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■ 79)肉筆浮世絵:繊細なタッチの美人(吉原?遊女)画=“見返り琴弾き遊女”2014.12.31

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【〓肉筆浮世絵素人・迷鑑賞〓】
・ 右に振り向いた表情。恥らいの残る年頃、15.6の小町顔。美人で器量よしの振袖新造。名披露目の頃で、将来の吉原?の花魁候補生。可愛いおちょぼ口に、細かく描かれた髪の生え際や、うなじの毛筋は一本一本緻密に描かれています。髪のほつれ、眉毛、まつ毛までも…!。振り返った視線をさらに、何処かに向けています。どこに…!?。おちょぼ口のことですが、生まれつきの人はおらないと想います。おちょぼ口になる方法は、化粧法から生まれるものだと想います。口紅の描き方なのだと想います。
・ 振り向いてくねらせた腰元。有名な切手になった菱川師宣の年増の「見返り美人」より若く、より腰をくねらせた妖美な愛らしい娘(こ)。
・クールビューティー(Cool Beauty)。
・ため息が出るほどの美しさ…!?。
・恥じらいを見せて振り向いたデビュー時の15〜16歳!。

・・・〓肉筆浮世絵、素人迷鑑賞〓・・・

(以下サーチ【search】しながら…。)素人“迷”鑑賞なので纏まりなく、重複します。

・肉筆ならではの色の鮮やかさがあります。ビューテフル肉筆浮世絵。
・落款が判別できないので絵師が判りませんが、目元の描き方をみると浮世絵初期の描き方と少し違うように想えます。時代が下がって幕末の頃の絵師が描いたのかも?
・右手の拇指(親指)と、食指(人差し指)、中指に琴爪をはめた手、仏像が印を結んでいるように、意味ありげに、左手で右手の琴爪をつけた中指を隠すように、軽く握った その手。その結んだ【*2.印】の意味(サイン)を説いてみたくさせます。恥じらいの 残る可愛げな仕草に描いています。誇らしげに「可愛い子ぶる子」→「かわいこぶりっ こ」→「ぶりっ子」の演出なのかも…!?。
【*2.の余話、
仏像の手の形や組み方を印契あるいは印相といい、略して「印(サイン)」と呼びます。
印は、サンスクリット語で「身振り」を意味するムドラーから来た言葉で、本来釈迦の身振りから生まれたものです。特に密教では、誓願や功徳を表わすものとして重要視され、教義の発展と共に細分化体系化されているものです。
古来インドでは手の形で意志を現す習慣がありました。これから発展して印相が生まれました。 印相は印契(いんげい)ともいいます。ふつうは簡単に印(いん)と呼ばれています。 印は指で輪を作ったり、両手を組み合わせていろいろな形をつくり出します。 印は仏様の御利益や担当部門、意志などを象徴的に表します。したがって仏像を見分けるときの重要なポイントにもなります。】
・右目の黒い瞳は少し上にずれています。右目の黒目と左の黒目が左右ずれていて、心做しか 緊張して目線が定まらないように想えます…?。やはりデビー時の緊張した顔かなー…!!?。ラグビーで活躍した五郎丸さんで話題になったルーティンの一種かも知れません?。
=ルーティンとは=
最近スポーツの試合のここぞという場面で、集中力を高めたり、ゲンを担いだりする意味合いで行われる選手独自の儀式的な所作を、ルーティンと呼ぶことも多い。パフォーマンスルーティーン、一連の体の動き(パフォーマンス)を伴ったルーティンワークのこと。

