天といい,独尊のものを毘沙門天という。

合併当時の経緯は、コンテンツ;掲示板の欄の4)【 4)長門二宮[忌ノ宮]の別当[神宮寺;福仙寺と合併] &  [赤間神宮]の前身;廃寺の(阿弥陀寺):の事 】に少し書ています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
NETの下関史跡旧跡紹介に、「四王司山の山頂にあるこの神社には、毘沙門天像が安置されています。867年(貞観9年)清和天皇は、国の安泰を願い毘沙門天像を因幡・伯耆(ほうき)・出雲・石見・長門の5か国に安置したといわれています。その長門の分がこの四王司におかれたのです」と・・・。
当山のこの毘沙門天は、その当時のものが、そのまま伝わっているとは思えませんが!?何代目かのでしよう・・・。
四王司山には、今も初寅にお参りがあります。今の毘沙門天を目にしたことはまだ有りません。現在そこに毘沙門天像が祀られているのなら、明治以降の造像で新しいのです。
いつの日か、奥の院頂上(本堂から真北にある、境内の一番高い展望台)にこの毘沙門天を祀る毘沙門堂を、建立してみたいと思っております。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
先ず四王司山(しおうじさん)と言う、名の由来の事を少しお話します。 
仏教では世界の中心に聳える山を、「須弥山(しゅみせん)」と言います。
四天王が須弥山を守る役目を担うことから、この山を須弥山と見立てて、四天王を祀ったからだと思います。本来なら「四王寺」と書くべきです。 
四天王寺→四王寺→四王司 となるのです。 
後に、〔本来の山名;宝鏡山〕を四王寺山→四王司山と、書くようになったのではないでしようか?
須弥山は四天王が、東南西北の門を守る守護神。四天王は聖徳太子が最初に取り入れて仏教を護る守護神とします。
聖徳太子は一番最初に 法隆寺より古い大寺、大坂天王寺区に「四天王寺」を建立しました。
持国天は東・増長天は南・広目天は西・多聞天(毘沙門天のこと)は、北の方向を守るとされます。
例えば、鞍馬寺は平安京の北に当たるので、北方の守護神「毘沙門天」を山内に祀り、平安京の鎮護とされたと同じく、後神仏習合になって、陰陽道の四神の玄武の替わりに「元の宝鏡山≒現在の四王司山」に、「毘沙門天」が祀られたのではと思います。
その前に、仮の仮皇居(豊浦宮)を決める時の経緯を推測してみると、既に、太古からある神の島【満珠/干珠】(皇歴が始まる前:当時から神の島と、地元では言い伝えられていた筈)の西に、熊襲征伐に遠征する足場とする仮皇居(7年間の豊浦宮)を構え、遠征の途中半ばに、仲哀天皇突然の非業な崩御に遇い、(宝鏡山)四王司山を玄武に見立てた対の方、無念に終わった熊襲の方向、豊浦宮の南の土肥山に仮埋葬(殯斂:ひんれん)をし、 
後に神功皇后が、豊浦宮の西に住吉神社を勧請して行ったのでは! 
仏教伝来までの町造りが、陰陽道の(青龍;白虎;朱雀;玄武)の四神風水思想が頭に置かれていたのでは!???このことが考えられると思います。
四神相応:風水における好適地の条件のこと。四神相応の地とは、背後に高い山(玄武)、前方に海・河川などの水が配置され(朱雀)、左右に丘陵や 低い山(青龍・白虎)が囲む形状のものを指す。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
それを、
グーグルの航空写真を、見ながら考えをめぐらして見ると、
@北;(四王司山;玄武;風水の環境は高い山)→中央;『忌宮→神宮寺』→南;土肥山(日頼寺上)南に熊襲を征伐しようとした仲哀天皇の仮埋葬地(殯斂地:ひんれんち)とし朱雀に対応させたのでは?この線が南北にほぼ一直線。 
無念に終わった熊襲の方角≒殯斂地の方角は南;朱雀(本来の風水の環境は開けた土地ですが、これから開こうとした念願の土地を、風水の環境に見立てたのでは!?)     
【(ひんれんち)とは、難しい読みですよね〜!! 殯(ひん)はもがり (ひんれんち;とは仮のもがり地)を意味します】
A東;『(満珠・干珠;海の中の神島)青龍;(風水の環境は水:海に対応)』→中央(神宮寺:長門二ノ宮:忌宮)→西;『住吉神社(長門一ノ宮)白虎;(風水の環境は後に勧請する住吉神社)で対応』は東西に一直線。  
この@Aの南北:東西の交点は 神宮寺(忌ノ宮)になり、長府の町の中心です。
特にAの神の島(満珠/干珠)と(忌宮)と、同じ距離に西に住吉神社があります。
