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■ 87)紅葉×小菊≪あるほどの菊投げ入れよ棺の中≫漱石2017.12. 1

境内紅葉(黄葉)× 自生菊。
=紅葉(黄葉)と菊花の競演=
菊は手をかけずとも、野生化して此処に毎年咲いてくれます。

公孫樹は黄葉浄土。楓は紅葉浄土。菊花は花浄土。
(画はクリックで拡大表示)

@ < あるほどの菊投げ入れよ棺の中 >…夏目漱石…
  
A << 棺(ひつぎ)には菊抛(な)げ入れよ有らん程 >> …夏目漱石…

この二句は、漱石と親交があった35歳で亡くなった【*1.大塚楠緒子】へ手向けて、哀惜したとされています。
【*1.大塚楠緒子(くすおこ/なおこ)は明治末に活躍した歌人。楠緒子は結婚していて才色兼備。】
漱石が楠緒子にプラトニックな恋をしていたということなので、純粋な哀悼の意を込めて、楠緒子に手向けた句なのでしよう!。
当に楠緒子の死を哀傷した名句…!
この頃の漱石は重い胃潰瘍で療養中だったため、句会での発表もほとんどなかったと謂われ、この句は当初、大塚楠緒子への永(なが)の別れに、「あるだけの情け集めよ棺の人」と詠んでいたところ、句会で同席した与謝野昌子が後になって、
・・・『B.あるだけの菊投げ入れよ棺の中』のほうが良いと提案して、改められた句なのだとか…!?。漱石の句に、晶子が添削した漱石・晶子の合作と言うことでしようか?
そうだとしたら、
上のBの句は添削後の句に、晶子が言うように菊″という季語をいれて更に@ABの句に漱石が改めたということになるのでしようか?
さすがに与謝野晶子ですね…!
亡き人への哀悼の意が込められていて、覚え易く誰もが好きになる句だと想います…?。
〜・〜・〜・
私は葬式が終わると何時も、漱石が楠緒子への哀傷の心を読んだ“その句”
《有る程の菊抛げ入れよ棺の中》
を紹介した後、
『 あるほどのお花を棺の中に納めてお別れください! 』と、お話して式を締めくくります。
  
         “菊”  と  “紅葉”に寄せて以下、

     ‥・…‥・…先ず、以下“菊”に関連させて、‥・… ‥・…
「 あるほどの菊投げ入れよ棺の中 」から、
「枕経・通夜・引導・葬式・棺拝≡棺桶・土葬・火葬≡聖道門・浄土門」等のことについて考える機会を得て、今思っていでいることは以下、
     ・   ・   ・   ・   ・   ・
      < あるほどの菊投げ入れよ棺の中 >
        ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 
菊花を棺の中に“投げ入れる”とは、ぞんざいな行為にも想えます。
考えてみるに、それは昔土葬なので、葬式が済んで野辺の送りをしたとき、底六尺ほどに掘った穴に棺桶を下した後、会葬者が土を戻す前、その穴の中に、地上から最後に花を投げ入れる別れ(別れ花≒散華)を詠んだ様子の句なのだと想います。棺を下した後、土を戻すまでに穴の上から、蓋がされた棺の中の人に“投げ入れよ”と言うイメージの句なのでしょう!
最後に穴の上から花を手向けた後、参列者一人ひとりが替わって、スコップ一杯分の土を埋戻して葬儀を終えます。

現在では土葬を希望しても難しいので、このような方法はとられません。今は火葬が百lです。葬儀会館の中で、最後の別れの時、直接棺の中にいろんな花を納めるのが主体です。現在は葬儀社の用意した花を棺を囲んで、出棺前に棺の中に花をしめやかに納める方法なので“菊投げ入れよ”では、現在の方法からしてみすれば、如何にもぞんざいな手向け方です。むかしは地域にもよりますが、たぶん納棺の折は、土葬の前の棺桶には、故人の愛用品・副葬品などの遺品を主体に納めた後、葬式を済ませ野辺の送りで埋葬直前に土を埋め戻す時、墓穴に“別れ花=投華”をするのが一般的だったのだと想います。
土葬時の棺桶の中には、愛用品・副葬品は、現在の火葬のように何がいけないと言う様な制限はありません。
ー・−・ー・
私は今まで岡山(美作)の山間部で二度土葬で埋葬する葬式を経験したことがあります。既に土葬の時代ではありませんでしたが、ご本人が『火葬は熱いから【※1.土葬】にしてくれと言う遺言だったようです。』それ以降、昔のような“野辺の送り”の行列を伴う土葬での葬式経験はありません。
火葬は熱いからと言っても、上記の88)「人道不浄相図」≒「九相図」の変化が土中で進み、「驚ろ驚ろしい」様の過程を見つめれば、誰もが迷わず火葬を選択するのではと想いました。その時の岡山での土葬は座棺ではなく寝棺でした。
そんな土葬の葬式は、漱石の「菊投げ入れよ棺の中」それに相応しい光景でした。

(漱石の頃は平棺ではなく座棺だった?所謂蓋付円い桶)