・現在のアイドル歌手が両手にマイクを握って振り返る一瞬のポーズにも似ているかも?
・その手は、水仕事をしたことが無いような、ふっくらした艶やかな指です。浮世絵の手は、顔に次ぐ最重要なテーマだと思います。
・それは、“心に萌えいずる春を感じる”といった語感で用いられている、現在の“萌え〜!”と同じように、画家がその表現を意識して、萌えさせるように描いたこの絵師(絵師は不明)は、当に江戸の“萌え絵師”です。
・吉原?遊女(美女)は今で言う「萌えキャラ」
・キュートな萌えキャラは、美少女アイドル。
・自筆浮世絵は、大名や豪商等が描かせたようですから、高級な絵具を使っているように想えます。素人目にもそのように想えます。
・高級な絵具を使い、初デビー時の穢れない美女を描いています。
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ここに浮世絵の遊女の画を載せることには憚れる思いですが、『華厳経』入法界品に現れる善哉童子が、法を求めて53人の善知識を訪ねて教えを請い、 53人の善知識を訪ねて教えを請います。その中には遊女まで、先入観や偏見を持たずに謙虚に教えを請う為に、善知識の一人に加えて教えを乞う為訪れています。
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『華厳経』入法界品に現れる童子の姿をした菩薩の名。法を求めて 53人の善知識を訪ねて教えを請うと言う内容です。
ついに普賢菩薩のところで十大願を聞き、阿弥陀浄土に往生することを願うようになる。華厳経(けごんきょう)』に説かれる善財童子(ぜんざいどうじ)の壮大な遍歴の旅の説話を描いたもの。虚空(こくう)のごとく澄んだ心をもつという童子。
華厳経入法界品(にゅうほっかいぼん)に登場する文殊菩薩(マンジュシュリー=もんじゅぼさつ)が教えを説き、発心して次々と53人の善知識(ぜんちしき)を歴訪し、教えを請い、最後に普賢(サマンタバドラ=ふげん)菩薩に会って、浄土往生を願ったという、仏法修業の段階を示したものとされるものです。どんな人でも自分以外は師(善知識)にしなさいとことなのでしょうか…?
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=余話=
見返りと言えば、以下珍しい姿をした阿弥陀如来像を紹介します。
京都永観堂は紅葉で有名です。紅葉だけではなく、長い歴史を持つ永観堂には、阿弥陀堂に祀られている「阿弥陀如来立像(あみだにょらいりつぞう)」が有名です。
ヒノキで作られた阿弥陀像は身丈が77センチで、小さな像ですが、端正で穏やかな表情が印象に残る阿弥陀像です。この阿弥陀像、ちょっと変わっていて、何かに語りかけているかのように、顔を左に向けているのです。その姿から、この阿弥陀像は「みかえり阿弥陀」と呼ばれています。でも、どうして、この阿弥陀様は左を向いているのでしょうか?このお寺は一般的に永観堂と呼ばれていますが、永観堂は通称で、正式な寺名は「聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)無量寿院(むりょうじゅいん)禅林寺(ぜんりんじ)」です。永観堂と呼ばれるようになったのは、このお寺の第七世住持である永観律師(ようかんりっし)に由来しているのです。〔※寺名は“えいかん”ですが、律師は“ようかん”と読みます。〕
律師は1日に6万遍もの念仏行を行い、“念仏宗永観”と呼ばれた僧で、東大寺別当(寺務を統括する僧)を務めた高僧です。
1082(永保2)年2月15日の明け方のこと、律師が冷えきったお堂で日課の念仏を唱えながら、阿弥陀如来の周りを行動(ぎょうどう:仏道の修行)していると、突然、阿弥陀如来が須弥壇(しゅみだん)から降りてきて、律師を先導するかのように行動を始めたのです。これに驚いた律師が立ち止まると、阿弥陀如来は左に振り返って、律師に対して「永観、遅し」と告げたと言われています。それ以来、阿弥陀如来の首の向きは元に戻らず、今も左に振り返った姿のままなのだと言う伝説があります。
左を振り返った阿弥陀如来の姿は「思いやり深く周囲を見つめる姿勢」「愛や情けをかける姿勢」「遅れた者たちを待つ姿勢」といった解釈がされているようで、実際に「みかえり阿弥陀」を間近で見ると、鼓動が聞こえてきそうで、心に何かを語りかけてくるように感じるということで有名で親しまれています。この阿弥陀如来は左から首をひねっていますが、この遊女の振り返りは右から振り返っています。何か特別の意味を含んでいるかのようです。
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浮世絵に描かれた実在した美人達。以下、サーチ【search】
@笠森 お仙“かさもり おせん”、1751年(宝暦元年) - 1827年2月24日(文政10年1月29日))は、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘。明和年間(1764年-1772年)13歳のころから店に出る。人気絵師、鈴木春信の浮世絵のモデルとなって一躍超人気アイドルに…。
A浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘、柳屋お藤“やなぎや おふじ”と、人気を二分した。
B二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし“つたや およし”も含めて江戸の三美人(明和三美人)の一人としてもてはやされた。
1763年(宝暦13年)ごろから、家業の水茶屋の茶汲み女として働く。当時から評判はよかったという。
1768年(明和5年)ごろ、市井の美人を題材に錦絵を手がけていた浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなる。
また、
喜多川歌麿が描いた、寛政の三美人(16.7歳)。
1.浅草の難波屋の“おきた”
2.領国の高島屋の“おひさ”
3.吉原の芸者“富本豊雛”