以上の事をふまえ、もう少し考えて見ましよう。
Aのように「神宮寺:忌宮」は此の線上の等分です。
ということは、
後意識的に「豊浦宮」が中心になるよう神功皇后によって、まだ整っていない西;白虎にあたるものを、後から住吉神社が祀られていくのでは!?これで四神思想を取り入れた当時の理想であった、風水の古代長府の町造りが完成!???
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以下長門一宮住吉神社のHPより。
「住吉の大神は,神代の昔、伊邪那岐命が黄泉国(死の世界)から帰って穢を清められた時出現された神であります。
 仲哀天皇の九年(二〇〇年)神功皇后さまが三韓征討のときに再び御出なさいまして、「吾が和魂は玉身の寿命を守り、荒魂は軍船を導かん」との御教示により、大神を守神として進軍され、その神助により交戦することなく戦勝いたしました。その神恩に感謝し、神功皇后さまは、この地に祠を建てて、住吉大神の荒魂をおまつりされたのが住吉神社の起こりであります。」と・・・(住吉神社は長門では古い神社です。 お参りしてみてください。「忌宮」と同じぐらいの歴史でしよう?)
この事をまともにとって、素直に考えてみると忌宮は、193年に仲哀天皇が仮皇居として豊浦宮を、置いた跡とされる神社ですから、 
@太古から神の島「満珠・干珠」は現存している事だし、 
A仲哀天皇がここ長府に仮皇居とし「豊浦宮」を築き、 
C神功皇后が仲哀天皇崩御の数年後「住吉神社」をまつったた順番になります。
そのCの前に、 
B仲哀天皇の「仮もがり(殯斂地)」は忌宮(仮皇居)の真南に当たる土肥山(日頼寺上)に設定されますから、@ABCの順になります。 
その後、聖徳太子が仏教を取り入れたことから、のち玄武に見立てた毘沙門天を、これに習い北を護る為、忌宮の北(宝鏡山:後の四王司山)に、毘沙門天を祀る事になるのでしょう・・・!
現在、今の「忌ノ宮」は、ほぼ同じ領域で残り、忌宮神社の鳥居前に、神社と別の領域に有った廃寺となった神宮寺と、(宮司坊・長願寺)が姿を消しているだけです。 
当山に残る古文書を見ると、神宮寺は鳥居に向かって、手前丁字路角左。今は骨董店がある所です。そこにマンションがある辺りまで寺域でした。
古文書の中に、寺側と宮司さんとで担当する。前面にある忌ノ宮境内の掃除の分担図が残り、藩の使者を迎えたときの席順などが残されています。 
藩の使者が特別席で、次に上席「神宮寺」。次席「忌ノ宮」の順となっております。 
神宮寺の隣が長願寺(神宮寺境内の隣に宮司さんの居る宮司坊が在りました。神宮寺と長願寺の間に、宮司さんが居住する坊があったのです。)長願寺と神宮寺の関係はよく分かりません。
全国に沢山あった神宮寺と言うお寺は、お宮の近くか、お宮に接した処にあり、そこのお宮の別当職(宮別当)を司る神官兼僧侶です。
神宮寺は「忌宮」の宮別当でした。 
故に、神宮寺には本地垂迹(ほんじすいじゃく)説により、仲哀天皇の本地仏『十一面観音』があり、これが神宮寺のご本尊。
脇に神功皇后の本地佛『如意輪観音』
右に弘法大師像が祀られていたと思います。(この順番は推測です)
その二体の仏様と弘法大師像が当山に遷座して、今当山の本堂にその三体が並んで祀られています。今では如意輪観音が大きいいので場所柄、中央に『如意輪観音』。左脇に十一面観音。右脇に弘法大師像をお祀りしてあります。 
=====================================
本地垂迹説とは、仏教が興隆した平安時代初期頃から、表れ出した神仏習合思想の一つで日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として、日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えであるとの考えです。
神仏混淆の時代の幕末までは、【神宮寺】が「忌ノ宮」の事は、全て実権を握っておりました。現存する当時の行事の古文書を見れば分かります。
明治の廃仏毀釈により、神宮寺は廃寺になり、当山と合併になり、神宮寺の名はなくなりました。
「長門二ノ宮:忌宮」は現在地に残り、別の宗教法人になっております。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「忌宮の社名」について、自分なりに考えてみました。(※あくまでも一考察です。  というよりは推測です。) 