日本では仏教が伝来して初めて火葬になりました。其れまでは古墳時代だから所謂土葬です。火葬が始まったとしても、火葬は費用がかかるので、誰もが火葬して貰えたわけでもありません。土葬か、風葬だった筈です。
【※1.墓埋法では,埋葬(土葬)も。火葬してお墓への埋蔵(納骨)も,まったく同じ扱いのようです。土葬ダメ!なんて書いてありません。】だから条件が適えば土葬も可能です。土葬は都道府県によって違いや制限があるため、土葬の許可が出るかどうか、自治体への確認が必要です。山間部だったら今でも可能かもしれません。慣例では埋葬とは土葬のことです。埋葬とは、死者(死体)を土に埋めることで、土葬の事をさします。土葬も、焼骨を墓地に納めることも所謂埋葬です。
死亡届の手続きが受理されると、埋葬(火葬)許可証が発行されます。ただし、市区町村役場によっては、火葬許可証の発行と同時に火葬場の申請を求められる場合があります。
土葬、
土葬されると腐敗が進み、腐敗菌によって、メタンガスや、細胞から出た硫黄ガスが地表に漏れてきます。土葬の土が落ち着き、メタンガスや硫黄ガスが出なくなった後、棺が朽ちて日が経ち土饅頭が下がるのを待ち、それから地面を均し墓石を立てます。現代のような墓になったのは、日本の墓の歴史から見れば、ごく最近のことです。墓は今さらに多様化して来ています。
昔石塔は誰もが建てて貰えたわけではありません。質素なものは河原の綺麗な自然石をその上に建ていました。そんな墓石も多くありました。
・−・−・−
葬式(引導作法)を終えると、【※ィ.】諷誦文(ふじゆもん)の後、自分のポリシーとして、既に供花されている数本の花枝を抜いて棺の周りに、“別れ花=散華”することにしています。
【※ィ.「“諷誦(ふじゅ)”」の「“諷”は声をふるわせて朗朗と朗読するの意」。“誦”はじゅする【誦する】( 動サ変 ) [文] サ変 じゆ・す (経・詩歌などを)声をだしてうたうように読む。唱える。口ずさむ。 「経文を−・する」です。
だから諷誦とは、「声をふるわせるように朗々とした口調で朗読する」と言う意味になります。
真言宗の場合、葬式のときに導師が読み上げるのが諷誦文(ふじゅもん)。諷誦文は『葬式の趣旨を示し、格調高い文章で作られます。仏教用語で死者の供養などのために、僧侶が読経の主旨を示す文書。平安時代以来の風習で、僧は葬式後の読経のあとでこの文書を朗々と読上げるもの。
・−・−  ・−・−
その諷誦文の読み方。
・−  
棺前作法(引導を渡す作法)と墓所作法後、最初に賛を唱え、(鉢15)、その後、諷誦文。
『〈力強く高く声を張って〉夫(そ・)レ惟(おもん)ミレバ・・・(中略)・・・〈力強く声を高く張って〉敬(う・や・ま・)ッテ申(もう)ス。」』
後賛(鉢15)をついて葬儀は終わりです。
・−・−
諷誦文は願文(がんもん)の一種。
願文とは神仏に祈願する文書ですが、願文・造塔堂・造仏・写経などに際して所願を述べ供養する供養願文。施物を表示し諷誦(ふじゆ)を所願する諷誦文・葬式の時のように多種に及びます。】
葬式の諷誦文は、最初に「この世は無常である」という意味の無常の必然と、哀悼の意を述べ、追善作法を説き、最後に亡者のあるべき姿、後生の安心を述べて締めくくります。
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=余談@=
葬儀は一般に葬式とも言いますが、正確には葬儀式と言います。
「儀」という文字は、「○○のこと」「○○に関すること」という意味です。
例えば、○○○○が亡くなった場合で考えると、訃報文や看板を「○○○○儀 葬儀」「○○○○ 儀 式場」とするのは、身内(遺族)が作ったものだからです。
身内だからこそ、「呼び捨て」にしているのです。
身内でなく回覧等回したり、看板の場合には、呼び捨てにしないで、「○○○○様 葬儀」「○○○○様 式場」となります。注意しましよう。
儀には、〜に関するという意味があります。
したがって故 ○○儀 葬儀と記載されている場合、その意味は○○に関する葬儀になります。

=儀と言う字の意味。=
儀とは身内に対して用いる謙譲表現になります。
人物に添える一般的な敬称には様や殿がありますが、葬儀において親族が身内に対し上記の敬称を用いることは不適切であり、同時に呼び捨てにすることも好ましくありません。

したがって、謙った表現である儀を用いることで、故人への哀悼及び敬意を示すようにしています。
この表現は、葬儀のみならず結婚式の案内状などにも用いられます。

・儀は添え字であり、読み方がない。
・儀には〜に関するという意味。
・儀は身内に対して用いる謙った形の敬称です。
更に、儀式(ぎしき)は、特定の信仰、信条、宗教によって、一定の形式、ルールに基づいて人間が行う、日常生活での行為とは異なる特別な行為。宗教的色彩の薄いものは式典とも称される。
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真言宗では葬式が終わり出棺前に、親族や会葬者が最後のお別れをする儀式を“棺拝(かんぱい)”と言います。
“棺拝”とは最後に棺の蓋を開けて、【*2.】引導作法により仏になった故人を拝み、送別(告別)の花を手向ける作法です。
真言宗では【*2.“引導(いんどう)”を渡すと、故人は“即身に成仏する”と説きます。だから故人の葬式が済むと、成仏した仏(故人)を拝むと言うことになります。葬式が済むと以後「過去精霊」とお唱えすることになります。】
“引導”と言うことば(作法)は、下関に多いい“浄土真宗”に於いてはありません。同じ浄土門の浄土宗については、調べたかぎりでは、引導と言う作法・言葉もあるようです。同じ浄土門でも、浄土宗の場合は“法名”ではなく、聖道門の真言宗等と同じく“戒名”と言うのを授かるようです。
浄土真宗では唯一拝む対象は、阿弥陀仏のみなので、故人を拝むということはしないのだそうです。だから“棺拝”と言う言葉はありません。他宗のお寺さんもこの“棺拝”と言うことは一般的には使われていないかも…!?。
特に下関は浄土真宗=真宗(浄土門)の寺が多く、門徒のお方も多いいので“棺拝”と言う言葉は理解されません。真宗は故人を拝むと言うことをしません。それで安置してある阿弥陀仏や名号に手を合わせ拝むけど、引導作法が済み棺桶に納まった故人には手を合わせて拝むことをしません。だから“棺拝”と言うと、いちいち説明しないと“乾杯!”と間違えられます。
それで私は、
・葬式を済まして最後のお別れの時、御親族と会葬者に、
「棺拝してお別れしてください。棺拝とは棺の蓋を開けて拝むと書きます。最後のお別れです。夏目漱石の俳句に、<あるほどの菊投げ入れよ棺の中>と言うのがあります。<あるほどのお花を棺に納めてお別れ下さい。>この段取りは、当会館のお方がされますので暫くこの席でお待ちください。」と説明し退出します。
ー・−・
・葬儀を始める前には、
「只今より真言宗の法則(ほっそく)に則り引導作法を執り行います。【*2.】引導作法とは、亡きお方を速やかに成仏せしめ、仏の世界へと導く作法です。今日ではこの引導作法と、告別式が一つになってお葬式となっております。どうぞ心静かにご聴聞下さい。」と挨拶(説明)して始めます。