・当時の人も、この画を見て、“萌え〜!・萌え〜!”だったのかも…!?。
・従順な癒し系で、江戸の人たちもメロメロ…!。癒しキャラ。この娘(こ)は江戸の癒し美人ギャル。
・のこの画の娘(こ)は、「可愛い、萌える、癒される」三拍子そろったお江戸一の美人ギャル。お江戸のアイドル。
・お江戸のアイドルと言っても、吉原遊女は、一般庶民には会うことができない高嶺の花。基本的には旗本や、大商人たちが顧客のようです。
・振袖新造デビューの名披露目。その日の源氏名は、着物の柄と同じ「さざんか…?」
・胸キュンとさせるCOOL(かっこいい)なポーズ。
・普段踊りの稽古をしている姿を、切り取ったような一瞬なのかも…
・吉原?の遊郭内の他の若い娘も、“ぶりっ子”のそぶりを常日頃研究し合っていたかも…?
・花魁は江戸吉原遊郭で位の高い女性。吉原特有の呼び名です。
・京都島原の花魁は太夫というのだそうです。 江戸吉原は娼妓(つまり体を売る)さんで芸はその次、京都島原は芸妓さんで「芸」を売るのだそうです。現在京都の島原は西本願寺の裏手というか西側辺りだそうです。大夫はかつては、正五位の地位をも与えられた最高位の遊女で、御所の公家、皇族が相手であったため、教養に長けた芸妓でなければならなかったそうで、例えば、舞踊なら名取、師範になれるくらいです。
・可愛いさをアピール仕草。そんなぶりっ子。
・「豊かな黒髪・室内ばかりで過ごし、日焼けすることのない色白できめ細かい肌・富士額・中高で面長な美人顔。目元は涼しく、口はおちょぼ口、「酒を飲む時の(ちょこ=猪口)は、この漢字です。」という事は、おちょぼ口とは、猪口の先端の形が似てるから、これから取ったのでしようか? )それらの条件を満たした、江戸時代の美人顔です。
・“おちょぼ口”のことですが、生まれつきの人はあまりおらないと想います。
・“おちょぼ口”とは、現在の舞妓さんの化粧法、紅のひき方なのでは?舞妓さんの唇の化粧法を調べたら、棒紅と呼ばれる細く小さな固形状のものを、容器にとって水で溶いて塗り、艶(つや)出しと、唇の荒れを防ぐために、飴を溶かしたものを紅筆につけて重ね塗りするのだそうです。舞妓さんになってからの一年間は愛らしさをだすため、紅は下口唇にのみ少しだけひくのだそうです。そんな化粧法だったのかもしれません?
・当時の美人像も鼻筋が通りウエストが細い女性であり、そして化粧をせず「地物の上品」であることがポイントです。
・ 振り向いた腰。袂・裾模様には山茶花模様の雅な着物、この美女(吉原?遊女)に似合っています。品の良い着物の大人しい色合いが、この美女にお似合いです。恥じらいの残る年頃の身形(みなり)のいい、高位の吉原?遊女の画。
・一般の遊女が、遊郭で着るド派手な着物とは思えない、店では特別扱いの上品な着物を纏っています。身に纏った着物は垢ぬけていて、「琴の芸を嗜む高級な品のいい吉原?遊女」です。将来の花魁候補・サザンカ大夫!?。
・花魁候補の女性は、幼少の頃から禿として、徹底的に古典や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁などの教養を養い、芸事を仕込まれていたようです。この時代では最高のレベルの品格・教養です。
・この肉筆の浮世絵の遊女は、箏がお得意…!のようです…!!。
・有名な菱川師宣の「見返り美人」より、艶やかな美人。また、この「見返った吉原?遊女」のほうに若さを感じます。癒しキャラでもあります。
・菱川師宣の「見返り美人」はかなり年増?。
・この娘は振り返った視線が定まらない初々しさがあります。

浮世絵の始まり。以下、サーチ【search】

浮世絵の始まりは、明暦3年(1657)1月におきた江戸大火以降といわれています。町のほとんどを焼き尽くして何もなくなった後、復興していく江戸の町とともに、生まれ変わる流行を絵画化したのが浮世絵の始まりのようです。

