戻る
■ 55)当山;兼務寺の一つ「菊川町七見;法輪寺」ご本尊『虚空蔵尊』〓菊川盆地「小日本」の民間説話〓2011.2.20

 
 

(画はクリックで拡大)

ご本尊は天長年間(824年〜834年)に、京都嵯峨;法輪寺の道昌により、一木の秋田杉から、同じ虚空蔵尊を「一木三体」で彫られたもの。その三体の中の一体として伝承。
(…このお像は何時の頃か、かなり修復されています…)
初め、故あってこの尊像は、奥州合津に奉移し、藤原氏の次坊なる者(のち、出羽湯殿山で出家し、善光坊高覚と名乗る)が護り、帰依していたが、「是より西方数千里の、長門の国;豊浦郡七見郷に移せよ」と、ご本尊自らの夢のお告げがありと遷す。その時以来、官命を受けて、護国山国正院と号した。
*⌒*⌒*⌒
三体の内、
一尊は有名な、京都嵯峨法輪寺に安置されたようですが、他の一尊は何処なのか、全く判りません。
ネットで情報を摂ると、何故か日本三大虚空蔵尊の内の一体としている寺は、全国彼方此方にあります。故に今となっては、もう一体は、何処にあるのか判りません。

☆☆・・・………・・・長門;菊川町七見・………・・・………・・☆☆

         【毎年二月十一日は、ご縁日です】

☆☆・・・………・・・護国山法輪寺・・・………・・・………・・ ☆☆
建暦二年(1212)善光坊;高覚の開祖で、堂宇を建立。
最初は法輪寺<中の峰>にありしが、西安(1299〜1301)年中に堂宇悉く全焼し、現在の位置に下ろし再建される。
開祖は権大僧都善光坊高覚で建暦2年(1212)七見中の峰に堂宇を建て虚空蔵菩薩を安置したが、正安年中(1299〜1302)野火により全焼。1世紀近く後に鎮守の天神小社と共に現在地に再建したと伝えられる。
本尊は日本三虚空蔵菩薩と称されるものの一つで秘仏。毎年2月11日にのみご開帳されます。
この寺の本尊は昭和41年に、昭和42年に本堂と残されていた旧い棟木、そして天神小社が山口県の有形文化財として指定されています。
また、指定された棟木に残された墨書からは、この本堂は応永20年(1413)に熊野若王子の社殿として建てられたものと読み取れます。


          ★☆※*・・・………・・・………・・
           本尊坐像・本堂共に県文化財に指定。
           ・・・………・・・………・・*※☆★

☆・.・・・‥‥・・・………・・………・・・………・・・………‥‥‥・・・☆・.
 この“法輪寺”がある菊川町に、「小日本(こにっぽん)」と言う、民間説話があるので、紹介します。
☆・.・・・‥‥・・・………・・………・・・………・・・………・・・・・☆・.