真言宗の仏の世界とは「大日如来=宇宙神」のこと。全ての仏の浄土を含む「密厳浄土」のことになります。
ー・−・ー・ー・−・ー・
真言宗は【*3.聖道門】なので、
【“引導(いんどう)”を渡すと、故人は“即身に成仏する”と説きます。だから故人の葬式が済むと、成仏した仏(故人)を拝むと言うことになります。葬式が済むと以後「過去精霊」とお唱えすることになります。】
“引導”と言うことば(作法)は浄土門の“浄土真宗”にはありません。同じ浄土門の浄土宗については、調べたかぎりでは、引導と言う作法・言葉もあるようです。同じ浄土門でも、浄土宗の場合は“法名”ではなく、聖道門の真言宗等と同じく“戒名”と言うのを授かるようです。下関に多い浄土真宗のみ“戒名”ではなく“法名”と言うのを授けられます。
以下、聖道門と浄土門との違い。
・浄土真宗の教えでは「臨終即往生」と言って、亡くなるとすぐに極楽浄土に行って仏様になるので、他宗のように「冥福を祈る」「死出の旅路につく」「告別」というような概念はないのだそうです。だから「告別式」は浄土真宗にはありません。「告別」は永久の分かれになるので、何れ誰もが「臨終即往生」で、何時か極楽浄土で必ず再会できるから「告別」ではないのだとか!?。浄土真宗は49日忌以降はお位牌を作りません。過去帳と法名軸を作ります。しかし葬式の時には白木のお位牌を作るようです。葬式の時には仮位牌(白木の位牌)は作りますが、本位牌は作らないようです。
・浄土宗は白木の仮位牌→本位牌のようですが、浄土真宗は白木の位牌→過去帳か法名軸となるようです。
浄土真宗(門徒宗)は、
・位牌のように魂を宿らせるものではなく、故人の名前を記し残していくという目的で、「法名軸」や「過去帳」に法名を書いておくと言う考え方をとるようです。しかし位牌を作ってはいけないとなっていようでもあります。事実、浄土真宗でも位牌を作るお家もあるようです。位牌を作るかどうかと言うことは、お寺さんによって見解が異なる場合もあります。「それは浄土真宗の教義に反することなので過去帳に替えて下さい」と言われるご住職もいれば、「よろしいのではないでしょうか」と言われるご住職もいるのが現実のようです。他宗には枕経と言うのがありますが、枕経にあたるうのが浄土真宗では臨終勤行と云うのだそうです。しかも枕経・葬式は故人に向かって拝むのではなくて、阿弥陀如来に向かってお勤めするのであって、人生の終わりに臨んで、阿弥陀如来に対てする最期のお礼の勤行なのだそうです。
〜・
【*3.】「聖道門」⇔「浄土門」のこと。
【「聖道門(しょうどうもん)」は、「浄土門(じょうどもん)」に対する語。様々な修行を通して、自力によって成仏することを説く宗旨のことです。法然が浄土宗を確立した当時、仏教といえば密教系の天台宗と真言宗が主流だったため、主にこの二宗をさします。その直後に登場した禅宗もこれに含まれる。浄土教(浄土宗・浄土真宗)以外の宗旨でしか“棺拝”の言葉は、地域にもよりますが通常使われません。】
浄土宗については“棺拝”と言うかどうかよく分かりません。
〜・〜・〜・
真言宗では、昔のように土葬をしていた時代は、「引導(棺前作法)と、野辺送りの時にする(土葬を済ませた後にする墓所作法)」と言うように二部に区切ってしていましたが、現在は土葬が無いので「引導を渡すときにする“棺前の作法”と“野辺の送りの時にする墓所の作法”」を、葬式の中に含めて、4.50分内に納まるように行っています。土葬の時代は、二部形式の(葬儀・野辺の送り)でした。
〜・〜・
【“1.*引導(いんどう)”とは、死者を成仏させること。
葬儀式の中で行う引導の習俗は、浄土真宗を除く各宗派で行われていますが、その作法は宗派ごとに異なっています。
真言宗の葬儀は、死者の霊を弔い鎮める導師が、棺前において死者にこの世との縁を切らせ即身に成仏させることを目的とする作法です。

お葬式の際に住職(導師)が棺の前で、死者が悟りを得て成仏できるように、経文や法語を【*4.】声明(しょうみょう=節)をつけて、唱える作法を行うことを引導を渡すと言います。そのことから、「決定的なことを言い渡すことを“引導をわたす”などと言うのはここからきているのです。」
真言宗では故人に諸行無常の理(ことわり)を説き、必ず仏の救いにあずかり、密厳浄土に行けることを説いて、死者にこの世との縁を切らせ、即身に成仏させることを目的とするのです。】
【*4.声明は(せいめい)と読まず(しょうみょう)と読みます。
(以下サーチ【search】)して、
宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・微(ち)・羽(う)という5音からなり、呂(ろ)・律(りつ)・中曲(ちゅうきょく)と呼ばれる音階、旋律に関する3つの概念に則ってパターン化されている。五音(ごいん)/(ごおん)ともいう。1オクターブ内の5つの音からなる音列(5音音階)のこと。下から順に,宮(きゅう),商(しょう),角(かく),徴(ち),羽(う)と呼ぶ。 これらの概念は天台、真言など流派によって解釈が多少異なる。儀礼の場において、呂曲、律曲は四箇法要や二箇法要などの場を飾るための曲として使われ、呂曲のほうが相対的に重要な地位を占めている。中曲は日本独自の様式であり、儀礼と儀礼の間をつなぐ、本尊に願いを伝えるなど、儀礼を進行させるための実用的な機能を持つ。現存する日本語歌詞の声明のほとんどは中曲に属し、仏教の経文を朗唱する声楽の総称。インドに起こり、中国を経て日本に伝来した。法要儀式に応じて種々の別を生じ、また宗派によってその歌唱法が相違するが、天台声明と真言声明とがその母体となっている。声明の曲節は、平曲・謡曲・浄瑠璃・浪花節・民謡・歌謡曲・演歌・艶歌などに大きな影響を与えた。「民謡・浄瑠璃の語り物・お能の謡曲・浪花節など...声明は、広くそれらに発展して、日本の音楽の源流となる。そこから派生したのが、現代の音楽にも脈々と受け継がれている、遊び歌・祝い歌・仕事歌・酒盛り歌・盆踊り歌です」】以上サーチ【search】して。
〜・〜・〜・〜・
通夜のことですが、
多くの葬儀会館は、館内に「通夜式○○時・葬式○○時」と案内しています。しかし、葬式は式ですが、通夜は式ではありません。
全国に葬儀会館が出来たころに葬儀会館が“式”にした筈です。
「葬式が“式”」で「通夜も“式”」なら、それでは合わせて式々(式х2)になります。
ただ単に案内の看板は「通夜○○時・葬式○○時」とすればいいのです。通夜を通夜式として勝手に“式”にしたのは葬儀社です。
〜・〜・
通夜の参列者の服装は、平服ではなく「略喪服」が多くなりました。
・最も改まったものが正喪服、それから準喪服・略式喪服の順に続きます。
一般的な葬儀に着用するのは準喪服が多く、これはほとんどの法要の場面で通用する装いです。
・略式の喪服は、急な弔問やお通夜、年忌の法要に列席など急な悲報に整いすぎた装いでは失礼にあたる場面に適しています。
また、「お別れの会」や「偲ぶ会」のような近親者のみで行う葬儀の席でも使えます。
正喪服や準喪服に比べると制約が少ないのが特徴で、黒に限らず、上下セットであればダークカラーもOKとされています。
〜・〜・
通夜の時、略式の喪服が多くみられるようになったのは、葬儀会館が通夜式と言う“式”にして来たからでしようか!?。本来通夜の服装は、平服で駆けつけるでいいのです。しかし、現在は通夜の時、多くの人が略式の喪服を日頃用意している時代になりました。それで略式の喪服が殆んどです。だから通夜に自分一人だけ平服で参列すると違和感を感じます。
そんな時代になったのは、昔のように家で通夜・葬式をすることなく、葬儀会館と言う改まった場所になったことも関係しているのかも?また、葬儀社が通夜を通夜式として勝手に“式”にしたからでもあるのでしようか?
それと通夜の時、司会者が「只今より通夜式を始めます。」と案内します。昔は町内講組の互助で、自宅で近所隣りが、葬式の段取りをしてくれていました。だから司会者はいなかったと想います…。地域によっては町内の方が仕切っていたかも知れません?。通夜には誰もが平服で参加していました。
本来通夜は式ではないので、司会者は要らない筈です。通夜には菩提寺も関わらなかった時代もありました。現在でも菩提寺が通夜に係らず、枕経→葬式と言う流れになるところもあります。
司会者が「通夜式を始めます。」と言わなければ納まりが悪く、“通夜式”と言う締りのよい言葉を使いたいのなら、“通夜法要or(通夜法会)”と言うのが相応しいと個人的には想っております。「只今より、“通夜法要”を始めます。」と…!。
しかしこの言葉は司会者が発する言葉ではありません。住職が通夜を始める言葉です。
本来、“通夜”・“葬式”は司会者を置かず導師(住職)が主導して始めていけばいいと想っております。どうしても通夜を進行する人が必要なら、葬儀会館側は「只今より通夜法要が始まります。」となるかも!
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私は通夜を始める前に「只今よりお通夜のお勤めを始めます。」と参列者に向かって始めて行きます。そうしたら進行する人入らなくなります。
古くは通夜には、お寺は関わっていませんでした。「枕経」→「葬式=棺前作法」→「野辺の送り」→「埋葬」→「墓前作法」と言う流れでした。本来、通夜は住職が主導して始めていけばいいと想います。
(通夜は式ではないので、葬儀会館であっても通夜時には、進行する司会者は要らない筈です。住職が通夜を主導進行して行けばいいと想います。)
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古くは通夜とあまり云わず、「夜伽(よとぎ)」をすると言って、町内講組の手を借りて身内だけでしていました。それを“通夜”と言う言葉だけに定着させたのです。
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夜伽とは本来三ッの意味がありました。
本来夜伽の伽(とぎ)の意は、誰かに付き添って、相手の要望に応じて相手を楽しませるサービスのことです。
伽〈カ・ガ・キャ〉は、梵語(サンスクリット)のカ・ガ・キャの音に当てた字。意味はありません。音は、「伽藍(がらん)・閼伽(あか)・瑜伽(ゆが)・伽羅(きゃら)」のようになります。
元々、「伽」は「お伽話」のように「話相手をして退屈を紛らわせる」という意味だったようです。
〔音〕 カ(漢音) ガ(呉音) キャ(慣用音)〔訓〕 とぎ