浮世とは、
もともと浄土(あの世)に対して、仏教の厭世的な「憂世(この世)」で、移ろい易いとといった意味。、この字句から伝わるように、移ろい易いこの世を厭世的に表した言葉でした。しかし、江戸大火の復興景気の風潮のなか、つらい世の中だからこそ浮き浮きと楽しんで生きるべきだと考えるようになってきました。「浮世」の絵という意味の浮世絵は、生きている今を楽しみ、世の中を肯定的にとらえた庶民のエンターテイメントだったようです。
こうした意味を持たせた浮世絵は、吉原の遊女、歌舞伎役者、町で人気の美女、力士、火消しや風景画、物語などあらゆるジャンルが描かれました。
浮世絵は、版画と絵画(肉筆画)があり、絵画(肉筆画)は一点ものなので高価なものでした。版画は大量生産によって値段もリーズナブルなため、江戸庶民は、現在の雑誌や気に入ったポストカードを購入するような感覚で、浮世絵を手にしてゆきます。浮世絵ブームです。

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この画に、大綱宗彦( だいこう そうけん)が、沢庵和尚乃讃を書き入れています。
この画(軸)と大綱が書いた墨蹟から、以下の賛は“沢庵和尚”の讃だと想います。

この画に書き入れている大綱宗彦( だいこう そうけん)の墨跡の賛には、
『仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売る。汝五尺の身体を売りて、一切衆生の煩悩を済度す。柳は緑、花は紅の色いろ香。池の面に月は夜な夜な通へども 水も
濁さず影も止めず』
とあり、
沢庵和尚乃讃。八十八翁大綱寫とあります。
この画には、大綱宗彦(だいこう そうけん)が、沢庵和尚乃讃と書き入れています。
この画(軸)と大綱が書いた墨蹟から、以下の賛は一般には、一休禅師と云われていることもあります。賛意から考えて、如何にも一休の賛のように想えますが、大綱と沢庵は同じく大徳寺の歴史に残ります。同じ大徳寺大綱が沢庵和尚の【*3.讃】としていますから、間違いなく、沢庵和尚の讃です。
大綱最晩年の賛書きで、大綱の死は八十九歳。大綱死の前年の遺墨です。

以下、サーチ【search】
【*3.賛(讃)】は仏教で、法会や日常の勤行に詠唱された歌。讃文ともいう。敦煌から出た唐代写本の例はみな七言句で長短不定。一韻で通すものと換韻するものとの二種がある。梵語の経典に用いられた偈(げ)から発展したもので、宗旨を述べたり仏の徳をたたえたりしたものが多い。〈涅槃(ねはん)讃〉〈浄土讃〉〈念仏讃〉〈出家讃〉など。〈悉達太子讃〉(全60句)は《悉達太子修道因縁》という長編の変文の冒頭に枕として用いられてもいる。

『一休と地獄太夫をご存知でしょうか。
地獄太夫は室町時代に泉州堺の遊郭に実際にいた遊女です。山賊にかどわかされて苦界に身を沈めたのですが、これも前世の不信心ゆえであると・懺悔の心を込めて自らを「地獄」と名乗り、地獄模様の着物を羽織って仏の御名を唱えながら客を送り迎えたそうです。風狂で知られる一休禅師はその評判を聞いて地獄太夫のもとを訪ねました。
「聞きしよりみてうつくしき地獄かな」と詠むと、地獄太夫は「生きくる人の落ちざらめやも」と返したと言います。
こうして一休禅師と、地獄太夫はうちとけて語り合いました。地獄太夫が「出家して仏に仕えることができれば救いもあるものを」と嘆くと、一休は「五尺の身体を売って衆生の煩悩を安んじる汝は、邪禅賊僧にまさる」と言って慰めたそうです。また、有名な「門松は冥途の旅の一里塚 目出たくもあり目出たくもなし」という歌は、一休が地獄太夫に贈ったものだとの伝もあるそうです。そんな伝承から、上記の賛は一休のものとされた可能性があります。』しかし、賛の墨蹟を大綱宗彦が沢庵和尚として残しているので、一休ではなく沢庵和尚のものと確定されると想います。この画の遊女は太夫でなく、若い振袖*.新造です。
*.新造は「新艘」の意。色里の隠語で「舟」が女性を指すことから、新米の 遊女を新しい船に見立ててこう呼んだようです。新造は武家の奥さんを言うこともあるようです。+