以下・=〇=・迄は、 
私の「小話(しょうわ?小噺ではありませんので、短い話)」として読んで下さい。 
『忌宮』の忌を使った神社は、全国数多ある神社の中で、きっとここだけでしよう?
少なくともストレートに【忌】一字で、神社の名前にしたのはここだけです。 
広辞苑を引くと、「忌は斎と同義語」とあります。(忌≒死・不浄など穢れで憚りある事 斎≒慎む・穢れを避けてものいみにこもる)です。
熊襲征伐の途中半ばで、志果たせず九州香椎辺りで非業な病死?をし、念願途中の無念の仲哀天皇崩御と言われています。それは死の穢れであり憚る事だし、古代の人には病死となれば、特に不吉な例と考えても不思議ではありません。 
又誰かに嵌められて熊襲征伐に行ったとも言われます。天皇の霊は何らかの恨みを残しているとも思えるし・・・!! 
以前から仲哀という名前は、何か悲しい響きがあると思ってていたら、死後に付けられた諡号(しごう≒おくり名)だとも言われているので、ますます悲運なイメージで付けられた感があります。諡号(おくり名)なら誰が付けたのかと言う疑問?がわきます!! 神功皇后しか考えられないのですが!!!?他に諡号をおくる人物がいたのでしょうか???     
古代の人は素朴に、仲哀天皇崩御の喪中に忌み慎むタブー「禁忌」と考え、死の穢れを避ける所謂[死穢忌避]と言う思相。不吉な「忌がこもった豊浦宮」を清浄にして霊を鎮める神霊域として祀る必要があったのではと、素直に考えられなくもないと思います?
「忌がこもった豊浦宮」とし、喪中に忌み籠もる一定の間を終えると、後は【忌】がこもった豊浦ノ【宮】だったので【忌ノ宮】【忌宮】と呼んで、沖哀天皇を神格化して祀る「社」にして残すということが、神話のなかの神話たる由縁では・・!?
以上のことは、仲哀天皇;神功皇后のことすら、史実とは言えないという歴史家が多いいという事から、あくまでも神話の中の想像に等しいもので、単なる私一個人の話しにすぎません。
天皇の急死は、新羅への遠征に反対した事で、暗殺されたという説を読んだことがあります。それは神功皇后が神託を出して新羅への遠征を薦めた時。仲哀天皇はそれに従わず熊襲征伐を敢行したから、神功皇后は死を願ったと言われています?
熊襲遠征を薦めて嵌めたのは誰?
怨霊とは「不慮の死を遂げていること、理想を掲げて活動していたが、政敵により殺害された人達である」と一応定義づけけられると思います。 