「夜伽」とは夜の寝室で伽をすることを指すので、死者の霊に一晩付き添って霊を鎮める儀式を指すこともあります。それが通夜。
また、夜病人などの看護をして一晩付き添ってお世話することです。
それで夜伽=@ABのいかと言うことになります。三種の寝ずの番のこと…。
@君主のため女が男の意に従つて共に寝ることに云ふ。女が男と同衾すること。夜お相手をするの意から出た語。「枕のとぎ」に同じ。“とぎ”とは、添い寝すること。
A夜病人などの看護をすること、又する人のこと。病人のためなどに、夜寝ないで付き添うこと。
B 夜伽(葬式の前夜)などで夜を通して起きていること。所謂通夜。

本来は@ABと言う意味があったので、同じ意味でも@Aは相応しくないので、現在は@Aの夜伽を使わず、Bの葬式前夜の通夜と言う言葉のみに限って使われるようになりました。
〜・〜・〜・
祖父・祖母の葬式で、子・孫・曾孫が集まり葬儀場で、燥いだり賑やかにするそんな様を表した諺に「孫子(まごこ)の正月」と言うのがあります。恰も孫子が集まって正月のように賑やかに騒ぎます…!
幼児にとって祖父母の死の意味はほぼ理解できません。葬式のときは同い年の従姉弟が集まり、花や果物が飾られ、親戚の人達が大勢来るので非常に興奮します。孫子が正月に親元に集まってよく似ています。このことはよく見かける光景です。 実際、葬儀の時に会場等を大喜びで走り回っている幼児をよく見かけます。その様子が「爺々婆々の葬式は孫子の正月」と言う諺になって昔から残っているのです。そのように賑やかに集まってくれる姿をお爺さん・お婆さんは、会館で喜んで見守ってくれているでしよう!
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棺桶について、
明治の漱石の頃は現在のような寝棺(平棺)ではなく【座棺】だったと想います。現在棺の形状は、座棺から寝棺へ移り変りました。鎌倉時代には既に、樽の形(箍=タガをはめた丸い桶)の座棺があったといいます。この樽型の座棺から「棺桶」という言葉が定着したのでしよう?。
現在は寝棺(平棺)ですから棺・桶の二字を使って死者を納めるために使う「棺桶」という意味に集約されています。戦後直前までは、いつでも使えるように、自分用の棺桶を生前につくって、田舎では天井裏に保存していたということを聞いたことがあります。
ー・
岡山美作(津山)の森家(森蘭丸の弟=森忠正が祖・菩提寺は本源寺)は、4代で断絶した後、徳川家康の第2子結城秀康を祖とする松平宣富が入国し、津山藩主松平家の菩提寺となった泰安寺。その菩提寺の境内に在る松平家一族の墓所を一部移設した時、棺桶は備前焼の大甕だったと聞きました。
むかしから備前焼の【※】大甕を棺に転用した例は、裕福な家に多くみられたようです。今では古備前の壺として更に高価かも…!?。江戸時代になってからは、
当時は骨董価値のある甕でなく日用品だったとしても、大名だからこそ、高価な大甕は松平家一族の座棺として使用された筈です。

