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■ 67)幕末の神仏分離(廃仏毀釈)までは、当山の鎮守だった「紅葉(もみじ)稲荷神社」:当山の山号は金谷山(モミジ彩る山)2012.12.5

(画はクリックで拡大表示)

「左は護摩堂。」「右奥は紅葉(もみじ)稲荷神社第二鳥居と第三鳥居」

神社境内の公孫樹は市指定の保存樹。
この神社は明治の神仏分離令までは、当山の鎮守でした。
今では別の宗教法人になり豊前田町の財産。
紅葉稲荷神社の名は、
当山の前の谷(笹山と豊前田の間の谷)が、昔、モミジ谷と言われていたことから付けられた名前だと思います。モミジ谷という名所の名残だった?豊前田商店街に対して、今でも豊前田・谷と言います。
きっと笹山と豊前田の間の谷が、モミジの名所だったのでしょう!?亦、当山の山号が金谷山(かなやさん=金色に輝く谷=モミジ彩る山)と付けられたのも、ここのモミジ谷に由来するのかも?
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【広辞苑】によると、モミジは、
上代ではモミチと静音。上代は「黄葉」、平安時代以降「紅葉」と書く例が多いいとあります。秋に木の葉が赤や黄色に色づくこと。⇒「紅葉・黄葉/モミジ」

豊前田町の谷は、古くは紅葉谷(モミジ谷)と言われていたので、※1.神仏分離で別れたあたりから、新たに社名を付けなければならないので、紅葉稲荷となったのでは?!
以前は楓の紅葉が綺麗でしたが、今では周りの桜が高く覆い茂って、日影となりあまり綺麗に発色しなくなりました。

幕末期当山の鎮守だった頃は、境内の一隅にあったので、神社の境内はこれ程は整っていませんでした。大正期頃から整ってきたように思います。
本格的には豊前田町が遊廓街として整って来てから、*1.遊郭の旦那衆達によって整備されたのではと思います?
当山下の豊前田町が、遊郭で賑わっていたころは、勤めの綺麗どころが、先ず遅い朝を迎えて、寺の下(日和山の伏流水)を汲み上げ沸かした紅葉湯(モミジ湯=銭湯)に入り身を清めて、それから当山と紅葉稲荷神社をお参りして、その日が始まったといわれます。今は遊郭も、紅葉湯(銭湯)も消えてなくなり、当時の面影もない、寂しい豊前田町になりました。
福仙寺の下の豊前田町を埋め立てる下関築港計画(最初の計画は明治27年に起こる)しかし何度も賛成・反対の声が上がり、細江・豊前田町の全面埋め立ての話が何度も消えたり、起こったり、いよいよ大正二年に賛成・反対の市会の選挙で、この時の賛否両派の講演会が福仙寺で行われました。それ以後細江・豊前田町が発展して行きます。そんな関係からか、以前は紫の衣を着て境内を通ると水商売のようなご婦人がわざわざ近づいて来て「触らしてください」と言って、衣を触って行かれる人がちょこちょこおられました。水商売の人(女)がよくする「験(げん)担ぎ」だったのでしょう。昔は花街の地域ではよくある話だったのでは?今ではそんな方もいなくなりました。
*1.余談だけど、遊郭は、世界的に見ても、港町にはつきものです。下関も昔は日本有数の港町。
北前船の寄港地としては、本州の最西端にあたり、西日本有数の色町だった歴史がありす。
下関の遊郭は幕末までは、現在の唐戸の近く稲荷町にありました。そこは晋作・竜馬・博文のような名を遺した勤王の志士達が、盛んに遊んだ西日本有数の港町。しかし北前船の役目が終わり、山陽鉄道の駅が、更に本州西端に遷り、山陽の浜・現細江町なると、大陸に渡るには必ず*2.宿泊が必要になるために、遊郭は当山下の豊前田町に移ります。
昔の福仙寺は古い写真を見ると、今のモミジ稲荷神社の辺りに在った?ようです。以前の寺はここから下りて、現在の処に昭和八年、豊前田の遊郭の旦那衆の寄付を受けて再建されています。そんなことから考えると、幕末の全国に知られた昔の稲荷町にあった稲荷神社に倣って、遊郭の旦那衆達が寄付で、元の本堂・庫裏の後に元々在った福仙寺の鎮守を、モミジ稲荷神社として建立したのでは?とも想います。
*2.ステーションホテルが日本で初めて出来たのが、当時有名な下関の山陽ホテルです。

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※1.参考(以下数種の資料・事典を総合して) 
《明治維新のおこなった、宗教政策の大転換………》は、

●王政復古をもとに明治政府は 祭政一致を目指し神社を国家統合の機関にしようと意図した。天皇の政治支配を正当化する根拠を「記紀神話」に求めたのである。神道だけがただひとつの国教として正当化した。「日本は神の国」であったのである。

●幼い天皇(当時15才)を補弼(ほしつ)している人々が 政治を壟断(ろうだん)しているという批判に対抗するため、天皇みずからが、政治をするという体制を整える必要があったのである。そのため「王政復古」「祭政一致」の実現をめざした。

●神仏分離令や大教宣布は、神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などを急激に実施したために混乱した。明治4年(1871年)ごろ終熄したが、影響は大きかった。廃仏毀釈運動は、地方の神官や国学者 が扇動し、神職が先頭になって起こしたのだといわれています。



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