仲哀天皇が諡号(おくり名)であるなら、神功皇后の名は自分で付けた名なのでしょうか・・・?どういう経緯でついた名前なのでしょうか?
神功の名で、功は(いさお・てがら)≒神&功(神の名誉ある手柄・勲功)となり一寸不思議です!!??
夫婦なのに仲哀と、神功の名の意味の差が有りすぎて不思議なのです。 
後に神功皇后によって、「仮の皇居」の後を【忌宮】として行き、恐ろしい崇りが来ないように、仲哀天皇の怨霊を鎮めるため、神格化して祀る【社】となる所以となるのでは・・・?
神功皇后自らの悔恨に耐えられず、夫仲哀天皇の怨霊を鎮める神社【忌宮】としたのでしようか?
長門一の宮「住吉神社」のHPに説明してあるように、長府の西に「住吉神社」を勧請したのは神功皇后ですし・・・!!!???。同時期に「忌宮」としたとも考えられます。いずれにしても、おそらくその前後でしょう・・・。 
この辺りから考えが進まなくなりました。ここのところで筆を休めます。
神話の事だから、深く考える事はないでしようから!!? 
・=〇=・
一般には、
聖武天皇の時代に、香椎宮から神功皇后・応神天皇を勧請・合祀し、仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祀る神殿を「忌宮」、応神天皇を祀る神殿を「豊明宮」と称し、三殿別立となっていた。中世に、火災により全て「忌宮」に合祀したことから「忌宮」と呼ばれるようになった。とあります。