「備前焼甕棺(びぜんやきかめかん)は、 岡山市内各地墓地出土遺跡から、江戸時代 には、備前焼の甕棺は、江戸時代の埋葬用の甕で、俗に「シビトガメ」とよばれていて、岡山市内各所の墓地遺跡から出土するようです。江戸時代は土葬が一般的で、火葬にされることはきわめてまれなようです。それはむかしは土葬する場所に困らず、火葬は手間もかかったからでしようか?
棺の材料の多くは、ほかに木製の棺や桶などを利用したものなどがみられますが、備前焼の産地に近い岡山市内では、これらの甕棺がよく出土しています。
この「シビトガメ」の形状は、日用品で貯蔵容器の大甕と違って、墓地遺跡から出た棺向き専用の筒状平底に造られています。円筒形寸胴(ずんどう)形です。
あちこちの墓地遺跡からは、これらの「シビトガメ」が一時盗掘されて骨董的価値ある備前甕として多く出回ったとも言います。
豊臣秀吉の波乱に満ちた生涯を締めくくる葬儀は、慶長三年に執り行われました。備前焼き好きだった太閤は、備前の直径一メートルほどの【※二石入り】の大甕に納めて遺体を塩漬けにして葬られたと言います。明治30年、「秀吉三百年忌」の墓所改葬の折りに、その甕が発見されているのだとか…。
秀吉の入った甕棺は、秀吉のことですから、甕棺は江戸時代以前なので高価な日常使用の貯蔵容器の大甕だった?ようにも想います。「シビトガメ」専用の形態になるのは江戸時代に入ってからでしようか!?。
=【※備考「一石=2.5俵で米の重さで言うと150キロ」】備前焼の甕は、主に米・水・油・酒造等の貯蔵容器。
※その甕に秀吉の遺体が、保存のため塩づけ?にされたと言うことも聞きました。秀吉の墓は、豊国廟(とよくにびょう)がある京都市東山区にある阿弥陀ヶ峰です。
ー・−・
=余談A=
壺と甕(かめ)の違い。似た形状を持つ壺と【※甕の区別について、「頸部の径が口径あるいは腹径の2/3以上のものを甕と呼び、2/3未満のものを壺とする」という定義されるのだそうです。】そして胴から底に向かってすぼんだ形がその特徴であり、壺は甕より小型です。しかし、備前焼きの大甕を座棺に使う形状は、棺向き専用に特別に筒状に作られます。
長方形の杉材を竹材のたがで円形に結って作った桶(おけ)、つまり結桶(ゆいおけ)が昔の座棺用の棺桶になります。現在は全て火葬炉に適した寝棺になりました。
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近代になると座棺は、人が屈んで入れるほどの高さ(座高より少し高い)で、桶屋が作る水漏れを気にせず、すっぐ出来る死者を入れれるほどの真四角な箱や、丸棺になります。寝棺(平棺)は、現在よく見かけるような人の身長ほどで長方形です。
箱型や丸棺の座棺用は、火葬習慣が主流になる以前は、男二人(or四人)で棺を輿に載せて担いで運びやすい形態だったことや、土葬に適していたために使われていました。
〜・〜・〜・〜・
以下、「棺」と「柩」と2つの漢字があるので説明。
棺(かん)、ひつぎ(、柩)とは、ともに遺体を納めて【※】埋葬するための容器。
【※埋葬(まいそう)とは死者を土の中に埋めることです。 墓地、埋葬等に関する法律 においては「死体を土中に葬ること」として、いわゆる土葬を指す言葉として定義されています。慣用的な用法としては、火葬後の遺骨を墓地や納骨堂などに収納することを指す場合もあります。】
俗に、中身が入っていないものを棺、遺体が収められたものを「柩」とする説があるようですが、遺体が収められたものを家から火葬場に送り出すことを「出棺」(しゅっかん)といったり、棺には「ひつぎ」の意読があるので、現在では「かん」と「ひつぎ」の使い分けはほとんどないようです。なお、遺体が収められたものを霊柩(れいきゅう)ともいいます。霊柩車と言うのもあります。
それで世界大百科事典をしらべました。以下、
棺(かん、ひつぎ、柩)は、遺体を納めて葬るための容器。 俗に、中身が入っていない ものを棺、遺体が収められたものを「柩」とする説がある、遺体が収められたものを家 から火葬場に送り出すことを「出棺」(しゅっかん)といったり、棺に「ひつぎ」の訓がある ように、「かん」と「ひつぎ」の使い分けはほとんどありません。なお、遺体が収められたものを 霊柩(れいきゅう)ともいい、それを運ぶための車(自動車)を霊柩車(れいきゅうしゃ)ともいいます。
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処によっては、通夜の前に遺体を火葬する風習があるところもあります。火葬→通夜→葬式となります。そんな地域があります。そんな葬式を鳥取県で一度したことがあります。そうなると葬儀後霊柩車での出棺はありません。
葬儀の流れというと、通夜を営み、翌日に葬儀・告別式、そして火葬場へ向かって荼毘に付すという流れを思い浮かべる方が多いかもしれません。しかし、日本全国を見れば“これが常識”とは言いきれないようです。
葬儀の流れを大きく分けると、遺体で葬儀を営む「遺体葬」と、荼毘に付して遺骨で葬儀を営む「骨葬」、の2つに分けられますが、骨葬の場合、さらに火葬のタイミングで、通夜も遺骨で営む「骨葬」に分かれます。
葬儀の流れは、地域によって大きく以下の3つに分けることができます。
@通夜→(翌日)→葬儀・告別式→火葬 という流れの「後火葬」の地域。
A通夜→(翌日)→火葬→葬儀・告別式 という流れの「前火葬」の地域。
B火葬→通夜→(翌日)→葬儀・告別式 という流れの「骨葬」の地域。
地域によって火葬・葬儀の順番が違います。
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火葬は本来仏教が日本に入ってきてから始りました。
其れまでは古来の神道の影響で、死をけがれととらえ、死霊を封じ込める為に遺体を穴に埋め、大きな石を乗せたり遺体に抱かせたりして埋葬しました。しかし、仏教伝来すると火葬が行われるようになりました。
古来よりインドでは火葬を行われており、釈迦自身も火葬たったという伝統があるからです。
記録では、南都六宗の一つ「法相宗」(奈良・薬師寺)を起こした道昭((629年-700年)が荼毘(火葬)に付されたのが火葬のはじまりとされています。
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日本で火葬が始まったのは、仏教が伝来してからです。
古来よりインドでは火葬が行われております。それはお釈迦さま自身も火葬たったという伝統があることによります。それで日本の火葬の歴史は、1300年ほど遡ります。

仏教伝来以前の日本では死をけがれととらえ、死霊を封じ込める為に遺体を穴に埋め、大きな石を乗せたり遺体に抱かせたりして埋葬してました。

しかし、仏教が伝わってくると、火葬を行われるようになりまります。
古来よりインドでは火葬を行われており、釈迦自身も火葬だったという伝統があるからです。
以下、サーチ【search】しながら、
・聖武天皇(756年没)から、明治天皇の前の孝明天皇まで、葬儀はすべて仏教式で行われていました。神道式で行う天皇家の葬儀は、実は、国家神道を推し進めた明治政府による政治的なものです。
現在多くの国民は、過去にも神道式で天皇の葬儀は行い、陵墓に土葬で埋葬することに、何の疑問も持っていません。

・最近宮内庁の羽毛田信吾長官は天皇・皇后両陛下の「ご喪儀(そうぎ)」について、両陛下の意向を踏まえ、江戸時代以降の慣例となっている土葬ではなく、火葬の方向で検討していくと発表しました。
(但し葬儀は、今まで通り神道式に替わりはないと想います。)

・天皇家の火葬と深い関連がある寺として、京都東山の御寺(みてら)泉湧寺(せんにゅうじ)があります。空海(弘法大師)が創建した真言宗の寺です。

・貞応3年(1224年)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められた。後堀河天皇と次代の四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれ、この頃から皇室との結び付きが強まります。江戸時代には後水尾天皇以下、幕末の孝明天皇に至る歴代天皇が山内に葬られている。泉涌寺はこれらの皇室の陵墓に対して香をたき、花を供える香華院となり、「御寺(みてら)」と尊称されます。

・公家武家双方からも帰依深く、貞応3年(1224年)には後堀河天皇から皇室の祈願寺と定められた。後鳥羽・順徳・後高倉院のほか、北条政子や北条泰時が訪れ受戒を授かったといいます。また入滅後も時の皇室からの帰依は尽きず、仁治3年(1242)に四条天皇が葬られると、江戸時代の後水尾天皇以下、幕末の孝明天皇に至る歴代天皇の墳墓がこの寺に築かれるようになりました。
泉涌寺が別名「御寺」と称されるのは、ここが皇室の菩提寺として、今なお厚い信仰を集めているからです。

・皇室といえば神道、というのは常識ですが、明治維新より前には、歴代天皇をはじめ多くの皇族がお寺に埋葬されています。
京都東山の泉湧寺では、天智天皇と光仁天皇から、南北両朝の天皇を含め、昭和天皇までの位牌を安置しているほか、境内にある月輪陵【つきのわみささぎ】には、鎌倉時代の後堀川天皇、四条天皇、江戸時代の水尾天皇から幕末までの25人の歴代天皇の陵墓があって、今も皇族方の参拝があります。
このお寺は「御寺(みてら)」なだけにどこを見ても上品な宮廷の雰囲気を感じます。

