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■ 70)関門海峡の<海の貴婦人・太平洋の白鳥>「日本丸」:「日本丸」の名を初めて使った船は九鬼水軍の海賊船。お大師さん(弘法大師・空海)も帆船の一種である遣唐使船で留学入唐。2013.5.9

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関門海峡=「あるかぽーと」に停泊し、
50メートルのマストに、36枚の帆を展帆(セイル・ドリル)した「日本丸」2570トン。ヘリコプターは関門海峡遊覧。

┏━━[「セイル・ドリル」]━━┓

「セイル・ドリル」とは、
岸壁に停泊したまま帆を張る訓練のことです。
展帆すると風をはらんで岸壁から、離岸しようとするので、二隻のタッグボートが船首・船尾から押していました。

  ┏━━━━━━━[「太平洋の白鳥」・「 海の貴婦人」]━━━━━━━┓

日本丸は、
優雅なゆえに「太平洋の白鳥」とか、「 海の貴婦人」などと呼ばれています。
入港すると「セイル・ドリル」で挨拶し⇔出航する前には「登檣礼(とうしょうれい)」で感謝の儀礼をします。

  ┏━━━━━━━[登檣礼(とうしょうれい)]━━━━━━━┓
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日本丸に乗船し、航海訓練を行っている実習生全員が、離岸時に港や歓送者に対して感謝の意を表し、白い実習服・黄色高所作業帽子に身を包み、マストやヤード(帆を取り付ける横方向の桁)に登り、脱帽の上「ごきげんよう」を三声する練習帆船最高の儀礼を、登檣礼(とうしょうれい)と言います。

  ┏━━━━━━━[奈良・平安朝の遣唐使船も帆船]━━━━━━━┓
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帆は「網代帆(あじろほ)」と呼ばれるもの。マストは二本で、竹や葦を薄く削ったものを平に編んで繋ぎあわせています。布製と比べても性能はあまり劣りませんが、ただ風が網目から抜けてしまうのと、重いのが欠点なのだそうです
当時は18回出港したが、無事任務を果たして帰ってきたのは、たったの8回だと言われています。当時は無事帰国の保障も無く命がけの渡航です。
帆船と言っても、当時はジャンク船型。船底いっぱいに幅の広い厚い板を横に使ったもので、不安定でした。

平安時代もずっと終わりに近い時代まで、そのジャンク船型が日本の大型船として国外と交流を行っていたようです。こうした多くの危険があるにもかかわらず、派遣される人物には、貴族の子弟のすぐれた人物が選ばれ、留学生や学問僧も、傑出した人材が選ばれた。そのため入唐経験者のなかには、帰国後にわが国の政治や文化に、かけがえのない役割をはたした山上憶良・吉備真備・最澄・空海といった人物が多くみられます。

遣唐使が帰国の際に伴ってきた鑑真をはじめとする多くのすぐれた渡来人や文物は、わが国の政治や文化の発達に大きく貢献した。現在まで伝えられている日本文化の基底は、この遣唐使船に乗っていった人々や、その人々がもたらした文物によって築かれたといっても、言いすぎではないようです。
3〜5世紀には、日本でもすでに簡単な帆が使用されていたようですが、本格的に帆が用いられるようになったのは7〜9世紀(奈良時代〜平安時代)にかけて中国へ渡った「遣唐使船」からです。中国のジャンクに似た120〜150人乗りの船でした。ただ、遣唐使船は構造的に未完成なもので、また航海に際して季節風を知らなかったりといった航海術も未熟だったため、多くの遭難船を出したことで知られます。

 ┏[弘法大師:空海も留学僧として、遣唐使船で入唐(にっとう)されました]┓
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遣唐使船は「四つの船」といわれ、4艘の船団からなっていました。
当時は博多から長崎の平戸へ渡り、東シナ海に出る安全なコースに設定されていたが、いったん天候が悪くなるとその影響を強く被る航路でもありました。
その年の船団は三船・四船は遭難し、海の藻屑となりましたが、第ニ船の「最澄」が乗った船は、無事上陸地:明州(又は揚州)に到着したが、遣唐使節の乗る第一船の「空海」の乗った船は、嵐のなか更に南へ流されて、漂着したのは福州長渓県赤岸鎮(現在の福建省霞浦県赤岸村)でした。暦は8月10日になっていた。事情を説明するため大使の葛野麻呂は、福州の長官に嘆願書を出したが、『御遺告[48]』によれば、大使の文章では、かえってますます密輸業者・海賊の嫌疑をかけられました。唐では文章によって相手がいかなる人物であるかを量る習慣がありました。困り果てた大使は、空海という無名の留学僧(るがくそう)が名文家であることを教えられ、空海に代筆させたところ、その名文、名筆に驚いた福州の長官は即座に遣唐使船の遭難を長安に知らせたとい謂います。このときの空海の文章は『性霊集』に遺っています。

司馬遼太郎は『空海の風景』の中で、「この文章は、空海という類を絶した名文家の一代の文章のなかでも、とくにすぐれている。六朝以来の装飾の過剰な文体でありながら、論理の骨格があざやかで説得力に富む。それだけでなく、読む者の情感に訴える修辞は、装飾というより肉声の音楽化のように思える。」と記しています。
入唐時最澄には弟子の通訳がついていたようですが、空海は通訳がなくとも自分で充分話が通じていたようです。

  ┏━━[日本丸と最初に命名されたのは九鬼水軍の海賊船━━┓
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日本丸 (九鬼水軍)という最初の命名について、サーチ【search】してみました。
古くは文禄の役に参加した*1.安宅船の九鬼水軍「日本丸」があるようです。当時の九鬼水軍当主九鬼嘉隆自らが設計にあたり、元の名は「鬼宿(きしゅく)丸」と呼ばれていたが、その偉容に感じ入った豊臣秀吉により「日本丸」と命名されたといわれます。志摩国鳥羽藩は、九鬼氏(戦国時代日本で有数の海賊にして水軍)から初まる鳥羽藩は、
最初は九鬼氏(毛利を破った日本でも有数の海賊にして水軍)が二代続き、二代で終わる。兄弟船に「波切丸」(なきりまる)など同型艦が数隻有った。異説では、九鬼嘉隆は織田信長の命により、世界最初の鉄甲船を数隻作っており、その中の1隻がこの日本丸であるともされるが、この説では信長による命名となる。
*1.安宅船(あたけぶね)は、室町時代の後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた軍船の種別。
大きさは全長は151.5尺(約46m)、全幅29尺(約9m弱)、千五百石積み、百挺櫓で将士・水主(かこ)を合わせて180人が乗り組んだとい謂われ、大きさについては全長十五間(約27m)、幅五間(約9m)との異説もある。甲板上に三層の楼閣を設け、大筒を三門備えた当時としては類を見ない巨船であった。帆は順風の時のみに使用し、漕走を主とした。

文禄の役では九鬼水軍の旗艦として数度の海戦に参加しており、『志摩軍記』には朝鮮勢の攻撃を寄せ付けないその偉容ぶりが記されている。同役では多数の船舶が失われたが、日本丸は生き残り日本に帰還している。のち鳥羽に回航され、九鬼氏の後に鳥羽城主となった内藤伊賀守忠重によって500石積み60挺立の船に縮小改造の上「大龍丸」と改名された。