=====================================

神宮寺の宝物や什物は全て当山に来ています。当時馬車10数台連ねて長府から移したといわれております。
当山に来てから失われたものが多くあるようです・・・!
その際たるものが 満珠・干珠の金銀の珠(たま)でしよう! 
皆さん この珠の事を知っていましたか!?
その金銀の珠は、満潮になると湿って汗をかき、干潮になると乾いていたと云う伝説となってあったことを!
神の島『満珠・干珠』は、神功皇后にまつわる長府沖近くに、寄り添うように浮かぶ、小さな二つの小島で、忌宮神社の飛び地境内 。
島の名の由来は、 神話時代外敵がこの地に襲ってきた時、初めに干る珠(たま)を投げ込んで船を足止めし、 船を捨てて干上がった地に徒歩で渡って来た敵人に対して、 今度は満ちる玉を投げて海の水を元に戻し、水攻めで敗退させたという、神話にまつわるものとされているものです。
その珠が満珠・干珠に、例えた金銀の珠だったと言うのです!たぶん満珠が金で干珠が銀だったのでしょう?
先々代の住職さんの頃には存在していました。先代の住職さんの若いときにはお寺に在り実際に見たと言われるのを、度々聞かされました。
やはり戦後のどさくさ?(当山には戦時中、関東軍暁部隊が駐屯していて、住職は招集されて戦地だったのが原因なのでは!!?・・・)
それ故現在では、この金銀の満珠・干珠にまつわる珠(たま)が在ったと言うことすら知る人は無くなつたのでは・・・?
市の伝説の中でどのように、扱われているのかはっきり分かりません。
私が調べた範囲では見つかりませんでした。
伝説のなかで満珠・干珠の珠という事は伝わっているけれど、【金・銀の珠】であったという所が抜けているのでは!??
何か分かったお方は教えて下さい。
金銀の珠があったと、その話しだけでも、聞いておられるお方があれば教えて下さい。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
※参考;神宮寺について※ 
神宮寺とは ≡ 神宮寺の建立について、
以下参考@ABは、(以下数種の資料・事典を総合して)
@日本人が仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに神と人間を同列に位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲しているという認識がされるようになった。
715年には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国家レベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始め、満願禅師らによる鹿島神宮・賀茂神社・伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設された。
また宇佐八幡神のように神体が菩薩形をとる神(僧形八幡神)も現れた。奈良時代後半になると、伊勢桑名郡にある現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依したいとの意思を示すようになった。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
※A金網の歴史について※(以下数種の資料を総合して) 
この毘沙門天の納まっているお厨子は亀甲金網で、前面全体が覆おわれております。 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ※B仲衷天皇について※ (以下数種の事典/資料を総合して)
日本武尊の第2子、母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命。(ふたじいりひめのみこと)
皇后;気長足姫尊。(おきながたらしひめのみこと神功皇后、息長宿禰王の女)
誉田別命。(ほむたわけのみこと応神天皇)
妃;大中姫命。(おおなかつひめのみこと、彦人大兄の女)
麛坂皇子。(かごさかのみこ 香坂王)
忍熊皇子。(おしくまのみこ)
妃:弟媛。(おとひめ 来熊田造の祖・大酒主の女)
誉屋別皇子。(ほむやわけのみこ 古事記では神功皇后所生)
 [編集] 皇居
穴門豊浦宮。(あなとのとゆらのみや、山口県下関市長府宮の内町の忌宮神社が伝承地)
筑紫橿日宮。(つくしのかしいのみや、福岡県福岡市東区香椎の香椎宮が伝承地)
 [編集] 事績。
『日本書紀』によれば、叔父の成務天皇に嗣子が無く、成務天皇48年3月1日(178年)に31歳で立太子。13年の皇太子期間を経て、仲哀天皇元年1月(192年)即位。白鳥となって天に昇った父日本武尊(景行天皇43年(113年)死去)をしのんで、諸国に白鳥を献じることを命じたが、異母弟の蘆髪蒲見別王が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺したとある。仲哀天皇2年1月11日(193年)、仲哀天皇は氣長足姫尊(成務天皇40年(170年)誕生)を皇后(神功皇后)とする。
199年熊襲討伐のため神功皇后とともに、筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から住吉大神のお告げを受けた。 それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。
しか仲哀天皇は、これを信じず住吉大神を非難した。そのため神の怒りに触れ仲哀天皇は翌年2月に急死してしまった。遺体は武内宿禰により海路穴門を通って豊浦宮で殯された。『『天書紀』では熊襲の矢が当たったという『古事記』に、「凡そ帯中日津子天皇の御年五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」『日本書紀』にも52歳とするが、これから逆算すると、天皇は父日本武尊の薨後36年目に生まれたこととなり矛盾する。 といろいろ説明されています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
山口県民謡に「男なら」と言うのがあります。
幕末の長州藩では尊皇攘夷運動が高まり、それを受けて1863年(文久3年)には朝廷より攘夷令が出され、藩士の多くが外国船攻撃のために下関に集結した。
一方で萩で留守を守る藩士の妻や子供たちも、外国船の報復攻撃に対抗するため、萩の菊ヶ浜沿いの海岸に女台場(おんなだいば)という土塁を築いた(現在でもその遺構の一部が残る)。
「男なら」はその女台場を築く際工事に携わった、長州藩士や奇兵隊をはじめとする諸隊士の妻や子供たちによって謡われた歌だという事です

♪・・♬男ならお槍かついで お中間となって
付いていきたや 下関 国の大事と聞くからは
女ながらも 武士の妻 まさかの時には しめ襷
神功皇后さんの 雄々しい姿が鏡じゃないかいな
(オー シャリシャリ)

♪・♬女なら京の祗園か長門の萩よ 目もと千両で 鈴をはる
と云うて天下に事あらば 島田くずして若衆髷
紋付袴に身をやつし 神功皇后さんの はちまき姿が
鏡じゃないかいな(オー シャリシャリ)

♪・♬男なら
三千世界の鳥を死なし 主と朝寝がしてみたい
酔えば美人の膝まくら 醒めりゃ天下を手で握り
咲かす長州さくら花 高杉晋作さんは男の男よ
傑いじゃないかいな(オー シャリシャリ)

この3番は、高杉晋作自身そのもの姿;心意気!