・神式で行われ陵墓に葬られた葬儀は、明治天皇・大正天皇・昭和天皇のわずか3回です。飛鳥・奈良の昔から江戸時代の孝明天皇の葬儀(1867年)まではずっと仏式で行われ、天皇家の菩提寺は泉涌寺(京都市東山区)でした。江戸時代の天皇の葬儀は京都東山の泉涌寺で行われています。もちろん仏式の葬儀で、遺体は境内の「帝王陵」と呼ばれる区画に埋葬された。「陵」といっても墳丘があるわけではなく、大名の墓に似た石塔が立ち並んでいるだけです。
古墳のような墳丘が復活したのは、幕末の慶応2年(1867)に崩じた孝明天皇のときです。尊王攘夷運動が高まり、明治維新に向かう時期のことである。王政復古の気運は天皇陵の形にも及び、墳丘が築かれた。ただし、その場所は泉涌寺の裏山で、葬儀も泉涌寺で行われた。

・貞応3年(1224年)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められた。後堀河天皇と次代の四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれ、この頃から皇室との結び付きが強まる。江戸時代には後水尾天皇以下、幕末の孝明天皇に至る歴代天皇が山内に葬られる。泉涌寺はこれらの皇室の陵墓に対して香をたき、花を供える香華院となり、それ故「御寺(みてら)」と尊称されます。

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< あるほどの菊投げ入れよ棺の中 > 
本来菊は、健康、長生き、若返りという縁起が良い花です。
菊花は上品で美しく、昔はお葬式など仏事に用いられる花の定番とされていました。特に白い菊は、「死」を連想されるとされていました。
なぜ菊がお葬式に用いられるようになったかは、
・菊の花言葉が「高貴」「高尚」などであり、厳粛な式にふさわしいこと
・菊は香りがよくお香と匂いが似ていること
・菊は栽培しやすく、花が長持ちし、調達しやすい花であること
など、諸説があるのでしよう。
白はお葬式の花として用いるようになっていました。また喪服の正装は黒ではなく、古くは白だったのです。
皇室の家紋のように、菊は長寿の格式高い縁起の良い花から一転して、日本ではお葬式や仏事に用いられる“縁起の悪い花”と認識されるようになったのは明治以降です。
日本国内で長寿の象徴だった菊は「死」を連想させる花となってしまいました。
現在、菊は種類やカラーも増え、バラやラン・ガーベラ等の色花で祭壇などでも飾ることが増えました。基本的にはこの花を供えてはいけない、この花はいいと言うことはありません。真言宗は花曼荼羅・色マンダラ【※1.】マンダラ宗とも謂います。
【※1.マンダラとは、本質や真理に至るための図のこと。壇,道場,円輪具足,集合などと訳される。本来の意味は仏の悟りの本質ですが,日本・中国では仏・菩薩が集まり充満しているさまを図示した形像(ぎょうぞう)曼荼羅をさしていう。仏の悟りの世界をあらわした密教(真言宗)独自の図。諸尊の集まった姿が図式的、幾何学的に描かれているのが特徴です。
曼荼羅は「本質を有する」という意味になります。斑(まだら)という言葉は、曼荼羅と言う言葉から発生したもの。円・渦・方形などの複数のシンボルを一定の秩序で組み合わせ、豊かな色彩とともに表現されたものを曼荼羅と呼んでいます。
曼荼羅とは、宇宙の本質を表したもの。「まんだら」の撥音(はつおん)「ん」が表記されない形。
多くの要素を持った集合体のことで、ここには「大自然界の空間・領域・場の本質を図式で示したもの」が表されています。マンダラ自体の訳は円板,円輪の意。壇,輪円具足などと訳します。】

*「煩悩も含めて、ありのままが悟り」と説くのが、密教系(真言・天台)の教えです。だから、
・花の種類はどんな花(百華)でもいいのです。“ありのままの花”を全て受け入れます。供花・祭壇の花・花色“花曼荼羅(全ての花を受け入れ肯定する)”思想だからです。

・更に供花(くげ・きょうか)・祭壇の花・花色は、どんな色でもいいです。
それは真言宗は、“色マンダラ(すべての色を肯定して受け入れる思想)”の宗派だからです。

ですが、まだこの供花・祭壇の花の花色は止めた方がいいと言う人がいるのも事実です。
また一般的にはお葬式の花と言えば、まだ「菊」のイメージかも知れません。それに花の色と言えば「白菊」のイメージかも知れません。
明治、昭和の長きにわたり、「葬式=菊=白菊」という認識でした。

当たり前ですが漱石の頃は葬式の花と言えば菊。
        <…あるほどの菊投げ入れよ棺の中…>  楠緒子
その菊は、きっと白菊だった…!。
漱石にとって、楠緒子は白菊の如き!?君なりきだったのでしようか!?。
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              “紅葉”に寄せて
         ‥・モミジ・紅葉・黄葉・椛のこと・…

春の“ 散る桜 残る桜も 散る桜”なら、秋の“ 散る紅葉 残るモミジも 散る【★1.椛】”でもあります。
「散っていくモミジがあれば、まだ美しく色付く葉もある。しかし、結局どちらも最終的には散る定めの紅葉」ということ、そんな無常なる我々の命について語っているのだと想います。しかし、毎年変わらず紅葉するこの自然、まさに悠久の世界を奏し続け、永遠の命が受け継がれることをも意味しています。
桜と同じく「今どんなに美しく綺麗に色付く紅葉でもいつかは必ず散る。」そのことを心得ておくこと。そんな心構えを詠った句です。
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“もみじ”を漢字で書くと“椛”と書く場合があります。「椛」は国字といって日本で作られた数少ない漢字の1つです。
以下サーチ【search】して調べました。
【★1.「椛」は「もみじ、紅葉」と「(樹木の)かば」の2つの意味をもった漢字です。この字は「国字」といって、日本で独自に生み出された漢字の1つなので、多くの中国で作られた漢字と違って音読みがありません。また、熟語もほとんど見られません。
この漢字の成り立ちはシンプルで、もともと「(樹木の)かば」を表す漢字に「樺」があり、ツクリの「華」を同じ読みをもつ「花」に変え、「椛=かば」の意味が生まれました。その後、「木」と「花」を組み合わせた字であることから連想し、「木の葉が花のように変化する様子」を意味する「もみじ」も表すようになったのだそうです。
ちなみに、「もみじ(紅葉)」とは「秋に木々の葉が赤や黄に色付くこと」を指し、その代表的な木が「カエデ科の樹木」。そのため、厳密には「もみじ(紅葉)=カエデ」の意味ではありません。
「椛」はどんな名前に使われる?
「椛」は2004年(平成16年)に名前に使えるようになった人名としては歴史の浅い漢字です。そのため、最近徐々に目にする機会が増えてきました。漢字の意味にある「モミジ」「カバ」の読みに加え、辞書や書籍によっては「カ」「ナギ」の名乗りもあります。「カ」はおそらく「花」の音読みを応用したもので、「ナギ」は愛知県にある「椛(なぐさ)」という地名をもとに生まれた読みだと考えられるのだとか…
ここから、一字で椛(モミジ)や漢字を組み合わせて百椛(モモカ)、椛音(カノン)、椛葉(ナギハ)、和椛(ワカバ)などの女の子の名前に多く使われるようです。】
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御詠歌に、
『錦おりなす紅葉も 夜半(よわ)の嵐にさそわれて いろはに匂えどちりぬるを、流れ静かに行く水と、人の命の定めなく、呼べど帰らぬ鹿島だち、吾が世誰れぞ、常ならん、黒目(あやめ)も分かぬ黄泉の路』とあります。
盛りに色付く秋のモミジも、春爛漫と咲く桜と同じく儚さの象徴でもあります。 