[民話・小日本]
┏━━━━━━━[以下、豊田町・ふるさとこぼれ話]参照━━━━━━━┓

ある晴れた日、庄屋の父子が、長府毛利のお殿様に挨拶に向かう途中、貴飯峠(*1.きばだお・きばとうげ)から菊川盆地を見渡します。
初めて見た息子は、自分の小さな村よりも、はるかに明るく拓けた、黄金の穂が波打つ、大きな盆地に感動します。
息子はこの菊川盆地を見て、これが大日本ならぬ、「小さな日本」≒「小日本(こにっぽん)」と、感激して叫びました。以来その話が広まり、菊川町の広大な盆地を、『小日本』と呼ぶようになったという民話。
それは、「井の中の蛙」的な説話です。
その昔、長府毛利領のいちばん北の隅、修験修行の聖地・狗留孫山(くるそんざん=標高六一六m)の麓に、杢路子(むくろじ)という村がありました。それは狗留孫山奥、暗い谷間の小さな村です。
其処に庄屋がおり、頓知のきく(*2.ハツメ)な子供がいました。親は日ごろこの子の将来を楽しみにしていて、山奥の生活しか知らない子どもに、たえず広い世間の話を聞かせてやっていました。
 …(*2.ハツメ≒利口な)…
或る日、父親は殿様のご用で、息子やお供を連れて、長府の役所に行くことになります。
明日はいよいよ出発するという日の息子は、はじめて広い世間へ旅にでるというので、はしゃぎます。
父親はその様子をみて、道中のことや、殿様のお屋敷にあがってからの行儀について、こと細やかに言って聞かせました。
「世間は広いもんじゃけぇ、めったなことを言ったり、知ったかぶりなことをすリゃ、大恥をかくことになるけえぇよ!、お前、わしの顔が、よう赤くなるような事を言うから、気いつけえよー!」と念を入れます。
あくる日の朝早く、その父子は、お供を連れて屋敷を出ました。足取り軽く心弾ませながら、峠に出たのが丁度お昼頃、「やれやれ、此処まで来たのぉ〜!」と、一行はここで、一休みすることにしました。
この貴飯峠(*1.きばだお・きばとうげ)は、大変見晴らしのよい所です。旅をする人は誰でも足をとめ、盆地を見下ろす景色の好い所に、腰を下ろし弁当を開きます。
父親達の一行も、ここで腰を下ろしました。目の下にひろがる盆地の眺めは、杢路子の山奥の景色の事を思えば、明るく日が射さして広大でした。
(*1.貴飯峠は、下関市にある峠。下関市菊川町貴飯と下関市豊浦町川棚との間にある国道491号線の峠です。 分水界で、峠の北は川棚川の水系で日本海に至り、峠の南は、木屋川の水系(貴飯川、田部川を経て木屋川)で瀬戸内海に至る。)

いつも父から、話には聞いていた息子ですが、自分の小さな村から出て、初めて貴飯峠から見る、眼前の盆地。南に広がるその盆地は、広く明るく想像以上のもので感激します。
それで感動のあまり、
「お父さん!なんたって日本は広い、こんな広い処もあるんじゃの〜!」と、大声をあげました。
父親は息子に、「ばかたれえー。それじゃけえー、俺がゆうたじゃろう〜!、ものを知らんにも程がある。人前でめったなことをいうと、大恥をかくんぞ!日本ちゅうもんは、この10倍ぐらいはあるんじゃ〜!ようおぼえちょけー!」と、大声で会話を交わします。
それを聞いて、親が想う利口な息子は、「親父さん!そんなら、ここぁー、小日本みたいなんじゃな〜!」と、答えると、父親は得意になりました。休息を終えた一行は、長府の殿様のもとへと、貴飯峠を下って行きました。
この日、少年が言葉にした「小日本」。
この父子の貴飯峠での会話は、その日お供をした者の口から、いつのまにか一円に広まって行き、誰となく、現在の菊川盆地一帯を、「小日本」(こにっぽん)と、呼ぶようになった。と、さ!。微笑ましい話しです。

 =余話=
中国で「小日本」と言えば、日本国を「蔑称」・「小バカ」にした呼称なのだそうです。

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
この民話は、
赤塚不二夫の「天才バカボン」の漫画の中の、バカボン親子的でもありますよねー!

この民話の中での、狗留孫山・杢路子・貴飯峠・菊川盆地は実在する地名です。
=余話=
無患子と言うのは、
無患子・無患樹・木患子、子が患うこの無い樹の意味です。山地に生え、15m〜20m になる落葉高木。
偶数羽状複葉の葉は長く5〜15cmで互生し、4〜8 対ある小葉には鋸歯はなく、雌雄同株で、6月に黄緑色の小花が円錐形に集まって枝先に咲きます。秋の黄葉が美しく、果実は直径2cmの黒い球状で、厚い外皮があって秋には半透明の黄褐色になり晩秋の落果時に中でコロコロと音を立て、数珠や羽根つきの玉に使われます。
学名のSapindus:ムクロジ科は「インドの石鹸」の意味で、ムクロジの果皮に約10%の化学物質サポニンが含まれ水に溶けると泡立ちがよい。
平安の昔は当時としては灯明の煤でも汚れもよく洗い落とすところから、石鹸として洗濯や洗髪に用いられて、平安時代の公家屋敷には多く植えられていたようです。

ムクロジ科の落葉高木。本州中部以西の山地に自生。高さ15メートル以上になる。葉は細長い小葉からなる羽状複葉。夏、雌花と雄花とが円錐状につく。実は球形で黄褐色に熟し、中の種子は黒色で堅く、羽根つきの羽根の玉に使う。果皮はサポニンを含み、泡立つので石鹸(せっけん)の代用とされた。