当山は鹿が出るような場所にはありませんが、「鹿とモミジ」は古来より組み合わされています。(狸は境内が広いので棲みついていります。)
ところで、
花札に「鹿とモミジ」があります。、なぜ“鹿”と“紅葉”の組み合わせになったのでしょうか。
以下サーチして調べました。
江戸時代、
奈良の興福寺の菩提院大御堂のそばの寺小屋に、三作(十三歳の少年)という子供が手習いをしておりました。
そこへ、庭先から一頭の鹿がやってきて、縁側に上がり込み、置いてあった大切な草紙(習字の半紙)を食べてしまった。
三作は追い払うつもりで、(ケサン=文鎮)(筆という説もある)を投げると、あいにくと鹿の鼻の急所に当たる!可愛そうに鹿は、死んでしまいました。
春日大社の鹿を殺した者は、【石子詰め(いしこづめ)の刑】に処せられるのが昔からの決りであり、幼い子供であっても神鹿を殺した罪は免れませんでした。
三作少年を、一丈三尺(約三メートル。年齢で穴の深さが決まっていたそうです)深い穴の中に、死んだ鹿と抱き合わせにして入れ、
頭の上からむしろを被せ、上から小石や砂利を入れて生き埋めにしたそうです。
今では考えられません!
母一人、子一人の二人暮らしだった三作の母親は、気が狂わんばかりに悲しみ、許しを乞いましたが許されず、三作は死んでしまいました。
その後三作の母親は、死んだ我が子の供養にと、紅葉の木を植え、三作の霊を弔う為に、明けの七つ時(午前4時)と、暮れの六つ時(午後6時)に鐘を撞いて供養に勤めたところ、49日目に観音様(稚児観世音菩薩)現れました。
この言い伝えから、これを十三鐘と称した。
その後、境内に十三重塔が建ち、近松門左衛門が世話浄瑠璃『十三鐘』として発表し、
後の世まで有名になりました。
子を持つ親の心情や、その時代の風習の残酷さなど、浄瑠璃を通し、多くの人々の涙を誘う物語が江戸の巷で大人気の作品となりました。
そして丁度、花札の図案を考えていたかるた職人たちのインスピレーションに『10月の代表的な美しい植物』に『鹿と紅葉』組み合わせたのかも…。隠語の一つです。
鹿に紅葉という隠語を付けた理由は、花札の紅葉(10月札)に鹿がでてくるためです。
ちなみに、この花札の紅葉(10月札)に出てくる鹿が、そっぽを向いてところから、シカトという言葉ができたといわれています。
ちなみに、無視するという意味の「シカト」という言葉があります。
【シカトの語源・由来】
シカトは、花札の十月の絵柄「鹿の十(しかのとお)」が略された語。
十月の花札は、鹿が横を向いた絵柄であるため、そっぽを向くことや無視することを「シカトする」言うようになった。
【警視庁刑事部による『警察隠語類集』(1956年)には、「しかとう とぼける。花札のモミヂの鹿は十でありその鹿が横を向いているところから」とあり、この頃はまだ「シカト」ではなく「しかとう」で、賭博師の隠語であったことがわります】
その数年後には、不良少年の間で使われ、「しかとう」から「シカト」に変化している。
やがて、一般の若者にも「シカト」は使用されるようになった。(語源由来辞典より)

以下サーチ【search】、
奥山に 紅葉(モミジ)踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋はかなしき
「古今集(猿丸大夫)」

【大紀元日本10月3日】一千億夜の昼の静けさを包んで、深山(みやま)を引き裂くように鹿の声が走ります。白鹿のその声は山を踏みしだく足元に、秋の気配を立ち昇らせるのです。

10月の花札には、「鹿ともみじ」が配されています。鹿は神の使いです。もみじ=紅葉は秋の季節の女神が纏(まと)う衣装です。秋の女神に抱かれた鹿が、紅葉狩りの宴を開始する時の声を告げ、鹿鳴の杜で仮面舞踏会が開かれます。神無月(陰暦10月)の神々は都会を去って秋の奥山に参集して、千秋の実りをもたらす謀(はかりごと)を巡らすのです。

「鹿ともみじ」の取り合わせの起源は花札ではなく、さらに遡ります。一般に「鹿ともみぢ」の起源とされているのは次の歌ということになっています。

奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき (古今集 秋 215(猿丸大夫)」

この歌は百人一首にも収められていて、よく知られています。この歌だけを取り出して解釈するならば、紅葉の落ち葉を踏み分けながら牝鹿を求めて鳴く牡鹿の声を聞くと、しみじみと秋の哀れが感じられる、という意味に理解できます。そしてこの「紅葉」は楓のいわゆる「もみじ」のことと理解するのももっともなのです。

古今集の歌は、人里離れた奥山で、散り敷かれた紅葉を踏み分けながら、雌鹿が恋しいと鳴いている雄の鹿の声を聞くときこそ、いよいよ秋は悲しいものだと感じられます。


葬儀とは一般に葬式とも言いますが、正確には葬儀式と言います。
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真言宗の葬儀。
【葬儀式は即身成仏への引導作法として示されます。剃髪・授戒・戒名の授与までが前段階で 大日如来のもとへ導くための準備段階の作法で、それ以降が後段階として 大日如来との一体感 すなわち 永遠の生命との一体感をきわめる作法となります。具体的な葬儀の進行内容は 真言宗内 宗派、地域により異なります。
弘法大師の作と言われるご詠歌(ごえいか)に「“阿字(あじ)の子が、阿字の古里、立ち出でて、また立ち帰る、阿字の古里”」は真言宗に於ける葬儀観を示したものとされます。阿は梵字で書かれ、大日如来とその生命を表わします。死者(亡者と呼ぶ)を宇宙生命の源である大日如来の大生命に包まれている弥勒菩薩の浄土である“都率浄土”へ送り返す事が葬送儀礼の精神とされます。従って葬儀式は即身成仏への引導作法として示されます。剃髪・授戒・戒名の授与までが前段階で 大日如来のもとへ導くための準備段階の作法で、それ以降が後段階として 大日如来との一体感 すなわち 永遠の生命との一体感をきわめる作法となります。具体的な葬儀の進行は 真言宗内 宗派、地域により異なります。】


浄土真宗の葬儀の仕方を調べてみたら、他の宗派と大きく異なります。葬儀の中に授戒と引導が無い為、葬儀は 日常の勤行(ごんぎょう)がそのまま葬儀式の構成となります。これは 在家仏教ゆえに戒が無く、“絶対他力”ですので 信心をいただいていない人が亡くなっても その人を往生・成仏される力は私たち凡夫(僧を含む)には出来ない、阿弥陀如来の一人働きによるのみとされ、“平生業成”から生前に信心をいただいていたならば、浄土往生と成仏は、すでに約束されている事なので、故人の成仏を祈る必要はない、との考えから引導も内容です。

=余話=以下サーチ【search】して、

紅葉や黄葉する現象や,そのような樹種に対しても〈もみじ〉の名前がつけられる。もともとは秋に紅葉する樹やその紅葉のことを〈もみじ〉と呼んでいたようです。のちに紅葉の美しい種類に対して〈もみじ〉の名が使われるようになり,特に,京都の紅葉で有名な高雄山に多いカエデのタカオモミジ(イロハカエデ)がモミジと呼ばれることが多くなる。
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紅葉(こうよう)、もみじ(紅葉、黄葉)とは、主に落葉広葉樹が落葉の前に葉の色が変わる現象のこと。ただし、読んで字の如く、葉の色が赤変することだけを紅葉(こうよう)と呼ぶ場合もある。
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そもそものもみじという単語は「もみづ」という動詞が由来です。平安時代より染料として使用されてきたベニバナなどから染料を揉みだし水色に染み出すという言葉を『もみづ』と定義していました。
この言葉から派生した 名詞の「もみぢ」は当時イロハモミジ、オオモミジなどを示すわけでなく
上記のような染みだすように草木が色づいたさまを「もみぢ」として使われていました。
もみじの由来となった言葉の出てくる文献は日本に存在する最古の和歌集、万葉集の柿本人麻呂の歌や、古今集にも出てきています。
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一方「かえで」はカエデ属植物の葉形が蛙の手の形に似ているとこから「かへるで→かえで」となまって今日に至ります。もみじと同じく万葉集にも和歌に蛙手(カエルデ)の表記が見られています。大伴田村大嬢(おおとものたむらのおおいらつめ)は
「わがやどにもみつかえるてみるごとに いもをかけつつこひぬひはなし」という和歌を詠み「家の庭の紅葉(こうよう)したかえでをみるたびあなたのことを恋しくない日はありません」という意味をうたっています。

漱石の随筆『硝子戸の中』二十五、『思い出すことなど』七に、この句が記されています。後者の場合は「有る程の菊抛(な)げ入れよ棺(かん)の中」という表記になっています。
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【*1.大塚楠緒子のこと、以下サーチ。 
大塚楠緒子は歌人・作家として明治の末に活躍した才色兼備との呼び声も高く、名をはせ、若くして亡くなってしまいます。漱石が彼女の死に寄せて詠んだのが、この句のようです。
『硝子戸の中』には、ふとすれちがった彼女の顔のうつくしさに、漱石は誰とも思い出せぬまま“じっとその人の姿に見惚(みと)れていた”ことが書かれているそうで、またほかのエピソードを上げて、彼女の控えめな優しさについて思いをはせています。それらをふまえてこの句を読むと、純粋な哀悼のほかに、なんとなく男女の情愛めいたものを感じそうになってしまいます。
また、それら背後のことを抜きにしても、楠緒子をおさめた棺の中に有るほどの菊花で埋めたい、と願う気持ちがよくあらわされている名句です。】


=余談@=
花を故人にお供えする文化は古く、6万年前のネアンデルタール人が死者に花を手向けた事が起源とされています。そこから今現在、宗教に関わらず、お墓や葬儀、または慰霊祭等でも故人へ花をお供えします。
イランのシャニダール洞窟で、ネアンデルタール人の化石とともに、ノコギリソウやヤグルマギクなど数種類の花粉を大量に発見されたそうです。人骨化石の付近から花粉の量が極端に多いので、「ネアンデルタール人には死者を悼む心があり、副葬品として花を遺体に添えて埋葬する習慣があった」と云う説があります。
以下漢字源より、
=余談A=
:=葬=: 
古代中国の経書の一つ『易』の中に 「昔の埋葬は草木で死者を厚く包み覆った」と書かれているように 「葬」は「艸(草)が上下二つ+死」で生い茂った草叢に 草の敷物を置き 死(死者)をその上に置き 又草をかけて隠し去ることを表しています 「礼記」に「葬とは蔵(ゾウ)なり」とある 
「草葉の陰」という言葉は草で隠す事から 草の葉の下の意 所謂墓の下≒あの世
「草葉の陰から見守る(墓の下から見守る)」になったのでしようか?
=余談B=
:=墓=:
「土」が形を表し「莫」(バク)が音を表す形声文字。死者を葬った後 日(太陽)が草の中に隠れて見えない様子 昔の人たちはお墓の中身は 太陽が昇ることのない暗闇の世界だと考えていたのです
「墓」の意味は『葬り(はぶり)のか処』と言う事から『はか』となったとされます
「莫(ばく)」の部分は 太陽が草の中に沈んで隠れる事を示す会意文字「墓」の字には死者を見えなくする土盛りの意
平らな物を「墓」 土を盛ったものを「塚」 高く築いたものを「墳」と呼びます
一般の庶民の墓が建てられるようになったのは 江戸時代になってからです 
それから寺の境内に墓が出来だしたのも江戸時代以降です 
=余談C=
:=死=:
死は「歹(骨の断片)+人)で 人が死んで骨きれに分解された状態 「ヒ」は人がひざまずく意味 死者の前で 人がひざまずいて祈りを捧げている様子を表した会意文字
=余談D=
:=喪=:
「哭(こく:なく)+口二つ+亡(死人でいなくなる)「哭」は声をあげて口々に泣くこと 「亡」は人の死を意味する会意文字 一説には木の葉がそぎ落ちて 枝だけになった状態をガクといい 遺体が骨だけになってやがて失われてしまう様子を表した文字ともいわれています
=余談E=
:=逝=:
「之+音符折」ふっつりと折れるように行ってしまうこと 「折」ははっきりと断つ ぷっつりと途絶えること かたく結ばれていた絆が離れて ばらばらになってしまう状態であることから 転じて「死」を表すようになりました また、中国古代の思想家・孔子が「逝く者は斯くの如きか(この世にあるものはすべて川の流れのように移ろい変わっていくのだろうか)」と述べているように 去ってしまって 二度と戻ってこないという意味でも使われるようです
=余談F=
:=忌=:
「心」と「己(キ)」という音符が組み合わさった形声文字 「己」には押さえつけられたものが 起きあがるという意味があることから 心中にハッと抵抗が起きて 素直に受け入れられない気持ち すなわち肉親などの死を表すようになりました 現代では 「忌諱(忌み嫌うこと)」「忌克(他人を妬んで勝とうとすること)」など どちらかというと「よくないとして避ける はばかる」という意味合いで使われることが多いようですが 天武天皇の時代には忌寸(いみき)という立派な姓氏も存在しました